第26話:頭を下げに来た王家
国境に、煙が上がっていた。
焼き討ちの煙ではない。飯を炊く煙だ。飯を炊くというのは、居座るということだった。
「三千は、いる」
アルヴィン様が、目を細めた。
「この辺境の兵は、徴しても六百だ」
「なら、まだ戦ではありません。あれは、催促です。——早く決めろ、と」
「決められるのか。王都に」
わたしは、答えなかった。
宰相閣下は失脚し、セシリア様は宮廷を下がられた。そして、わたしは、ここにいる。
指を三本、折った。折る指が、三本しかなかった。
「……お嬢様が、持って出ておしまいになった、ということでございますね」
ハンナが、そっと言った。
答えなくても、風が、答えのように吹いた。
*
三日後、街道に、王家の紋が立った。
一騎では、なかった。騎馬が四騎、黒塗りの車が三台。そして——荷馬車が、七台。
「引っ越しか」
「いいえ。あれは、紙です」
土間に、荷が降ろされた。麻布が開かれると、白い紙束が、崩れるように広がった。
「なにこれ」
「釣書です。……ぜんぶ」
半年前、あの城の窓辺に積まれていた山。わたしが背を向けて、出てきた、あの山。
黄ばんで、端が反り、鼠にかじられている。
——紙は、腐らない。腐ったのは、そこに書かれた縁のほうだ。
「ロザ」
土間の入り口に、オルフェウス様が立っていた。まだ痩せていた。けれど、背は、丸まっていなかった。
その脇から、年配の使者が進み出て、巻いた紙を、ぱん、と開いた。
「王家は、ロザリンド・アルシェットの追放を解く。速やかに王都へ帰還し、縁組を差配すべし。——寛大なる、思し召しである」
ハンナの手が、怒りで震えた。
「お断りします」
「な——」
「もういい」
オルフェウス様は、使者の手から口上書を取り上げ——両手で、二つに裂いた。
「その紙は、王都で書いた。王都で書いた紙は、王都でしか通らんらしい」
「半年前、私はここで膝をついて詫びた。あれは、私が楽になりたくてしたことだ。……だから、今日は、詫びない」
彼は、背を伸ばした。
「今日は、王太子として来た。報告に来た。——我が国は、縁を、組めない」
「ガルディアへ、使者を三度出した。家格を積み、金を積み、詫びを積んだ。三度とも、怒りを深くして、帰ってきた」
——わかる。三本とも、押してはならない糸だった。
「城中の者に聞いた。誰一人、『その手は打つな』と言わなかった」
「私は今日、王家の無能を、報告しに来た。——これは、私の後悔ではない。国の、報告だ」
そして。
「頼む。この国の縁を、組んでくれ」
膝は、つかなかった。
代わりに、腰から、深く、頭を下げた。
その背後で、使者が頭を下げた。書記官が下げた。騎士が下げた。
——王家という機関が、辺境の土間で、頭を下げていた。
半年前、膝をついたのは、一人の男だった。今日、頭を下げているのは、国だ。
わたしを道具と呼び、名を呼ばず、讒言一つで捨てた、あの国が。
溜飲が下がるというのは、こういうことなのだろう。
けれど、胸の底に、少しだけ、哀しいものが残った。
——見なかった人は、いつか、見なかったものに、滅ぼされる。
宰相閣下に、そう思った。同じことを、今、王家に、思っている。
*
「お顔を、上げてください。——お受けします」
「ただし、条件が、三つあります」
「言え。何でも呑む」
「一つ。縁定めを、王家の役職として、正式に置いてください。職がなかったから、わたしは道具でした。道具に、意見はありません」
「二つ。その役所を、辺境に置いてください。わたしは、王都には戻りません」
「では、どこで縁を裁く」
「ここです」
「……それでは、王家が」
「はい」
わたしは、頷いた。
「王家が、辺境に来るのです」
用のある者が、三日の道を、こちらへ来る。——半年前、わたしが、そうさせられたように。
「三つ。縁定めの見切りは、王家といえども、覆せないものとしてください」
「そんなものは、全権ではないか!」
年配の使者が、叫んだ。
「はい。全権です」
「ガルディアは、姓のない者に全権を預けました。だから、あの男は動ける。この国は、その男に三度、負けています。——同じ卓に着くには、同じ手が要ります。それだけのことです」
「……いいだろう。三つとも、呑む。国璽は、持ってきた。ここで捺す」
傷だらけの机の上で、国璽が捺された。
わたしは、その紙を、両手で受け取った。軽かった。——半年前、わたしを追放した紙も、たぶん、これくらいの重さだった。
「殿下。一つだけ。——わたしは、王家の縁は、もう結びません」
「あなたの縁も、家門の縁も、組みません。あの山は、燃やしてくださって結構です。——結ぶのは、この国の民の縁です」
「……それで、国が、保つのか」
「保ちます。王家の縁は、一本です。民の縁は、百本あります」
彼は、ほんの少し、顔を歪めた。笑ったのだと、しばらくして気づいた。
「……私は、一本しか、持っていなかったのだな」
*
翌朝、国境へ発った。
荷は、二つ。王家の国璽の捺された紙と、辺境の帳面。冬囲いの縄が何本、麦が何俵、去年の塩がどこから来たか。それだけしか書いていない、粗い紙束。
どちらが役に立つのかは、まだ、わからなかった。
道の先、北東の空に、細い煙が上がっている。
飯を、炊いている。
——飯を炊く者が、いる。
なら、そこに、縁がある。
第26話、お読みいただきありがとうございます。この回を書くために、第一話でロザを追放しました。
第10話は、オルフェウスが一人で馬を降り、膝をついて詫びる話でした。あれは「男の後悔」です。今回は荷馬車が七台、書記官と護衛と国璽つき。王家という機関がまるごと土間に来て、頭を下げます。詫びではなく、乞い。国の敗北報告です。
そして、ロザは戻りません。条件を出します。役職を作れ、役所は辺境に置け、わたしの見切りは覆すな。半年前、三日の道を歩かされたのは彼女でした。これから歩くのは、向こうです。
「王家の縁は、もう結びません。——結ぶのは、この国の民の縁です」。タイトルの意味が、少しだけ姿を見せました。残りは、もう少し隠しておきます。
次話、ロザは国境へ。荷は、国璽の紙と、村の帳面。役に立つのは、どちらでしょう。ブックマーク・評価が、書き進める力になります。




