第20話:道具の値段
翌日の昼、ヴァレンティンは、正装で現れた。
従者が、羊皮紙を一枚、机に置く。
「ガルディア王国、縁定め職。任状でございます」
初めて会った日、この人は言った。地位を差し上げます、権限も、と。社交の言葉だと思っていた。——言葉では、なかったのだ。
「位は、宮廷顧問と同格。俸給は、年に——」
「おやめください」
「金額を申し上げるのは、無作法でしたか」
「いいえ。聞けば、心が、動くからです」
*
「正直に申し上げます」
「あなたには、あの一行しか、動かせない。グリュン伯家の次男は、あなたが止めたのではない。あの若者が、勝手に引き返しただけだ。——権限が、ない」
「……違いません」
「百四十六行、残っております。あなたには、全部、見えている。見えていて、一行しか動かせない。ロザリンド殿。それは、地獄ではありませんか」
答えられなかった。図星だったからだ。
「ガルディアへ、おいでなさい。あなたは、見えるものを、全部、動かせるようになる」
*
アルヴィン様は、壁際に立ったまま、何も言わない。
「……止めては、くださらないのですか」
「止めん」
心臓が、落ちた気がした。
「俺が『行くな』と言って、お前が残るなら。それは、俺が選んだことになる。……止めれば、俺も、あの男と同じだ。お前に、値をつける」
この人は、いつも、いちばん痛いところで、いちばん正しい。
*
この人は、わたしを侮っていない。追放されて初めて、わたしは、正当に評価された。
だから、断りにくい。
任状を、そっと押し戻した。
「お断りします」
「理由を、伺っても?」
「あなたは、わたしを、正しく評価してくださいました。……ですが。値のつくものは、いつか、値で切られます」
彼の、どこかが、静かになった。
「道具は使う者次第で名器になる、とあなたはおっしゃった。……あれは、正しいのです」
「では」
「正しいから、いやなのです」
「名器は、選びません。選ばれるだけです。倉に仕舞われ、値を書かれ、売れる日を待つ。……三年後、あなたの本国が『この道具は値に見合わぬ』と言えば、わたしは、また、捨てられます。もっと丁寧に、もっと正確に」
「わたしは、選びます」
*
彼は、深く頭を下げた。
「見事です」
任状を折り畳み、懐へ戻す。その手つきで、遅れて悟った。——この人は、断られたら引き下がるつもりで、来たのではない。
彼は、目録の一行目に、指を置いた。
「あなたが来ないのであれば。——では、辺境伯の縁を、いただきます」
「なに?」
アルヴィン様が、一歩、出た。
「公女レオノーラ様との婚姻は、すでに同盟の条件として、王家に要求済みです。昨日の評定は、受け入れる方向で進みました。拒めば、同盟は破れる」
「破れれば」
「戦です」
「あなたが受ければ、あなたは辺境を去り、辺境伯の隣が空く。断れば、勅命が下り、あなたには止める術がない。——どちらにせよ、私は、縁を得ます」
呼吸が、できなかった。
他人の縁なら、こんなふうには、ならないのに。
扉のところで、振り返った。
「昨日、あなたがあの若者になさったことと、同じですよ。私も、読んで、お見せしただけだ。——決めるのは、あなたです」
*
その夜の物見台は、雪の匂いがした。
肩に、重いものが乗った。彼の上着だった。
「昼のことだが。……止めなかったのは、行ってほしくなかったからだ。言えば、お前を縛る。黙っていたら、それも嘘だ。……すまん」
わたしは、手を、伸ばした。
あの朝は、この人が、わたしの手を取った。今日は、わたしから。
傷だらけの、大きな手を、両手で包んだ。
「……ロザ」
「あなたが選んでくださったから、選び返したのだと、思っておりました。……違いました。わたしは、わたしの意思で、あなたを、選んでいます」
わたしの手の中で、この人の手が、震えた。
「この縁は」
彼が、握り返した。強く。痛いほど。
「渡さん」
「はい。——渡しません」
*
やがて、彼が言った。
「ロザ。俺は、断る」
——ああ。
「政略婚など、二度と、この辺境に持ち込ません」
あの朝と、一言一句、同じ言葉だった。
あの日、その一言で、切れていると思い込んでいたわたしの糸が、震えて、光った。使者は青ざめ、わたしたちは、勝った。
だから、わたしは、目を閉じた。もう一度、その言葉に、救われてしまいたかった。
「——いいえ」
目を、開けた。
「アルヴィン様。今度は、断るだけでは、終わりません」
「あの朝、断って失ったのは、冬の支援でした。……今度断って失うのは、この国とガルディアの縁です。破れれば、戦になります」
「焼けるのは、国境の川の、両岸。ギード村。ロウ村。ハイデ村。……わたしが架けた橋を、軍が渡ります」
彼の顔から、血の気が引いた。武人だから、わたしより早く、わかったのだ。
「では、どうする」
目録の一行目に、指を置いた。
「あの方は、一つだけ、読み違えておられます」
「わたしは、盤面に、載せられたのではありません。——今度は、わたしが、盤面に立ちます」
*
縁を組む道具、と呼ばれた女が、生まれて初めて、自分の縁を、自分の手で、盤の上に置いた。
——置かれたのでは、ない。
わたしは、もう、読むだけの女では、いられない。
第20話「道具の値段」、いかがでしたか。ヴァレンティンの引き抜きを、ロザが断りました。「値のつくものは、いつか、値で切られます」——この一言を、どうか憶えておいてください。
アルヴィンの「止めん」。行ってほしくないくせに、言えば彼女に値をつけることになると知っていて、黙っていた男です。そんな彼に、今度はロザのほうから手を伸ばしました。
最後の「いいえ」。かつて彼は「断る」と言って勝てましたが、今度は勝てません。断れば戦——焼けるのは、あの橋です。
次話「勅命」。公女レオノーラが、こちらから会いに行くより先に、自分で辺境へ乗り込んできます。第一声は——「縁定め。わたくしを、値踏みなさい」。
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