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夫婦係〜御曹司とゴリラ系女子編〜  作者: 柊原 ゆず


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第三話 打ち砕かれた余裕


 何度物理攻撃を食らおうと、公衆の面前で罵倒されようと、神室 蓮の心は少しも折れなかった。

 何故なら、彼には絶対的な『余裕』があったからだ。どんなに今は断られ、避けられていようとも、神室財閥の跡取りである彼には、最終的に葉山 桔花を手に入れるための『手段』が、文字通り山のように存在した。

 例えば、外堀から埋める作戦。蓮はすでに、桔花の父親が勤務する中堅商社を、神室グループの傘下に収めるための株式買収をこっそりと、しかし確実に進めていた。いざとなれば『社長の息子』という立場を振りかざし、家ぐるみの付き合いに持ち込む算段である。

 さらに、彼女が愛用している駅前のプロテイン専門店と、会員制のハードコアなトレーニングジムは、既に蓮のポケットマネーで買収済みだ。オーナー権限を駆使し、彼女のプロテインの購入履歴やジムでの筋肉の仕上がり具合のデータを日々ウキウキとチェックしている。

 きいちゃんが僕を愛してくれないなら、僕の財力で君の生活のすべてを包み込んで、逃げられないようにしてあげる。……ああ、なんてロマンチックなんだろう♡

 本気でそんなことを考え、いつでも発動できるジョーカーとして、数々の権力を手札に隠し持っていたのだ。

 そして何より、蓮に余裕を与えていた最大の理由は、桔花自身にあった。彼女が極度に恋愛に疎く、異性に対して一ミリも、微塵も興味がないことを、蓮は熟知していたからだ。

 ある日の放課後、珍しい出来事があった。他校の不良を一人で返り討ちにした桔花の武勇伝に惚れ込んだ、他クラスの男子生徒が震える手で彼女にラブレターを渡したのだ。物陰からそれを見ていた蓮は一瞬だけ鋭い殺気を放ったが、すぐにその必要がないことを悟った。


『なんだこれ。果たし状か?』

『えっ、いや、あの……葉山さんのカッコいいところに惹かれて……』

『なるほど、私に挑戦したいんだな。いい度胸だ。放課後、体育館裏に来い。手加減はしねえからな!』


 結果として、勇気を振り絞って告白した男子生徒は、放課後の体育館裏で桔花のスパーリング相手にされ、見事な三角絞めで意識を刈り取られて沈んだ。


『……フン、口ほどにもねえな』


 気絶した男子生徒を見下ろし、ジャージ姿で汗を拭う桔花。その一部始終を、校舎の屋上から優雅に特注の紅茶を啜りながら見下ろしていた蓮は、恍惚とした吐息を漏らした。


『ああ……なんて純潔で、暴力的で、美しいんだ。僕以外の虫は、すべて君自身が駆除してくれる。最高だ』


 誰も彼女を『女』として見ようとしないし、近づく者は彼女の制裁を受ける。そして彼女自身も、己を『女』として振る舞うつもりが全くない。つまり、彼女の隣は、いついかなる時も完全なる『空席』なのだ。誰も彼女の心に踏み込めない。彼女の隣という特等席は、僕が座る日まで誰にも汚されることはない。ならば、急ぐ必要はない。

 僕からの執拗なアプローチとスキンシップで、少しずつ、少しずつ僕という『男』の存在を刷り込んでいく。彼女が僕の愛を『鬱陶しい日常』として受け入れ、麻痺し、気づいた時にはもう、僕なしでは生きられないように……。時間をかけて、僕の色に染め上げていけばいい。


