第28話:値のつかない縁
「橋の上で、話しましょう」
ヴァレンティンは、そう言ってきた。
*
三十年ぶりに架かった橋の、真ん中。どちらの国でもない場所で、わたしたちは向き合った。両岸に人がいた。村の者もガルディアの兵も、みな見ている。
彼は懐から台帳を出した。黒い革の、分厚い綴じ帳。
「エルデンフェルト王国の家門は、百四十二家です」
頁をめくらずに彼は言った。
「うち、四十三家が、すでに私の盤面です。金を出し、後見を約し、縁を結んだ。全部、正当な取引で、誰も欺いていません。——四十三。三割です」
「あなたが紙を八十七枚書いている間に、私は、四十三家を買った。村の縁は、国を動かしません。家門の縁は、動かします。明日、この国の三割が『ガルディアに与する』と言えば、あなたの王家は、終わりです。——数字は、嘘をつきません」
——詰み、というものが目の前にあった。
*
「その台帳を、読み上げていただけますか」
「……意味が、ありますか」
「あります」
彼は少し迷って、台帳を開いた。
「北の、ヴァイス伯」
「先月、降りました」
わたしは、帳面を見ずに答えた。名は、全部、頭に入っている。
「東の、ロート伯」
「降りました」
名前を一つ読み上げるたびに、台帳の数字が端から意味を失っていく。
「グリュン伯」
その時、こちら岸の人だかりが、割れた。若い男が、一人、橋に上がってくる。
「グリュン伯家、次男のユリウスです」
彼はヴァレンティンの前に立って、頭を下げた。
「先日は、橋の手前で、引き返しました。……今日は、渡ってまいりました」
顔を上げる。
「じかに、申し上げるために。——降ります」
*
「なぜです」
ヴァレンティンは、初めて、台帳から目を上げた。
「後見金を三年分、先に払いました。お約束したものは、すべて渡した。……不足が、ありましたか」
「ありません。一つも」
「では、なぜ」
「……ないから、です」
橋の上が静まり返った。
「あなたは、先に、払い終えたのです」
「……当然でしょう。払ったから、縁が成る」
「いいえ。払い終わったら、終わりです。縁は、この先もやり取りが続くから、続くのです。上が水を止めれば下が干上がり、下が塩を止めれば上の肉が腐る。だから、来年も顔を合わせる。——それを、続く理由と言います」
「……」
「あなたは、渡すものを、全部、先に渡してしまった。だから、あの方々には、明日、あなたに会う理由が、一つもない。——取引は、終わります。縁は、終わらない。——そこが、違います」
「では、毎年、払えばよろしい」
「四十三家に、毎年?」
「……」
「それは、もう、取引ではありません。貢ぎ物です」
*
「……あなたが、そそのかしたのですか」
初めて、声に色があった。
「いいえ。わたしは、何も、壊していません」
「では、何をした」
「読んで、差し上げただけです。『その縁は、三年で切れます』と。——あとは、ご当人が、お決めになりました」
「たった、それだけで」
「たった、それだけです。人は、自分で選び直せると知れば、選び直します。知らなければ、知らないまま、縛られる」
「私は、誰も、縛ってなどいない!」
彼の声が初めて上がった。
「私は、正当に、公平に、値をつけた。一銭も、懐に入れていない。私は——宰相バルドウィンのような、あんな下衆とは」
彼はそこで口をつぐんだ。
「……閣下を、軽蔑していらっしゃるのですね」
「当然です」
「はい。あの方は私腹を肥やし、あなたは一銭も取っていない。……立派です。本当に、そう思います。——けれど、やり方は、同じです」
風が止んだ。
「あなたは、家格と、持参金で、縁を組みました。——宰相バルドウィンと、同じやり方です」
彼の顔から、表情が抜けた。
「……同じでは、ない」
「同じ帳面です」
「あの方の帳面には、家格と、持参金と、賄賂の額が書いてありました。あなたの帳面には、家格と、持参金と、後見の額が書いてある。……賄賂が、後見に変わっただけです」
「違う」
「欄が、一つも、増えていません」
彼の手が震えた。初めて、この人の手が震えるのを見た。
そして、最後の一言を、置いた。
「あなたは、あの方より、清潔です。——清潔なだけです」
*
蹄の音が聞こえた。
ドルク隊長が、早馬から筒を受け取り、橋のたもとまで歩いてきた。
「ヴァレンティン殿。本国より、口上にございます」
彼は一瞬ためらった。両岸に人がいる。それでも、声を張った。
