第3話:その遺恨、結び目は三十年前の「もらい水」です
翌朝、川辺には血が流れていた。
幸い、人の血ではない。畑を荒らされた腹いせに、ロウ村の者がギード村の山羊を一頭、崖から落としたのだという。ギード村の男たちが鍬を手に押しかけ、川を挟んで睨み合っていた。
「やめておけ」
アルヴィン様が間に割って入っていた。剣の柄に手をかけ、両村を力で押さえつけている。
けれど、力で止められるのは今日一日だけだ。明日も、明後日も、この遺恨は湧いて出る。糸が、こじれたままだからだ。
「アルヴィン様」
わたしが近づくと、彼は苛立った顔を向けた。
「下がっていろ。危ない」
「三十年、こうして力で押さえてこられたのですね」
その一言に、アルヴィン様の眉が動いた。
「……先代からだ。父も、こうして間に立った。俺も、こうしている。だが、いくら止めても、また繰り返す。この二つの村は、もう——」
「結び直せます」
わたしは、言った。
「もう結ばない」と決めたはずの言葉が、口をついて出ていた。こじれた糸を前にすると、どうしても手が伸びてしまう。これは、もう病のようなものだ。
「その遺恨の結び目は、水利権ではありません。山羊でも、畑でもない」
わたしは、両村の年寄りを呼んでもらった。ギード村の村長ガレスと、ロウ村の村長ボルド。三十年、口をきいていないという二人の老人が、渋々、川の両岸に立った。
「ガレス様。三十年前の干魃の年、あなたはボルド様に、水を分けてほしいと頼まれた。違いますか」
ガレス老人の顔が、ぴくりと動いた。
「……なぜ、それを」
「そして、断った。上流のあなたには、分ける水があったのに」
「あの年は、うちも苦しかった!」
「ええ。苦しかったのでしょう。けれど、ボルド様はこう聞いておられます。『あの男は、水を惜しんで、わしに頭を下げさせた挙句、それでも一杯もよこさなかった』と」
今度は、ボルド老人が顔を上げた。
「そうだ。わしはあの時、生まれて初めて人に頭を下げた。それを、あいつは……!」
「違います」
わたしは、静かに遮った。
「ガレス様は、水を惜しんだのではありません。あの年、あなたは水を分けようとした。桶に汲んで、川を渡ろうとした。——けれど、渡れなかった。橋が、落ちていたからです」
川に、沈黙が落ちた。
「三十年前の秋、大水でギード村の橋が落ちた。記録が残っています。ガレス様は水を汲んだまま、対岸へ渡る術がなかった。頭を下げたボルド様に、何も返せなかった。——恥じたのでしょう。だから、何も言わなかった。言い訳を、しなかった」
ガレス老人の、節くれだった手が震えていた。
「……なぜ、言わなかった、じゃと?」
「男が、一度惜しんだと思われたことを、後から『橋が落ちていた』と言い訳するのは、みっともない。そう思われたのではありませんか」
老人は、答えなかった。答えられなかった。それが、答えだった。
わたしは、ボルド老人に向き直る。
「ボルド様。あなたが三十年恨んでこられたのは、『水を惜しんだ男』です。けれど、そんな男は、初めからいなかった。いたのは、『水を分けたくても、橋がなくて渡れなかった男』だけです」
川の両岸で、二人の老人が、初めて互いの顔を見た。
三十年、背けてきた顔を。
「……ガレス」
「ボルド。わしは、あの時……」
言葉は、続かなかった。けれど、続く必要はなかった。
こじれていた糸が、ほどけた。ほどけた糸は、もう一度、結び直せる。
わたしは、アルヴィン様を振り返った。
「橋を、架け直しましょう。三十年前に落ちた、あの橋を。——この縁なら、結べます」
アルヴィン様は、呆然とわたしを見ていた。それから、ぐっと奥歯を噛むような顔をして、川下を指さした。
「……橋の材木なら、ある。館の裏に、使わずに積んである。父が、いつか架け直すと言って、そのままにしていたものだ」
「では、ちょうどいい」
わたしは、微笑んだ。
その日の午後、三十年ぶりに、二つの村の男たちが同じ川に立った。ギード村が材木を運び、ロウ村が縄を綯った。夕暮れには、粗い橋が一本、川を跨いだ。
橋のたもとで、ガレス老人がボルド老人に、水を一杯、差し出していた。
三十年、遅れた水だった。
*
その頃、王都では。
リューベルン王国の使者が、同盟婚の白紙撤回を告げて、王城を発とうとしていた。
「話が違う。我らが聞いていた縁組の条件と、まるで異なる。あのアルシェット嬢が差配していた時とは、何もかもが」
引き止めようとするオルフェウスの声も、セシリアの取りなしも、使者の背には届かなかった。
王家が結んだはずの、最初の同盟の糸が。
ぷつりと、切れた。
第3話、いかがでしたか。ロザの「糸読み」が初めて本領を発揮する回でした。
三十年の遺恨の結び目が、たった一杯の「もらい水」だった——縁というのは、案外そういうものかもしれません。
そして同じ日、王都では最初の同盟がほどけ始めました。ロザが抜けた代償が、静かに動き出します。
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