第19話:その縁は、三年で切れます
目録が届いて、四日。
縁が、百四十七行。染み一つない、美しい書類だった。この国から縁を一つずつ抜き取っていく手形だということを、除けば。
「その紙を睨んでたら、字のほうが降参するとでも思ってんの」
マリカが、机の脇に座り込んだ。
「読めました。全部」
「じゃあ、なんで——」
マリカが、口をつぐむ。見えても動かせない、と答えたのを憶えているのだろう。
「ねえ。この人たち、その紙のこと、知ってんの? あたしなら、自分の名前が知らないおっさんの紙に書いてあって、それで結婚が決まってたら、腹立つもん」
——知らない。
読んだのは、書いたヴァレンティンと、読まされたわたしだけだ。
「壊さなくて、いいのです。読んで、お見せすればいい。——決めるのは、書かれた側です」
戸口で、アルヴィン様が腕を組んでいた。
「それで、崩れるのか」
「崩しません。……崩れられるように、しておくだけです」
*
十二行目。
グリュン伯家 次男 ユリウス / ガルディア ファルコ家 息女 セラフィナ / 後見、三年。
その顔合わせの一行が、翌朝、わたしが架け直した橋を渡る。
宿で向き合った若者は、二十歳そこそこ。
「セラフィナ様は、どのような方ですか」
「……存じません。会ったことも」
「その釣書を、拝見できますか。——先ほどから、三度、胸に手をやっておいでです」
*
差し出された一枚を、光にかざし、望みの欄を指した。
「『父の望むままに』。——望みの欄に、ご自分の望みが、ありません」
「……」
「ユリウス様。ご自分の釣書の同じ欄に、なんとお書きになりましたか」
彼は、答えなかった。
「……『家の望むままに』でしょう」
「なぜ、それを」
「同じ紙が、二枚あるからです」
「国が違い、家が違い、会ったこともないお二人が、同じことを書いておられる。これは、縁ではありません。同じ書式の写しが、二枚あるだけです」
「その縁は、結べません」
「な——」
「その縁は、三年で切れます」
「なぜ、三年なのです」
「お二人の間に、糸が一本もないからです。会ってもいない。書き合ってもいない。支えているのは、ガルディアの後見だけ。——支えだけで立つものは、支えを外した日に、倒れます」
目録の十二行目に、指を置く。
「後見、三年。……あなたの縁が三年で切れることは、わたしが読んだのではありません。ヴァレンティン様が、この紙に、そうお書きです」
「では——あなたが、止めてください。あなたがそうおっしゃれば、父も」
「いいえ」
釣書を、彼の手に返した。
「わたしは、読んだだけです。止める権限も、力もありません。……決めるのは、あなたです」
長い沈黙のあと、彼が言った。
「……セラフィナ殿も、望んでは、おられないのですか」
「あなたが降りれば、あの方も、降りられます」
彼が、立ち上がった。手は、まだ震えていた。
「引き返します。……あの紙に『家の望むままに』と書いたのは、嘘です。何も望まないふりを、しただけだ」
*
橋を渡らずに、一行は東へ引き返していった。
「……あんた、紙、読んだだけじゃん。なのに、あの人、勝手に帰った」
「……ええ」
「こわ」
橋の欄干に、手を置いた。
——買われた縁には、続く理由がない。
ならば。
いつでも、降りられる。
*
その夜、ヴァレンティンが、台帳だけを抱えて館へ来た。
「一行、消えました」
怒ってはいなかった。羽根ペンを取り、静かに書き込んでいる。
「ロザリンド殿。何か、なさいましたか」
「釣書を、読んで差し上げました」
「それだけ?」
「それだけです」
ペンが、止まった。
「……脅しも、金も、使わずに」
「わたしには、どちらもありませんので」
「面白い」
「あなたは、数を読まない。持参金も、家格も、後見の額も、あなたの口からは一度も出てこない。……では、何を読む」
「人を読みます」
彼が、台帳から、目を上げた。
初めてだった。この人が、紙ではなく、わたしを見たのは。
「……なるほど。あなたは、私の台帳に、載らない」
彼は、笑った。負けた者の笑い方では、なかった。
「私はこれまで、あなたのお名前を『得るべきもの』の欄に書いておりました。——今日、書き換えます」
「……なんと、お書きに」
ペンが、走った。
「『敵』と」
*
台帳を閉じ、扉のところで振り返った。
「王都から報せが。王家は、ガルディアの要求を受け入れる方向だそうです。……近く、この辺境に、勅命が下るでしょう」
背筋が、冷えた。
「ロザリンド殿。あなたは、人を読む。それは、認めます。——ですが」
彼は、静かに、頭を下げた。
「人は、勅命を、読み返せません」
*
扉が閉まったあと、わたしは、目録の一行目を開いた。
『一、ヴェルンフェルト辺境伯アルヴィン / ガルディア公女レオノーラ』
指を、一つだけ右へ滑らせる。後見の欄。
百四十七行のうち、この一行にだけ、年限が、書かれていない。
他の百四十六は、三年で捨てていい。この一行だけは、捨てない。
——切れない縁として、この人は、これを組むつもりでいる。
第19話、いかがでしたか。ロザは何一つ壊さず、紙を一枚読んで見せただけで、買われた縁が一つ、橋の手前で引き返しました。手を下さず、当事者が自分で降りる——これが、この作品の勝ち筋です。
内心の一行。「買われた縁には、続く理由がない。……ならば、いつでも、降りられる」。効いてくるのは、ずっと先です。
ヴァレンティンは、怒りませんでした。ロザの名を「得るべきもの」の欄から「敵」の欄へ書き換えて、嬉しそうに帰っていきます。厄介な男です。
そして、勅命。目録の一行目にだけ、後見の年限がありませんでした。次話「道具の値段」、ヴァレンティンが、ロザ本人に値をつけに来ます。
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