第23話:もらい水の子
公女が来てから三日、マリカは厩にこもっていた。
「政略婚? ばかみたい。……縁なんて、結んだって死ぬのに」
藁の上で膝を抱えたまま、この子は笑っていなかった。いつもの憎まれ口の、はずだった。
外を向いていたはずの糸が、今日は、内側の根に触れている。わたしは、この子の糸を、一度も根まで読んだことがなかった。
「マリカ。……誰が、死んだのですか」
長い沈黙のあと、彼女は立ち上がった。
「……見せてやろうか。あたしの、生まれたとこ」
*
道のない川べりを、マリカは迷わず歩いた。たぶん、毎日通っているのだろう。
石組みが四角く残っている。正面に、あの橋が見えた。
「父さんは、ロウの男だった。母さんは、ギードの娘」
わたしは、息を止めた。
「もらい水の真ん中で、二人はくっついたんだよ。ばかでしょ。どっちの村も、入れてくんなかった。……上流でも下流でもない場所なんて、川べりしかないじゃん」
「あたし、六つだった」
マリカの声が、平らだった。平らにしないと、続けられないのだ。
「秋に雨が続いて、あたしが熱を出した。父さんはロウへ走った。薬をくれって。父さんが生まれた村だよ。——戸、開けてくんなかった。……で、母さんはギードへ渡ろうとした。自分の生まれた家へ。向こう岸だよ。歩いたら、すぐじゃん」
川が流れていた。十歩か、十五歩。それだけの幅だった。
「橋が、なかった」
わたしの中で、何かが崩れた。
「三十年前に落ちたっきり、上流と下流が憎み合ってたから、誰も架けなかった。……母さん、流された。父さんは次の冬に死んだ。毎日、川を見てただけ」
言葉が、出なかった。人の遺恨を言葉でほどく女が、一言も。
あの日、わたしは橋が架かるのを見て微笑んでいた。三十年、遅れた水だ、と。——その三十年に渡れなかった人がいたことを、一度も考えなかった。
「あんたが橋を架けたとき、あたし、嬉しかった。……嬉しかったのが、悔しかった。なんで、十年遅いんだよ」
そばかすの散った顔が、ぐしゃぐしゃになっていた。
「橋があれば、母さんは、死ななかった」
誰も殺していない。ただ、橋がなかっただけだ。誰も悪くないから、この子は、誰も恨めない。
*
「マリカ。あなたは今、どこの村の子ですか。帳面の話です」
「ロウの子ってことに、なってる。でも、ロウの帳面に、あたしの名前、ないよ。潜り込んで、見た。ギードにも、ない」
「では、あなたは」
「ハイデ。ギードとロウの間の、ちっちゃい村。ヨナスじいさんが、父さんの死んだ冬に、川べりで拾った」
ヨナス。ハイデ村の、亡くなった村長。
——うちの村、跡目でもめてんの。村長のじいさんが死んで、息子が二人いてさ。
「じいさんがいたから、あたし、いられたの。死んだら、また、どこの子でもなくなった。ハイデの帳面にも、名前、ないよ。……あたし、どこにもいないの」
この土地の縁は、全部読んだつもりでいた。けれど、その糸の真ん中に、ずっと、この子がぶら下がっていた。
「マリカ。明日の朝、橋に来てください。あなたの縁を、結びます」
「あたしの? ……嫁がないよ。跡目もない。結ぶもんなんか、何もないじゃん」
「ええ。ありません。——ですから、作ります」
*
翌朝は、霜だった。
橋の上に、ギードの村長ガレスとロウの村長ボルド。たもとに、むっつりした顔のマリカ。二人は、その姿を見て、目を逸らした。
「ボルド様。あの子の父御は、あなたの村の男でした。ガレス様。あの子の母御は、あなたの村の娘でした」
皺だらけの手が、欄干を握った。
「……知っとる。追い出したのは、わしじゃ」
「あの夜、戸を叩いた男の声も、知っとった。うちの村で生まれた男じゃ。——開けんかった」
三十年の遺恨の、いちばん奥にあったものが、そこにあった。
わたしは、袖から帳面を二冊、取り出した。ギードの帳面と、ロウの帳面。
