第24話:捨てられた男
その夜、扉を叩いたのは、ガルディア公女レオノーラ様だった。侍女も連れず、燭台を一つだけ持って。
「昼間の、あれ。あの子の名を二つの帳面に入れて、何の得がございますの。……台帳には、載りませんわ」
「ええ。載りませんね」
「……ヴァレンティンのような、物言いをなさるのね」
わたしは、黙っていた。ほどけかけた糸は、急かすと、また結び直されてしまう。
「あの方は、元は名家の子ですのよ。ガルディアでは、誰も口にいたしませんけれど」
「名家の子が、なぜ、姓をお持ちでないのですか」
「捨てたからですわ。十八の年に。家名も、地位も、相続の権も」
「なぜ」
「女ですわ」
わたしは、息を飲んだ。
——縁は取引です。感情は、誤差だ。あの声が、耳の奥で鳴った。あの男が。
「身分の低い、庭師の娘だったとか。『家か、あの女か』と問われて、迷わなかったそうですわ」
「二年ですわ。裏長屋で、名家の子が荷を担いで。……ある日、仕事から帰ると、家は空でしたの。書き置きが、一枚」
火が、ぱち、と鳴った。
「——『地位のない男に、値はありません』」
「家には、戻りませんでした。戻れば、値が戻りますでしょう。……誰の家名も持たない、ただの全権使者ヴァレンティンに」
ああ、と思った。
あの方に姓がないのは、捨てたからではない。捨てられたあとも、拾わなかったからだ。
公女殿下は、すっと立ち上がった。
「わたくしは、あの方を尊敬しておりますの。憐れんでは、おりませんわ。一度も。捨てられた男が、恨みも呪いも作らずに、たった一つ、正しい物差しだけを作った。立派なことでございましょう」
初めて、彼女は笑わなかった。
「わたくしも、そう生きたいのですわ。国の役に立つ女には、値がつきます。値のつくものは、捨てられませんもの」
*
中庭の東屋に、灯りが一つ。あの方は、いつも遅くまで帳面をつけている。
「これはこれは。縁定め殿」
卓の端に、開いたままの書状が一通。彼は、それを裏返さなかった。
「ご覧になっても、かまいませんよ。——『春までに成果を出せ。出せぬなら、使者を代える』」
「本国は、あなたにも、値をつけておられるのですね」
「当然でしょう。全権を預ける以上、値に見合うかを測られる。……値をつけられるとは、信用されているということですよ」
この人が、少しだけ、怖くなった。
「あなたは、十八のとき、家を捨てられたそうですね」
羽根ペンが、一度だけ、間を置いた。それから、また動き出した。
「公女殿下が、おしゃべりでしたか。……同情でも、なさいますか」
「いいえ」
「けっこう。悲しい話ではございませんよ。若い男が、値のないものを高く買った。それだけです。……彼女は、正しかった。読み違えたのは、私だ」
「私は、正しく学んだだけです」
自分の過去を、失敗談ではなく、証明として持っている顔だった。
「一つだけ。——捨てられたとき、あなたは、驚かれましたか」
「……いいえ。当然だと、思いましたよ」
見えた。この人の縁の、結び目が。
「なぜ、当然だと」
「申し上げたでしょう。地位のない男に、値はない」
「——それは、その方の言葉ですか。それとも、あなたの言葉ですか」
羽根ペンが、卓の上で、止まった。
「あなたは十八のとき、家名も地位も捨てて、その方を選んだ。そこまでは、真情です。けれど、こうも考えられたはずです。『これほどのものを捨てて選ぶのだ。この縁には、それだけの値がある』と」
「……」
「捨てた家名の重さで、その縁を測られた。だから、去られたとき、驚けなかった。あなたの帳面の上では、もう勘定が合っていたのですから。——地位を失った男の値は下がる。値の下がった品は、売れない」
「その方が去るより先に、あなたが、ご自分に値をつけ終えていた。その方は、それを読み上げただけです。……その縁は、あなたが切られたのではありません」
わたしは、まっすぐに彼を見た。
「——値をつけた時点で、あなたが切ったのです」
隙のない微笑が、初めて抜け落ちていた。あるのは、四十を過ぎた男の、疲れた顔だった。
彼は、喉の奥で、短く笑った。
「……面白い。ですが、それは村の話です。国は、村ではない。——期限まで、あと三日ですよ」
「持ってまいります」
*
館に戻ると、廊下の柱に、アルヴィン様が寄りかかっていた。待っていたのだ。言葉は下手なのに、いつも先に来ている。
「アルヴィン様。勝ち筋が、見えました。……あの方と同じ盤に乗っていたのが、間違いでした」
わたしは、振り返った。
「婚姻では、国は結べません」
「……何を言っている」
階段の上から、声が降ってきた。
「——聞き捨てなりませんわね」
レオノーラ様が、燭台を手に、立っていた。
「縁定め。それは、わたくしの務めを、否定なさるということですの」
この方の糸は、まだ、ぴんと張ったままだ。切られるのを待っている。
——けれど、切らずに済む結び方が、一つだけある。
「三日後に、お答えいたします」
第24話、いかがでしたか。ざまぁを一度お休みして、敵に光を当てる回でした。
「縁は取引です。感情は、誤差だ」と言い切る男が、かつては家名も地位も捨てて、たった一人を選び、そして捨てられていた。それでも彼は自分を憐れみません。「私は、正しく学んだだけです」——この格の高さが書きたくて、この回を置きました。
だからロザも、同情しませんでした。「値をつけた時点で、あなたが切ったのです」。優しくはありませんが、これがこの人の読み方です。
そしてヴァレンティン自身も、本国から急かされています。値をつける側の男が、値をつけられている。しかも、それを当然だと思っている。あの書状のことは、どうか覚えておいてください。
期限は三日後。「婚姻では、国は結べません」——次話、ロザが盤面をひっくり返します。ブックマーク・評価で応援いただけると、続きを書く力になります。