『逃げ回るきいちゃんを、じわじわと追い詰めていくのも、愛の醍醐味だからね』


 そう。蓮は完全にタカを括っていたのだ。

 葉山 桔花という難攻不落の要塞を落とすのは、時間と財力さえかければ必ず成功する、自分だけの甘いゲームだと信じて疑わなかった。

 しかし――その圧倒的な余裕は、政府の打ち出した狂った政策によって、一瞬にして粉砕されることになる。

 それは、神宮寺本邸の豪奢なリビングでのことだった。

 最高級のマイセンのティーカップで、優雅にダージリンティーを傾けていた蓮の耳に、壁掛けの巨大なモニターから流れるニュースキャスターの声が届いた。


『――続いてのニュースです。深刻な少子化対策の一環として、政府は全国の高校に新たな制度【夫婦係】の導入を決定しました。これは生徒が日替わりのくじ引きで男女ペアとなり、放課後を疑似的な「夫婦」として過ごすというもので……』

「…………え?」


 ニュースの詳細を聞き流そうとした蓮の思考が、唐突にフリーズした。生徒が日替わりで男女ペアになり、放課後を二人きりのラウンジで過ごす?

 きいちゃんが?あの、誰にも触れさせたことのない僕の愛しいきいちゃんが……くじ引きで決まった、どこの馬の骨とも分からない有象無象の男と、擬似的にであっても「夫婦」になる?

 他の男が、彼女と狭い密室で二人きりになる。

 他の男が、彼女とソファで並んで座る。

 他の男が、あわよくば……彼女に、触れる?


『……ふざけるな』


 パリンッ!!!


「ひっ……!」

「れ、蓮様……!?」


 甲高い破砕音と同時に、控えに立っていたメイドたちが短い悲鳴を上げた。

 蓮が強く握りしめた右手の平で、マイセンのティーカップが無惨にも砕け散っていたのだ。鋭い陶器の破片が肉に食い込み、手のひらから赤い血がポタポタとペルシャ絨毯の上に滴り落ちる。

 しかし、蓮は痛みなど微塵も感じていなかった。いつもは甘く蕩けるような笑みを浮かべている端正な顔からは、一切の感情が抜け落ちていた。ただ、ドス黒く濁った底なしの殺意と、胃袋を素手で掴み出されるような強烈な焦燥感だけが、彼の全身を支配していた。

 そんなこと、絶対に認めない。彼女の隣に立つのは僕だ。彼女を『妻』と呼べるのは、彼女に愛を囁くことを許されるのは、世界中でただ一人、僕だけだ。他の誰かが彼女の空気を吸うことすら我慢ならないというのに!


「……車を出せ。今すぐにだ」


 血まみれの右手からティーカップの破片を無造作に払い落とし、蓮は静かに立ち上がった。その声のあまりの冷たさに、駆け寄ろうとした執事すらも背筋を凍らせて立ちすくむ。


「蓮様、ですが、お怪我が……!」

「いいから車を出せと言っている。……それと、学校の理事長と、文科省の担当大臣に一本電話を入れろ。神室グループからの『特大の寄付金』と『次期選挙の全面的な支援』の用意があるとね」


 蓮の反撃――いや、暴走は、迅速かつ苛烈を極めた。

 日本経済の頂点に君臨する巨大企業グループ、神室財閥。華麗なる一族として知られる彼らだが、そのルーツは昭和から続く、しがない『町の駄菓子屋』である。

 表向きは、子供たちが十円玉を握りしめて集まる憩いの場。しかし、その真の顔は――子供たちの無邪気な会話から親の職業や家庭の事情を探り、付き添いで来た大人たちの世間話から地域の噂や企業の内情をかき集め、それを売買する『情報屋』だった。『食(菓子)』でターゲットを釣り、警戒心を解かせ、あらゆる情報を搾取し、弱みを握る。神室家は代々、その恐るべき情報収集能力と交渉術を武器に、政治家や大企業を裏から操り、一代で今の地位まで登り詰めた化け物一族なのだ。

 そして神室蓮は、その神室のドス黒い血と才能を、誰よりも色濃く受け継いでいた。彼が桔花のプロテインの好みから父親の勤務先まで完全に把握していたのも、この国家レベルの裏情報網を私物化してフル稼働させていたからである。