「跡目でも、婚姻でもありません。——ただ、この子の名を、二つの帳面に書いていただきたいのです」
「一人の子が、二つの村の帳面に、じゃと。……聞いたことがない」
「ええ。ありません。ですから、書くのです。——あの子は、どちらの村の子でもない。そう思われてきました。違います。どちらの村の子でも、あるのです。お二人がどちらも入れなかった二人の子が、ずっと、この川べりにいた。半分はギードで、あとの半分はロウ。——あの子は、この橋より先に、二つの村を繋いでいました」
ボルド様が、帳面を見下ろした。
「……マリカは。あれは、わしらの、橋か」
「ええ」
わたしは、静かに言った。
「……この縁なら、結べます」
*
ガレス様が筆を受け取って、動かなくなった。
「……わしは、字が」
「書け。わしが、見ておる」
「見るな」
「見る」
三十年ぶりの会話が、それだった。
震える手が、帳面の隅に、ひどく歪んだ字を書いた。ボルド様のは、もっと下手だった。
「名は、なんと書く。姓が、ないが」
「……マリカ。それだけ」
「ギードのマリカ、と書いた」
「ロウのマリカ、と書いた」
二人は、何も言わなかった。「すまなかった」も、「よく生きていた」も。老人というのは、そういうものだ。いちばん言うべきことは、最後まで言えない。
代わりに、ガレス様が、橋のたもとの桶から水を一杯汲んで、差し出した。
「……飲むか」
あの日と、同じ絵だった。
マリカは両手でそれを受け取り、口をつけて、むせた。むせて、しゃがみ込んで、顔を膝に押しつけた。
声は、出さなかった。この子は、一人で泣いてきた子だからだ。
「……十年、遅い」
「……そうじゃな」
「遅い」
二人はそれ以上、何も言わなかった。ただ、寒い橋の上で、泣き止むまで待っていた。
*
「あたし、縁定めになる。ロザ様の弟子に、ちゃんとなる。……べ、別に、感動したとかじゃないけど」
顔を上げたマリカは、目も鼻も真っ赤だった。
「ええ。では、明日から字を教えます。帳面が読めない縁定めは、困りますから」
「……っ、うるさいな!」
橋の上で、老人が二人、ぼそぼそと笑った。三十年ぶりの、笑い声だった。
*
橋の袂に、深緑の外套が立っていた。
ぴんと張って、どこにも繋がっていなかった、あの糸が。
——揺れた。
「あの帳面には、家格も、持参金も、書いてありませんわね」
「ええ。名前だけです」
公女は、誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「縁とは……そのようなもので、ありましたの?」
わたしは、答えなかった。この方は今、生まれて初めて、自分に問うている。たわんだ糸で。
その夜。雪の中、扉が控えめに叩かれた。ハンナの叩き方ではない。マリカでもない。
「どうぞ」
ガルディア公女レオノーラが、灯りも持たずに、そこに立っていた。
第23話をお届けしました。この作品で、いちばん書きたかった回です。
第3話の橋を覚えていらっしゃるでしょうか。三十年の遺恨がほどけて、二つの村が和解した、あの回です。——その橋がなかったせいで、死んだ人がいました。
ロザは三十年を数えました。でも、その三十年の中にいた人を、一度も数えなかった。彼女の一手は、跡目でも婚姻でもありません。ただ、名前を二つの帳面に書く。それだけです。
ガレスとボルドは、最後まで「すまなかった」と言いませんでした。代わりに、水を一杯、差し出しました。第3話と、同じように。
マリカが、ようやく「ちゃんと弟子になる」と言ってくれました。いちばん長く、どこにも名前がなかった子です。
その一部始終を、橋の袂から見ていた人がいます。次話、彼女の口から、あの男の過去が語られます。ブックマーク・評価、いつもありがとうございます。