「ガルディア王、口上。——全権使者ヴァレンティンの全権を、これをもって解く」
「理由を」
ヴァレンティンは、静かに言った。
「……『成果が、値に見合わぬ』」
*
彼はしばらく動かず、それから笑った。声は立てず、肩だけが小さく揺れていた。
「四十三家を買って、国庫から相当の金を出して。……今、いくつ残っていますか」
「十一家です」
「値に、見合いません。——正しい判断です。私が、王の立場でも、そう決めたでしょう」
本当にそう思っている声だった。
わたしは、手を、下していない。したのは、紙を八十七枚、書いたことだけだ。
宰相閣下は、壊した縁の恨みに詰まされた。この人は違う。誰の恨みも買わず、正しく公平に値をつけた。そして、値をつけたから——
値をつける者は、値で切られる。
それは、少し、哀しいことだった。
*
彼がこちらを見た。その目が、初めて揺れていた。
「縁定め。……あなたなら、私の糸は、どう見えます」
「一本も、ありません。ご自分で、全部に値をつけて、ご自分で、全部、切っておしまいになった。——切られたのでは、ありません。切ったのです」
かつて「地位のない男に値はない」と切り捨てられた男が、地位を失った日に、値をつけない女の前に立っている。生まれて初めて、値のつかないものを、欲しがっている。
——だから、わたしは。
「わたしは、あなたの縁は、結べません。——あなたが、まだ、ご自分に値をつけているうちは」
「……それの、何が、悪いのです」
「値札の貼ってある人と結べるのは、取引だけです。値のあるうちは繋がって、値がなくなれば、切れる。——それを、あなたは一度、身をもって知っておいでのはずです」
*
長い沈黙のあと、彼は身なりを整えた。襟を直し、袖の埃を払い、台帳を脇に抱える。泥だらけの橋の上で、その人だけが最後まで汚れていなかった。
「……面白い」
あの日と、同じ言葉だった。声の温度だけが、まるで違った。
「次に会うときは——道具ではなく、敵として」
「お待ちしております」
彼は橋を渡っていった。塩の俵と、麦の袋と、値のつかない縁のただ中を、値をつける男が一人で。
背はまっすぐだった。——折れて、いなかった。
いい敵だった、と思ってしまったことを、わたしは、少しだけ、悔しく思った。
*
その夜、王都から報せが来た。土間のあの釣書の山が、三割ほど片付いたという。届いた紙には、家格も持参金も書いていない。ただ、誰と誰が、どういう理由で、と書いてある。
——王家の縁は、もう結ばない。結ぶのは、この国の民の縁だ。
橋のたもとでアルヴィン様が待っていた。
「終わったのか」
「まだです。あと、六枚あります」
軍はまだ退いていない。市はまだ立ったばかりだ。
そして——わたしの縁は。
九十四枚の、どこにも書いていなかった。
第28話、お読みいただきありがとうございます。第二部でいちばん書きたかった回です。ヴァレンティンは、この作品でいちばん強い敵でした。宰相バルドウィンは私腹を肥やしましたが、この男は一銭も取っていない。誰も欺かず、正当に、公平に、縁を買った。だから倒しにくい。ロザが最後に彼を刺したのは「不正だ」ではなく「同じ帳面です」の一言でした。軽蔑している相手と、欄が一つも違わない。彼にとって、これ以上の侮辱はなかったはずです。
そして、ロザは何もしていません。第19話で「その縁は、三年で切れます」と読んで見せただけ。先に払い終えた取引は、そこで終わる。だから当事者はいつでも降りられる。一人降りれば、次が降りる。数字は嘘をつきませんが、数字が数えていないものは、数字を裏切ります。
第15話で、宰相は「壊す者は、壊された縁で滅びる」でした。この男は違います。誰の恨みも買っていない。彼は、彼自身が信じた物差しに測られて落ちました。「成果が、値に見合わぬ」——値をつける者は、値で切られる。ロザは手を下さず、そして救いもしません。彼は折れずに、台帳を抱えて橋を渡っていきました。いつか、値札を外して戻ってくるかもしれません。
さて、軍はまだ退いていません。市は立ったばかり。紙は、あと六枚足りない。そして九十四枚のどこにも、ロザ自身の縁は書かれていません。他人の縁なら一目で読める女が、たった一人分だけ、どうしても読めない。次話、その一枚が書かれます。書くのは、たぶん、彼女ではありません。
ブックマーク・評価が、続きを書く力になります。どうぞ、あと少し、お付き合いください。