 圧倒的な情報網と、相手を絶望に突き落とすジョーカーの手札を胸に秘め。狂気と殺意に支配された御曹司が最初に向かったのは、学校でもシステム会社でもなく、国家権力の中枢である永田町だった。

 議員会館の最上階。少子化対策および教育改革の特命担当大臣の執務室に、蓮は黒服のSPを引き連れ、堂々と足を踏み入れた。


「おお、神室くん。お父上ではなく君が来るとは驚いたが……今日はどのようなご用件かな?」


 大臣は神室家の跡取りに対し、愛想笑いを浮かべながらも余裕の態度で出迎えた。高校生の息子のお使い程度だろうと、タカを括っていたのだ。しかし、蓮は大臣の勧めるソファに座ることすらなく、背後に立つSPに小さく顎で合図を送った。SPが無言でアタッシュケースから黒い小型の端末を取り出し、スイッチを入れる。『ジーッ……』という微かなノイズ音が執務室に走ったかと思うと、天井隅の監視カメラのランプがフッと消え、大臣のデスク上のPC画面がブラックアウトした。


「な、なんだね!?いきなり停電……?」

「この部屋の録音・録画機器、ならびに外部への通信ネットワークは、たった今、うちの『情報部』がすべて妨害(ジャミング)した。君がここで何を言おうと、誰にも聞かれないし、証拠も残らないよ」


 動揺する大臣を余所に、蓮は冷酷なアッシュブルーの瞳で見下ろした。


「安心して『内緒話』ができるね、大臣」

「き、君は……いったい何を……?!」

「単刀直入に言わせてもらう。僕の通う高校で、僕と特定の女子生徒……『葉山 桔花』のペアを、完全固定化する」

「は……? あれは厳正なシステムによるランダム抽出で……特定の個人のペアを固定するなど、制度の根幹を揺るがす重大な不正だ!国としてそんな特例を認めるわけが――」

「特例を作れと言っているんじゃない」


 蓮は包帯の巻かれた右手で、ドンッ!と大臣のデスクを叩いた。そして、空いた左手で懐から一つの『茶封筒』を取り出し、デスクの上に滑らせた。


「システムの改ざんそのものは、これから僕が直接会社に乗り込んでやらせる。……僕が君に要求しているのは、この一件に関して政府の監査の目を完全に塞ぎ、『見て見ぬふり』をしろということだ。……まずは、その封筒の中身を見てくれるかな」

「な、なにを馬鹿な……っ!」


 反論しようとした大臣だったが、蓮から放たれるドス黒い殺気に押され、震える手で茶封筒を開けた。中から出てきた数枚の書類と写真を見た瞬間――海千山千の政治家であるはずの大臣の顔から、スッと血の気が引いた。


「ひっ……!!な、何故君が、これを……!?」


 そこにあったのは、二年前の冬、大臣が愛人に産ませ、スイスに隠している子供の鮮明な写真。そして、その愛人名義のダミー口座に、国交省の公共事業から『裏金』が流れていることを示す、数円単位まで正確な振込明細のコピーだった。


「……神室(うち)をただの金持ちだとでも思っていたのかい?昔から人の弱みを握るのが、我が家の家業でね」


 蓮は、獲物を締め上げる蛇のように、ゆっくりと目を細めた。


「もし僕の要求を断れば、あるいは万が一にも僕以外の男が彼女のペアに選ばれるようなことがあれば。……この証拠の原本を、神室が掌握している全てのメディアのトップニュースで一斉に報道させる」


 悪魔のように甘く、そして身の毛もよだつような声が執務室に響く。録音もされない完全な密室で、逃げ場は一切ない。


「……政治生命どころか、君の人生そのものが終わるが……それでもいいのかな?」

「……わ、わかった……!君の高校のシステム監査は……除外リストに入れるよう、手配しよう……っ」


 極秘中の極秘である弱みを完全に握られ、大臣はただ涙目で屈服するしかなかった。一人の少女を独占するという、ただそれだけのため。その目的を阻むものは、国家権力であろうと容赦なく調べ上げ、脅迫し、従属させる。


