第16話:破談の代償
辺境の冬支度は、忙しい。薪を割り、麦を干し、屋根の苔を掻き落とす。王都では、冬は暦の上の言葉だった。ここでは、備えを怠れば飢える。
わたしは中庭で冬囲いの帳面を照らしていた。隣で、アルヴィン様が黙々と薪を割っている。
「……」
「……」
一昨日。宰相バルドウィンを詰ませた帰りの馬車で、この人はわたしの手を握った。わたしは、握り返した。それだけのことなのに、あれから目が合うたび、心臓が頼んでもいない働き方をする。
「……ロザ」
「はい」
「……薪だ」
「……薪、ですね」
三十年こじれた村の遺恨なら一目で結び目が見えるのに、二日前の自分の手のことは、まるで読めない。
「あんたたち、なんかあった?」
門柱にもたれたマリカが、実に、にやにやしていた。
「ありません」
「ない」
「早ッ」
籠を抱えたハンナが、そっと目をそらした。
「わたくしは、何も見ておりません。——お嬢様が今朝、髪を三度結い直しておられたことは、存じ上げておりますが」
「ハンナ!」
——こういう日が、続けばいいと思った。
思って、しまった。
*
早馬は、その日の夕刻に来た。オルフェウス様の書状だった。以前より、字の線が細い。
読むうちに、指先から温度が引いていった。
「ガルディアとの、同盟婚が」
一度、息を継がねばならなかった。
「破談しました」
アルヴィン様の斧が、止まった。
「その縁は、誰の縁だ」
「ガルディア公女レオノーラ様。王弟殿下の姫君で、十八歳。——お相手は、オルフェウス殿下です」
「……お前の」
「元婚約者の、次の縁です。宰相閣下が、二年がかりで押し込んだ縁でした。家格と、持参金と、賄賂で」
「宰相が落ちた。だから縁も落ちたか」
「落ちたのは、後ろ盾です。それだけなら、まだ繋ぎ直せました。——帳簿が暴かれたときに、縁の裏まで一緒に出ました」
わたしは、書状の二枚目をめくった。
「公女を売った金と、買った金が、同じ懐に入っていた。閣下の懐に」
書状の最後に、ガルディアの口上が、そのまま写されていた。
『我が公女は、値をつけられていた。エルデンフェルト王国は、我が国を侮辱した』
*
その夜、ハンナが、そっと聞いた。
「お嬢様なら、あの同盟婚は、結べましたか」
慰めるつもりだったのだと思う。
「いいえ」
わたしは、灯りの中の自分の手を見た。
「その縁は、結べません」
二年前、あの釣書を見た日に、そう申し上げるつもりだった。公女の糸と殿下の糸は、どこも噛み合っていなかった。家格だけが、きれいに釣り合っていた。
「申し上げる前に、閣下が決めておしまいになりました。わたしは縁を組む道具でしたから。道具の意見は、誰も聞きません」
「では、お嬢様のせいでは……」
「いいえ。いずれ壊れる縁でした。——けれど、壊れ方を選んだのは、わたしです。あの広間で帳簿を開かせたのは、わたしです。だから後ろ盾が消えて、だから賄賂が出て、だから公女様は、ご自分に値がついていたと知った」
窓に、自分の顔が映っていた。
「正しいことをして、国の縁を、一本、切りました」
*
翌朝、王都から来た文官に尋ねた。
「宮廷は、今、どうなっていますか」
「……釣書が、腐っております」
文官は、うなだれた。
「積まれたまま、誰も手をつけられません。同じ家に縁談が二つ入っていたり、待ちきれずに娘を嫁がせてしまった家があったり。——縁組の権を持つ者が、一人もおりませんので」
「殿下は」
文官は、声を落とした。
「……あの山の前に、半刻、お立ちのままでした。何度も、一番上の一枚を、手に取っては、戻して」
かつて、あの山を一枚ずつ崩していたのは、わたしだった。誰にも、それを仕事だと思われないまま。
*
二度目の報せは、三日後の口上だった。
広間に、アルヴィン様が地図を広げている。国境の線が、赤い。
「ガルディアが、全権使者を発したそうです」
「戦の使者か」
「いいえ。まだ、縁の使者です。全権とは、その者の判断が、そのまま国の判断になるという意味。——話をしに来る、ということです」
「話ならいい」
「よくは、ありません。戦は支度がいります。話は、明日にでも始められます」
「名は」
ハンナが、口上書を読んだ。
「……ヴァレンティン。姓は、ございません」
家格が物を言う国で、家の名を持たぬ者に、国の全権を預ける。それだけで、背筋が寒くなった。
「使者は、いつ王都に入る」
ハンナが、最後の一行に目を落とし——その顔から、血の気が引いた。
「……王都には、入りません。使者は——まっすぐ、こちらへ、と」
アルヴィン様が、地図の赤い線を見た。その内側に、ヴェルンフェルトがある。
「ここは、国境の要衝だ。ガルディアと向き合う、たった一つの門だ」
「はい」
「王都に用がないんじゃない。——用があるのは、最初から、ここだ」
半年前、わたしは王都を追われて、この線の際まで来た。
ここが、いちばん遠い場所だと思っていた。
そうではなかった。ここは、いちばん近い場所だった。
第二部が始まりました。手を握った翌日の二人が「……薪だ」「……薪、ですね」しか言えないところから、どうぞ。
そして、この部の背骨です。ロザは正しいことをしました。その正しさが、国の縁を一本切った。勝利には、代償があります。
王都では、釣書の山が腐り始めました。オルフェウスは、一番上の一枚を手に取っては、戻している。
次話、ガルディアの全権使者ヴァレンティンが、王都を素通りして辺境へ。剣ではなく、もっと厄介なものを持ってきます。
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