第18話:切り崩される縁
目録は、十日、来なかった。
その十日で、王都から報せだけが流れてきた。
「お嬢様。ヴァイス伯家の長女様の、ご縁が決まったそうでございます。ガルディアのヴィント家の次男へ。持参金は、先方が全部持つと」
五年前、宰相バルドウィンに縁を潰され、それきり嫁がずにいた方だ。半月前、あの大広間で、わたしがその名を呼んだ。宰相に縁を壊された者たちの、一人だった。
「長女様は、お披露目でこう仰せだったと。『五年ぶりに、わたくしの名を呼んでくださった方がおりました』と」
——名を、呼んだ。
宰相は、あの方を「ヴァイス伯家の娘」としか呼ばなかった。五年、誰も呼ばなかった。
呼ばれれば、人は、振り向く。
*
三日後、ラント子爵家。七年前、宰相の政略婚で没落した家だ。背丈より高い借財を、ガルディアの家門が肩代わりした。
さらに三日後、ロート伯家の三男。二日後、グリュン伯家の次男。
広間の地図に、小石を四つ置いた。きれいに、王都を囲んでいた。
「……なんだ、これは」
「侵食です。兵は一人も動いていません。動いたのは、縁だけです。縁が繋がれば金が動き、荷が動き、道が向きを変える。三年もすれば、この四家は王都よりガルディアを向いています」
「縁だけで、国が取れるのか」
「落ちる家なら、取れます。——この四家は、全部、宰相閣下が壊した家です。壊された家は弱る。跡取りの縁が決まらない、持参金が用意できない。そこへ金と後見を持って行けば、落ちる」
「誰が、いつ、どの縁を壊され、どれだけ弱っているか。その名を全部呼んで束ねたのは、わたしです。——わたしが束ねた恨みを、あの方は、そのまま拾っていった。買い物の目録として」
「あの方は、悪いことを何一つしていません。行き遅れと言われた方に、縁を持ってきた。責める材料が、一つもない。宰相閣下なら、暴けば終わりました。——善いことをする敵を、どうやって詰ませればいいのでしょうね」
*
翌朝、マリカが塩を抱えて来た。
「ロウ村から。ボルドのじいさんが、ロザ様にって。川下から回ってきたやつ」
「川下、というのは」
「国境の向こう。サルデっていう村。……知らないの? 橋できてから、荷、通るようになったし。じいさんたち、麦と塩、交換してんの。昔っから。水は上から下に流れるんだから、荷だって流れるってさ」
マリカが、裏返しておいた紙をめくる。
「読めるし。ロザ様が教えたんじゃん。——これ、ぜんぶ切れるって書いてある」
「ええ。ヴァイス伯の長女様の縁は、三年で。ラント子爵家は、二年ももちません。借財を返してもらった家は、いつかその相手を憎みますから」
誰と誰が結ばれ、いつほどけるか。結び目まで、見えていた。
「じゃあ、なんで動かないの。手紙書くとか、行くとか、あるじゃん。あんた、三十年こじれてた村、一日で直したんだよ?」
「あれは、頼まれたからです」
「頼まれなきゃ、やんないの?」
「……ええ。見えても、動かせないのです」
「そんなの、おかしいじゃん! 見えてんのに! 人がどぶに嵌まるの見て、あーあ嵌まったなーって? それが縁定め?」
「マリカ」
「あたし、あの二つの村、ロザ様が直したの見たんだよ。三十年、口きいてなかったじいさんが、一日で。どうにもなんないやつが、どうにかなるんだって。だから教えてって言ったの。……なのに、これ、なに」
この子は、いつも、こうだ。怒っているように見えて、泣いている。
「じゃあ、あんた、なんのために目ぇ持ってんの」
「……わかりません」
マリカは、口を開けて、閉じて、出ていった。
*
夕方、橋まで歩いた。
袂から、道が一本、川に沿って下っている。荷車の轍が、ついていた。わたしが架け直させた橋を、わたしの知らない荷が、渡っていく。
その轍を見ていた。見ていただけだった。
*
館に戻ると、ハンナが手紙を持っていた。殿下の御手蹟だ。
『ロザへ。
ガルディアの使者が、東の三家を回っていると聞いた。
これをどう見ればよいのか、判じかねている。お前なら、この縁の何が見えるのだろうと、考えた。
……いや。
これは、頼みではない。
ただ、書いた。
オルフェウス』
この方は、変わった。半年前なら、判じかねている、とは書けなかった。
けれど——これは、頼みではない。
「お返事は」
「いいえ」
手紙を、抽斗にしまった。
「頼まれていませんから。——わたしは、頼まれなければ動けない女です」
*
目録は、翌朝、届いた。
紐を解くと、縁がずらりと並んでいた。家の名。家格。持参金。そして、いちばん右の列に——数字。
値がついていた。すべての縁に、公平に。一つの例外もなく。
アルヴィン様が隣で覗き込み、動きを止めた。
一行目から、目を上げられなかった。
『一、ヴェルンフェルト辺境伯アルヴィン / ガルディア公女レオノーラ』
一行目。筆頭。
——ご心配なく。公平に、値をつけます。
紙のいちばん右。わたしとこの人の縁が、まだ言葉にもなっていない場所に。
数字が、一つ、書いてあった。
第二部で、いちばん深いところです。ヴァレンティンは、剣を一本も抜いていません。動いたのは、縁だけです。
そして彼が拾ったのは、宰相が壊した家門でした。ロザが束ねた恨みの名簿が、そのまま、この男の買い物の目録になっていた。第15話の勝利が、ここで牙を剥きます。
「見えても、動かせないのです」。マリカは怒りました。「じゃあ、あんた、なんのために目ぇ持ってんの」。ロザは、答えられませんでした。
オルフェウスも変わりました。けれど、まだ頭は下げない。「これは、頼みではない。ただ、書いた」——王太子の矜持です。
次話、ロザは立場も権限もないまま、たった一つだけ持っているもので、盤に触れます。ブックマーク・評価、いつも支えられています。