「素晴らしい。やはり政治家は、未来の国益を最優先に考えられる賢い人種だ」


 完全に白旗を揚げた大臣を前に、蓮の顔にようやくいつもの優雅な笑みが戻った。

 これで、国が僕たちを邪魔することは絶対にない。

 『情報屋』としての凶悪な手札を切り、国家という最強の後ろ盾を手に入れた蓮は、軽やかな足取りで議員会館を後にした。






 永田町で特命担当大臣を脅迫し、政府の監査という『上からの目』を完全に塞いだ蓮。狂気と殺意に支配された御曹司の足は止まらない。彼が次に向かったのは、自身が通う私立校の理事長室だった。


「な、なんだね君たちは!?」


 ノックもなしに重厚なドアが乱暴に開け放たれ、驚いて立ち上がった初老の理事長の目に飛び込んできたのは、黒服のSPたちを引き連れた神室蓮の姿だった。


「やあ、理事長。忙しいところ申し訳ないね。少しだけ、君の貴重な時間を『買わせて』もらおうか」


 蓮は理事長の動揺など意に介さず、ズカズカと部屋に足を踏み入れると、最高級の革張りソファにドカッと腰を下ろした。普段の学園生活で見せる、誰にでも愛想の良い優雅な面影はどこにもない。そのアッシュブルーの瞳は氷のように冷え切り、ティーカップを握り潰した右手に巻かれた包帯からは、うっすらと赤い血が滲んでいた。


「か、神室くん……!いったいどういうことだね?!ここは生徒が勝手に入っていい場所では……」

「政府が下らない制度を導入するらしいね。『夫婦係』だっけ?」


 蓮は理事長の言葉を遮り、冷徹な声で本題を切り出した。同時に、SPの一人がアタッシュケースを理事長のデスクの上に置き、カチャリと音を立てて開いた。


「な……っ!」


 中に入っていたのは、見たこともない額の小切手と、分厚い契約書の束だった。


「我が神室財閥から、この学校への『ささやかな寄付』だ。老朽化しているという体育館を、最新鋭の設備を備えたものに建て替えてあげよう。ついでに全教室の空調も最新のものに入れ替えようか。……それから、『夫婦係』に使う各ラウンジの建設費にも使うといい。どうだい、悪くない話だろう?」

「こ、これは……確かに素晴らしいお話だが……しかし、なぜ急に?」

「簡単なことだよ」


 蓮は組んでいた足を組み替え、ソファの背もたれに深く寄りかかった。


「国が定めた『夫婦係』のペアリング。あれは日替わりのランダムということになっているが……この学校においてのみ、僕と、1年C組の『葉山桔花』のペアを【完全固定】にしろ。そして、それを『偶然のシステムの不具合』として黙認しろ」

「なっ……!?そ、そんな無茶な!いくら神室くんの頼みでも、それは国のシステムで――」

「頼んでいるんじゃない。命令しているんだ」


 蓮のドス黒い殺気が、理事長室の空気を一瞬にして凍らせた。先ほどまでの優雅な態度は完全に消え失せ、底なしの狂気と独占欲がアッシュブルーの瞳に宿っている。


「政府の監査はすでに僕が黙らせた。問題は現場の管理者である君の対応だけだ。他の有象無象の男が、僕の愛しいきいちゃんと同じ部屋で過ごす?疑似的にでも夫婦になる?……想像しただけで反吐が出る。万が一にも、僕以外の男が彼女の『夫婦役』に選ばれるようなことがあれば……僕は何をしでかすか分からないよ」


