第25話:その縁は、結べません
「お嬢様。公女殿下は、荷を、一度も解いておられません。……いつでも発てるように、だそうです」
期限の日の朝、ハンナが青い顔で、そう言った。
*
広間は、人で埋まっていた。勅使。公女殿下。台帳を開いたヴァレンティン。そして、泥のついた靴のままの村の年寄りたち。
「——辺境伯は、ガルディア公女レオノーラを娶るべし。拒めば、戦だ」
勅使の手が、震えていた。戦の意味を、この人たちはちゃんと知っている。畑を焼かれ、橋を、また落とされるということだ。
「では、わたくしが嫁ぎますわ」
レオノーラ様が、立ち上がった。旅装だった。
「それで戦は止まりますのでしょう。……安いものですわね」
誰も、止めなかった。止める理由が、ないからだ。
「縁定め殿。期限です。公女殿下より良い縁を、お持ちですか」
「いいえ」
「……では、決まりですわね」
レオノーラ様が、扉のほうへ体を向けた。
「お待ちください。良い縁は、持っておりません。——盤が、違っていたからです」
「その縁は、結べません」
「理由を、うかがいましょう」
ヴァレンティンだった。待っていた顔だった。
「この婚姻は、三年で切れます」
「根拠を」
「この冬のはじめに、切れたばかりですから。——宰相バルドウィン閣下が押し込んだ、ガルディアとの同盟婚。あれは、なぜ切れましたか」
彼の手が、止まった。
「……宰相が、失脚したからです」
「そうです。縁を押した人が、一人、いなくなった。それだけで、国と国の同盟が切れた。……一組の婚姻で結ぶ同盟は、糸が、一本です。両国の民の間に、縁が一本もないからです」
「三年、保てば上等では? 切れたら、また組めばよろしい」
「三年ごとに、誰かの娘が、一人ずつ要ります。……あなたの帳面に、その令嬢たちの名は、何と」
「……在庫、と」
彼は、正直だった。そこが、この人の恐ろしいところだ。
「では、何本なら足りると?」
「一本の糸は、切れます。——百本なら、切れません」
*
「百組の婚姻など、どこから持っておいでになる」
「持ってまいりません。——もう、あります」
わたしは、広間の後ろを振り返った。
「ボルド様。ロウ村では、去年の冬、塩は足りましたか」
「へ、へえ。……足り、ましたが」
「どこから来た塩ですか」
ボルド老人が、ちらりと、ヴァレンティンのほうを見た。
——見て、しまった。
「誰も咎めません。わたしも、辺境伯も、王家も」
老人は、観念したように言った。
「……川下です。国境の、向こう。サルデ村から」
広間が、どよめいた。敵国の村だ。
「国が同盟を切ったあとも、サルデ村は、塩を寄越しましたか」
「寄越しました」
「なぜですか」
ボルド老人は、心底、不思議そうな顔をした。
「なぜって……あそこの婆さんとは、四十年の付き合いですから」
広間が、静まりかえった。
「同盟が切れた話は、ご存知でしたか」
「聞きましたな。お城のほうで、なんぞ揉めとると」
「それで、どうなさいました」
老人は、頭を掻いた。
「どうも、しませんが。……あの婆さんと、わしの間に、何かありましたかね?」
誰も、答えられなかった。
「ガレス様。ギード村の麦は、どこへ」
「……川下です。ロウ村を通して、そのまま向こうへ」
「ヨルグ様。去年のハイデ村の種は」
「不作でしたんで、川向こうから」
わたしは、彼の台帳を見下ろした。
「三本、数えました。まだ話を聞いていない村が、この辺境に十一あります。国境の向こうにも、村がある。……縁は、これから結ぶのではありません。もう、そこにあるのです。——誰も、帳面につけなかっただけで」
「……では、何をなさりたい」
「国境に、市を立ててください。ひと月に一度で、橋の上でも。……去年の冬、こっそりやっていたことを、堂々とやるだけです」
「兵を出せば、市は消えますよ」
「消えれば、サルデ村の婆さんは、塩を売る相手を失います。……その損は、あなたの帳面に、載りますか」
彼は、答えなかった。
長い沈黙のあと、ヴァレンティンは、台帳を——閉じた。この半月、一度も閉じられたことのない、あの帳面を。
「……面白い。私は二十年、数えられるものだけが縁だと思っておりましたよ」
彼は、深く、礼をした。
「——ならば、国境で試しましょう」
*
「お待ちなさい」
声が、震えていた。誇り高いこの方の声が、初めて。
「縁定め。あなたは、わたくしを、不要だとおっしゃるの。……わたくしは、十八年、そのために育ちましたのよ。刺繍も、語学も、作法も。すべて、嫁ぐ日のため。……市が立てば、わたくしは、何のために生まれましたの」
「読ませていただきました。あなたの糸は、ぴんと張って、どこにも繋がっていない。わたしはそれを『駒であろうとする覚悟』だと読みました。——読み違えていました」
まっすぐな目が、揺れた。
「あなたは、必要とされたいのではありません。あなたは、あなたの国を、守りたいのでしょう。……嫁ぐことは、目的ではなく、手段です。目的が同じなら、手段は、他にもあります」
公女殿下の唇が、開いた。何も、出てこなかった。
「……ずるい、方ですわね」
誇り高い公女が、生まれて初めて、言葉を失っていた。彼女は、椅子に、腰を落とした。
ぴんと張っていた糸が、ゆるむ音が、聞こえた気がした。
切れたのではない。
——ゆるんだのだ。ゆるんだ糸なら、どこにでも、結び直せる。
*
広間の扉が、勢いよく開いた。物見の兵が、泥だらけの脚のまま、膝をついた。
「——辺境伯! 国境に、軍が! ガルディアの旗です。歩兵、騎兵、あわせて、数えきれません」
わたしは、ヴァレンティンを見た。その顔から、微笑が消えていた。
——知らなかったのだ。この人も。
「……本国は、待ってはくださらないようですな。春まで、と書いてありましたが。どうやら、私の値も、もう、下がり始めているらしい」
初めて見る、寒々しい笑い方だった。
理屈は、通った。糸は、確かにそこにあった。数えていけば、百本になる。なるはずだ。
——けれど、糸を数えるには、時間が要る。
そして、時間だけは。誰も、わたしに、融通してはくれなかった。
第25話、お届けしました。この作品を書き始めたときから、いつか書きたかった一行を、ようやく出せました。
「一本の糸は切れます。——百本なら、切れません」。第三話でロザは、三十年の遺恨の結び目が一杯の水だと読みました。今度は同じ目で、国と国の縁を読んでいます。国の話をしているのに、出てくるのは塩と麦と種と、四十年の付き合いの婆さん。ロザの目には、国も村の顔をして見えているのだと思います。
台帳の男に返すなら、この一言しかありませんでした。「縁は、これから結ぶのではありません。もう、そこにあるのです」。そのヴァレンティンは、怒らずに帳面を閉じて笑いました。理を認められる男だから、この人は強いのです。
けれど、国境には軍が並びました。ヴァレンティンでさえ知らされていない。本国は、理屈が正しいかどうかなど待ってくれません。次話、王都が動きます。かつてロザを追放した王家が、今度は「国として」辺境へ来ます。ブックマーク・評価で応援いただけると、続きを書く力になります。




