第27話:国の縁も、もらい水から始まる
国境の川は、思っていたより細かった。大人が声を張れば、向こう岸に届く。
そして、その川に、橋はなかった。石の橋脚が二本、水の中に立ち、その上に、何も載っていない。
「落ちて、長いようですね」
「三十年になる」
ロウ村の村長ボルドが、白い息を吐いた。
「あの秋の、大水じゃ」
三十年前の秋、大水でギード村の橋が落ちた。だからガレス様は、汲んだ水をボルド様に渡せなかった。だから、三十年の遺恨になった。
同じ水が、ここも、落としていた。
ギード村の橋は、この春に、架け直した。この橋は——三十年、落ちたままだった。
対岸には、兵がいた。三千。畑の中に、勝手に町が一つできたようなものだ。
「ガルディア国境守備、隊長ドルクだ」
対岸から、太い声が飛んできた。
「縁定めの、ロザリンドと申します」
「……娘か。帰れ。ここは戦場になる」
「その煙、多すぎます。三千で十日も焚けば、薪が尽きる。尽きたら、村の垣を燃やすことになりますよ。あなたの兵が」
ドルク隊長の眉が、動いた。
「まだ一度も剣を抜かずに、村を焼いた男になります」
*
わたしは、荷から帳面を出した。国璽の紙ではない。冬囲いの縄が何本、麦が何俵、塩がどこから来たか。それだけの紙束のほうだ。
——あった。
顔を上げ、対岸に向かって、声を張った。
「サルデ村の、イルサさん!」
土手で、女が一人、肩を跳ねさせた。四十がらみの、腕の太い女だった。
「……なんで、あたしの名を」
「帳面に、書いてありますので」
「去年の初雪の前、ロウ村が塩を三十俵、買っています。売り手の名が、イルサ。——今年の塩は」
「……売れてない」
「なぜ」
「橋がないからだよ!」
女が、叫んだ。
「三十年、遠回りしてきた。浅瀬まで半日、下って半日。それでも売りに行った。今度は国が閉じて、うちの兵に道を塞がれてる。塩が、蔵で山んなってるよ」
「売れないと」
「麦が買えないよ! うちの土地は石だらけだ。塩を売って、ロウ村の麦を買う。……今年は、買えてない」
隣で、ボルドがうめいた。
「……道理で。今年、塩が来んと思うたら」
「そっちも困ってんのかい!」
「困っとる! 肉が、腐る!」
「イルサさん。上流のギード村が堰を落としたら、あなたの村は、どうなりますか」
「……干上がる」
「では、なぜ、この三十年、干上がらなかったのでしょう」
答えたのは、ボルドだった。
「落とせるかい。落としたら、塩が来なくなる」
川の両岸が、静まり返った。
わたしは、帳面を閉じた。
「——国と国も、同じです。上流と、下流です」
「……そんな、大層なもんじゃないよ。売り買いだ」
「はい。売り買いです」
わたしは、頷いた。
「あなたとロウ村の間には、もう、縁がある。三十年、前から。——わたしは、それを、紙に書くだけです」
*
「開ける」
アルヴィン様が、落ちた橋脚を、じっと見ていた。
「橋を、架ける。この橋を」
彼は、村の男たちの前に立ち、黙っていた。言葉を探している。わたしには、それが、わかった。
「俺の家は、三代、この門を閉めてきた。閉めるのが、仕事だと思っていた。閉めていれば、誰も入ってこない。誰も入ってこなければ、誰も、死なない」
「違った」
「閉めていた三十年で、この土地は痩せた。村と村が、いがみ合った。姉は、家のために嫁いで、死んだ。……閉めていたから、守れたわけじゃない。閉めていたから、何も、来なかっただけだ」
「門は、開けるためにある。開けて、通すためにある。……うまく、言えん」
彼は、口をつぐんだ。
「開ける。俺が、開ける。責めは、俺が負う。——この辺境から、縁を出す」
——胸が、鳴った。
わたしが来た日、この人は、館の門前で言った。「辺境に縁など要らん。帰れと伝えろ」と。
その同じ男が、国境の川べりで、言っている。
わたしは、うつむいた。顔を、見られたくなかった。
*
橋は、三日で架かった。三十年ぶりに、二つの国の男たちが、同じ川に立った。対岸の兵が、初めは槍を構えて見ていて、やがて、一人、二人と、縄を持ち始めた。
橋の上に、市が立った。塩が渡り、麦が渡った。値のつけ方で怒鳴り合いになり、ボルドとイルサが仲裁に入って、そのまま二人で酒を飲んでいた。
対岸の土手では、レオノーラ様が、裾を泥だらけにして、井戸端に立っている。
「わたくしは、レオノーラ。——井戸を、お借りしても?」
公女が、水を汲んでいた。不器用な手つきで、こぼしながら。
——あの方の糸は、ぴんと張って、どこにも繋がっていない。
そう読んだのは、半月前のことだ。今、その糸は、垂れて、地面に触れていた。
その夜、わたしは釣書を読んでいた。
包み紙の裏に、炭で、たどたどしく字が書いてある。
『ロウ村 ボルドの孫
サルデ村 イルサの娘
あいたい』
家格も、持参金も、何も書いていない。
浅瀬で三年、会っていたのだという。橋がない間、半日の遠回りをして。
けれど、この一枚には、「続く理由」が書いてある。誰も命じていないのに、誰も金を払っていないのに、三年、遠回りをして会いに行った。
——王都の釣書の山には、ついに一枚も、書かれていなかったもの。
「……この縁なら、結べます」
*
包み紙は、日ごとに増えた。
八十七枚まで数えたところで、北東の空に、蹄の音が響いた。松明が、立て続けに灯る。
「早馬だ。——ガルディア本国から」
ドルク隊長が、筒を受け取り、開かずに、じっと、こちら岸を見た。
——期限だ。
八十七枚。まだ、百枚に、届いていない。
第27話、お読みいただきありがとうございます。この作品でいちばん書きたかった種類の回です。
三十年前の秋、大水でギード村の橋が落ちました。第3話で解いた、あの遺恨の始まりです。同じ大水が、国境の橋も落としていた。片方は去年架け直され、片方は三十年、落ちたまま。国と国も、上流と下流だった——それだけの話です。出てくるのは、塩と、麦と、腐る肉だけ。
ロザが荷に入れた「国璽の紙」と「村の帳面」。役に立ったのは、帳面のほうでした。家格と条約で三度負けた相手に、彼女は「サルデ村の、イルサさん」と名を呼ぶだけで届く。国の縁も、結び目は一杯のもらい水です。
そして、アルヴィン。第2話の門前で「辺境に縁など要らん」と言い放った男が、「この辺境から、縁を出す」と言います。ひどく下手な演説です。三代閉めてきた門を、自分の言葉で開ける。ロザが顔を上げられなかったのも、無理はありません。
次話、決着です。場所は、あの国境の橋の上。「この国の家門の、三割は、もう私の盤面です」——数字は、嘘をつきません。ロザは、何を返すのか。ブックマーク・評価が、続きを書く力になります。




