第29話:わたしの縁は、わたしが結びます
雪が緩んで、国境の橋に、市が立った。
誰が触れを出したわけでもない。ロウ村の男が塩を置き、翌日、サルデ村の女が麦を並べた。七日目には、川を挟まず、同じ橋の上に、両国の筵がずらりと並んでいた。
百枚目は、ついに書かなかった。
数え終える前に、市のほうが、増えていた。
——縁は、これから結ぶのではない。もう、そこにある。
ガルディアの軍が退いたのは、その翌々日だった。
「なぜだ」
地図を巻きながら、アルヴィン様が言った。赤い線の内側に、もう、旗はない。
「ひと月の市の実入りが、公女様の値を、超えたそうです。本国が、そろばんを弾きました」
わたしは、答えた。
「縁は取引だ、感情は誤差だと、あの方は仰いました。——その物差しで、あの方は、負けました」
*
レオノーラ様は、橋のたもとで、渡っていく荷を数えていた。
公女の装いではない。厚い外套に、泥の跳ねた靴。
「誰かが数えておかねば、これは『たまたま』で終わりますでしょう。どちらの旗も立てない市の後見人は、誰の家門でもない者にしか務まりませんの」
彼女は、帳面を閉じた。
「縁定め。あなたは、わたくしを娶らなかった代わりに、務めをくださいましたのね」
娶る、という言葉を、この方は、わざと使った。
「値踏みなさい、と申し上げたのに。……値をつけられるより、ずっと業腹ですのよ。断りようが、ございませんもの」
そう言って、この方は、初めて、笑った。
「これまで、わたくしの務めは、いつも、誰かに与えられたものでした。……これは、わたくしが、選びました」
*
オルフェウス様は、供も旗もなく、一枚の辞令を持って来た。
「王家は、縁定めの職を、ヴェルンフェルトに置く。王印は、押した」
わたしは、両手で、それを受け取った。
「戻れとは、言わない」
彼は、遠い山を見た。
「あの日、私が手放したものが、何だったのか。半年かけて、国がまるごと教えてくれた。……高い月謝だった。詫びは、もうした。二度言うのは、詫びではない。甘えだ」
そして、馬に手をかけた。
「幸せに、な。ロザ」
「……ありがとうございます」
馬が丘の向こうに消えるまで、見送った。
——切られた糸は、恨みになって残る。わたしは、あの広間で、そう言った。
けれど、この人との糸は、切れたのではなかった。ほどけたのだ。
ほどけた糸は、恨みにならない。
*
その夜から、アルヴィン様の様子が、おかしくなった。
夕餉で、パンを二つ、同時に取った。
「お嬢様。辺境伯様は、この三日で、紙を十七枚、無駄になさっております」
ハンナが、盆を抱えたまま、そっと言った。
「屑籠を片づけるのは、わたくしの務めでございます」
*
呼び出されたのは、翌日の夕暮れの、橋だった。
市は畳まれて、筵の跡だけが残っている。夕日が、水の面で割れていた。
「言葉は、うまくない」
「存じております」
「……即答するな」
アルヴィン様は、懐から折り畳んだ紙を出して、両手で、差し出した。
「……釣書だ」
「どなたの」
「俺のだ」
開いた。字が、ひどかった。
『ヴェルンフェルト辺境伯 アルヴィン 二十六』『領地 痩せている』『持参金 なし』
「釣書に、そういうことは、書きません」
「嘘は、書かん」
そして、最後の欄で、手が止まった。
『人柄』
そこは、真っ黒だった。書いては消した跡が幾重にも重なり、一字も、読めない。
「……人柄の欄が、真っ黒です」
「書いては、消した」
「何度も」
「十七回だ」
屑籠の、紙の数だった。この人は三日かけて、自分の人柄を、十七回、消したのだ。
「なぜ、消されたのですか」
「……どう書いても、お前に、読まれる」
彼は、顔を背けた。
「お前は、縁定めだ。俺の釣書を、お前が読む。——それが、いちばん、怖かった」
*
「ロザ。俺は、この土地に、縁など要らんと言った。お前が来た日にだ」
「覚えております」
「あれは、嘘だ。……要らんのではない。要る、と言えば、また壊れると思った。姉が、壊れたように」
川の音が、二人のあいだを流れた。
「縁など——」
彼の顎が、硬くなった。口が、つぐまれた。
わたしは、待った。
この人が「……縁など」と言いかけて口をつぐむのを、何度も見てきた。そのたびに、飲み込んだ言葉を、わたしが代わりに読んだ。それが、わたしの仕事だった。
けれど、今日は、読まなかった。ただ、待った。
「——縁など、と言っていた男が、言う」
彼は、言い切った。つぐまなかった。
「……俺と、結んでくれ」
*
わたしは、この人と、わたしのあいだの糸に、指を伸ばしかけて——やめた。
指先は、震えなかった。
「アルヴィン様。縁定めとしては、この釣書に、お返事は、いたしません」
「……読まんのか」
「読みません」
わたしは、言った。
「他人の縁なら、一目で読めます。家格も、持参金も、遺恨も、傷も、全部。——でも、自分の縁は、読むものではないと。あなたが、教えてくださいました」
『縁は、読むものじゃない。……結ぶものだろう』
あの朝は、この人が、わたしの手を取ってくれた。
今日は。
わたしは、一歩前に出て、この人の、剣だこだらけの手を、わたしのほうから、取った。
「ロザリンド・アルシェットとして、お答えします」
見上げた。
「わたしの縁は、わたしが結びます。——結びます。あなたと」
*
アルヴィン様は、しばらく微動だにせず、それから、空いているほうの手で、顔を覆った。
「……祝言は」
かすれた声だった。
「祝言は、いつだ」
わたしは、握った手に、力を込めた。硬くて、温かくて、十七回の墨が、まだ指に残っていた。
「春に」
橋の向こうで、雪解けの水が、光っていた。
「この土地に、春が来る頃に」
第29話、お読みいただきありがとうございます。第13話でアルヴィンが言ったのは「お前を選ぶ」でした。あれは、彼が彼女を選ぶ告白です。今回は違います。「結んでくれ」——縁を拒み続けた男が、生まれて初めて、自分から縁を結びに行きました。第2話、門の前で「辺境に縁など要らん」と言い放った、あの男が。
「……縁など」と言いかけて口をつぐむのが、彼の癖でした。最後にもう一度だけ出して、今度は、つぐませませんでした。
ロザの答えは「読みません」です。他人の縁は一目で読めるのに、自分の縁だけは読めなかった女が、読むことをやめました。「縁は、読むものじゃない。結ぶものだろう」への、返事です。手を取ったのは、今度は、彼女のほうから。
十七回書いて十七回消した釣書と、帳面を抱えた公女と、幸せにと言って去った男。戦のあとに残ったのは、値のつかないものばかりでした。
次話、辺境の祝言です。あの日、輪の外の木陰にいた女が、祭壇のまんなかに立ちます。ブックマーク・評価が力になります。あと一話、どうぞお付き合いください。




