第30話:縁結びの令嬢は、もう結ばない
辺境に、春が来た。
鏡の中で、ハンナが櫛を置いた。
「お嬢様。本日は——木陰には、まいりませんように」
「……ハンナ」
「リネット様の祝言の日、お嬢様は、輪の外の木陰に、お一人でおいででした。お声をおかけしなかったのが、わたくしの、いちばんの後悔でございます」
「祭壇は、まんなかでございます。お間違えのないよう」
泣くまい、と思った。まだ、朝だ。
*
祭壇は、国境の橋のたもとに、市の花で組まれた。
そこに、わたしが結んだ縁が、全部、来ていた。
三十年いがみ合ったガレスとボルドが、上座を譲り合った末に並んで座り、杯に酒を注ぎ合っている。身重のリネットが、それを笑う。クラリッサ様は、絹の裾を土に引きずって、「誰も、わたくしの家格を聞いてまいりませんもの」と笑う。橋の向こうから、サルデ村の人々が、胡椒の壺を抱えて渡ってくる。誰も咎めない。
レオノーラ様は、まだ帳面を持っている。
「四十一。過去最高ですの。あなたの祝言は、市にとって大変よろしい」
*
祭壇の中央に、アルヴィン様が立っていた。
わたしは、その人の前へ、歩いた。輪の中を。人々が、道を空ける。
——縁を結ぶ側。祝う側。見送る側。祭壇の中央に立つことは、決してない、外側の人間。
あの日、木陰で、そう思った。
その女が、いま、まんなかを歩いている。
「……綺麗だ」
言ってから、この人は真っ赤になって、明後日を向いた。
わたしは、笑った。笑いながら、少し、泣いていた。
*
誓いは、辺境のやり方だった。酒ではなく、互いの椀に、相手の水を注ぐ。
「……水、ですか」
「三十年、それで揉めた土地だ。水を分けられん者は、何も分けられん。……そういう、意味らしい」
もらい水だ。
三十年の遺恨も、国と国の縁も、この祝言も。結び目は、いつも、一杯の水だった。
椀を取り、この人の椀に、水を注いだ。
*
宴のあいだに、縁の相談の列ができた。花嫁の衣装のまま、一件ずつ聞いた。列の最後尾に、旅の外套の男が立っていた。
「……殿下」
「順が、来た。二刻、かかった。村の縁は、大事だそうだ。誰も、順を譲らん」
かつて大広間の高みから、わたしを断罪した人が、村人の列の、いちばん後ろに。
旗も供もないから、誰も気づかない。前の女が、「兄さん、次だよ」と、彼の背中を叩いた。彼は、「ああ」と答えた。
勝ち誇る気は、起きなかった。ただ、事実として、そうなっていた。
「王家の縁では、ない」
先回りして、彼は紙を出した。
「王領の、東の村と、隣の村だ。水の分け方で、三十年、揉めている。私では、裁けなかった」
「もらい水ですか」
「……なぜ、わかる」
「いいえ。存じません。——ですが、たいてい、水です」
初めて見る、力の抜けた笑い方だった。
「敵わんな。……頼む、ロザ」
「——お引き受けします」
*
宴の隅で、マリカが、サルデ村の若者の襟首を掴んでいる。
「うじうじすんな! 行け!」
蹴られた男は、ロウ村の娘の前に転がり出た。
言葉が、通じない。だから彼は、胡椒の壺を差し出した。娘は、しばらくそれを見て、自分の椀の粥を差し出した。
わたしは、一歩も、動かなかった。
「……見てたでしょ。べ、別に。縁とか、結んでないし」
「マリカ。糸を、読みましたか」
「……読んでない。読めないし」
「では、何を、見ましたか」
「……顔。あいつ、粥もらう時、三回も、あの子の列に並んでた。あほみたいに」
「それが、糸です。——あなたは、読めていました」
マリカは、乱暴に、目元を擦った。
「……べ、別に。泣いてないし」
*
日に焼けた男が橋を渡ってきた。服の埃が、乾いた赤い色をしていた。
「ひと月半、旅をしてまいりました。南の、海沿いの土地から」
差し出された書状は、読めなかった。文字が、違う。ただ、末尾に一行だけ、この国の言葉で、震える字で。
『その縁は、結べますか』
誰かが、この一行のために、この国の言葉を覚えたのだ。その道の、向こう側で。
「あたしが、行く」
マリカが、言った。
「まだ、早いです」
「早くない。あんた、さっき言ったじゃん。あたし、読めてたって」
王都で初めて釣書を渡された時の、わたしと同じ目だった。
——この子は、いつか、行く。
「その話は、明日」
「なんでよ!」
「今日は、わたしの、祝言です」
*
夜。橋の上に、灯りが、点々とともっていた。
「こんなところに、いたのか」
杯を二つ持って、アルヴィン様が、隣に来た。
「木陰では、ありませんよ」
「……知っている。木陰を、三本まわった。おらんかった」
「輪の中に、おりましたので」
杯の一つを、渡された。あの日と、同じように。
「あの日、あなたは仰いました。『縁定めだ、と言うなら、殴るぞ』と」
「……言った」
「今日は、なんと仰いますか」
この人は、少し考えて、言った。
「言わん。——今日のお前は、ただの縁定めでは、ないからな」
「ロザ。前に、言ったな。役目の外に、あってもいいものが、あるのかもしれん、と」
「覚えております」
「あれは、間違いだった。——役目の外じゃない。役目の、まんなかにあった。お前が縁を結ぶから、この土地に灯りが増えた。増えたから、俺は、お前を見つけた。同じものだ」
*
風が、川から上がってきた。雪解けの水と、焼けた麦と、辛い粥の匂いがした。
王都で結んだ何百の縁の、どれ一つ、わたし自身のものではなかった。
いま、わたしは、そのまんなかに、立っている。
アルヴィン様が、手を差し出した。わたしは、その手を取った。——今日も、わたしから。
硬くて、剣だこだらけで、温かい手だった。
明日には、また荷が橋を渡る。机の上の書状も、いつか、あの子が読みに行くのだろう。
——わたしは、もう、王家の縁は、結びません。
でも。
この土地の縁なら、いくらでも。
第30話、そして第二部の最終話をお届けしました。第8話でロザは、輪の外の木陰に座っていました。「祭壇の中央に立つことは、決してない、外側の人間」。あの一行を書いたときから、この回のために書いていたようなものです。あの日、木陰まで杯を届けに来た男が、今日は木陰を三本まわって、彼女を見つけられませんでした。彼女が、輪の中にいたからです。
「縁を組む道具」と呼ばれた女が、祭壇のまんなかに立つ。かつて彼女を断罪した王家は、村人の列のいちばん後ろに、二刻。「兄さん、次だよ」と背中を叩かれながら。ロザは勝ち誇りません。溜飲は、声を張らないほうが深く下がるものだと思っています。
誓いが「水を分け合うこと」だったのは、書きながら決めました。三十年の遺恨も、国と国の縁も、この二人の縁も、結び目はいつも一杯のもらい水でした。そしてタイトルは、断罪の日にロザが投げ捨てた言葉です。それが最後に、意味を裏返して戻ってきます。
机の上には、読めない文字の書状が置かれたままです。『その縁は、結べますか』。——あれを読める人が、ひとりだけいます。そして読み上げられた一文は、ロザリンド自身が書いた一行のせいで地図から消えた土地がある、という一文でした。
第三部『帳面にない縁』、続けてお届けします。