 血の滲む右手を軽く握りしめながら、蓮は低く唸るように言った。


「理事長。君は自分の立場と、この学校の未来を天秤にかけて、賢明な判断ができる大人だと思っているよ。僕の提案を飲めば、莫大な資金と神室の後ろ盾が手に入る」


 蓮はスッと目を細め、獲物を追い詰める蛇のように冷酷な笑みを浮かべた。


「だが、もし断れば……あるいは、僕以外の男が彼女のペアに選ばれるようなことが一度でも起きれば。君が数年前に隠蔽した、生活指導部教師による生徒からの没収品の横領事件の証拠……その裏帳簿の完全なコピーが、すべてのマスメディアに流れることになる」

「ヒッ……!!」


 完全に隠し通したはずの事実を突きつけられ、理事長は顔面を蒼白にして後ずさった。


「言ったはずだよ。うちは元々『情報屋』だと。この学校の裏事情なんて、僕の耳には全て筒抜けなんだ」


 目の前にいるのは、ただの高校生ではない。圧倒的な財力と、日本中からあらゆるスキャンダルをかき集める裏の情報網を持ち、一人の少女への狂信的な愛情のためなら周囲の人間を社会的に抹殺することなど何とも思わない、本物の化け物だった。


「……わ、わかった……!私の権限で……現場の教員たちには、ただの偶然だと口裏を合わせるように手配する……っ!」

「素晴らしい。やはり君は話の分かる教育者だ」


 理事長が完全に白旗を揚げた瞬間、蓮の顔に、いつもの蕩けるような甘い笑みが戻った。その豹変ぶりに、理事長はさらに震え上がる。


「これで『上』と『現場』の口は塞いだな。あとは根本となるシステムそのものを弄るだけだ。システムの改ざんには、これから僕が直接会社に乗り込んで説得してくるから心配しなくていいよ。君はただ、見て見ぬふりをして、僕たち夫婦の愛の巣を温かく見守ってくれればいい」


 蓮は立ち上がり、血の滲む右手で理事長の肩をポン、と叩いた。


「きいちゃんとの新婚生活が今から楽しみだ。彼女にふさわしい、最高のラウンジが用意されていることを願っているよ」


 狂喜に満ちた足取りで理事長室を後にする御曹司の背中を、理事長はただ絶望的な思いで見送ることしかできなかった。蓮にとって、国家の政策も学校のルールも、愛する彼女を独占するための『便利な舞台装置』でしかないのだ。






 政府特命担当大臣を脅迫し、学校の理事長を莫大な寄付金でねじ伏せた蓮。狂気に満ちた御曹司の『外堀埋めツアー』も、いよいよ最終局面に差し掛かっていた。

 学校のロータリーに待機させていた黒塗りのリムジンに乗り込みながら、蓮は妖しくアッシュブルーの瞳を細めた。


「さあ、仕上げだ。僕と彼女の邪魔をする、あんなふざけた政策に乗った馬鹿な会社に『少し』悪戯してみようかな」


 彼が言う『悪戯』――それは、国家プロジェクトを請け負う大企業に対する、強引極まりないアポ無しでの突撃訪問だった。

 リムジンが滑り込むように走り出す。血の滲む包帯を新しいものへと巻き直しながら、車内からビル群を眺める。

 きいちゃん、もうすぐだよ。僕とマッチングしたきいちゃん、どんな顔をするかなあ。

 蓮は鼻歌を歌いながら、到着するのを待った。

 リムジンが向かったのは、東京都心にそびえ立つ高層オフィスビル。『夫婦係』の抽選・マッチングシステムを開発・運用している、大手IT企業の本社である。当然、事前の約束など一切ない。しかし、エントランスの厳重なセキュリティゲートも、受付嬢の制止も、神室財閥の威光と黒服のSPたちの威圧感の前では全く意味を成さなかった。騒ぎを聞きつけ、エレベーターから慌てて転がり出るように駆けつけてきたのは、システム開発部門の責任者だった。日本の経済界でその顔を知らない者はいない、神室グループの次期総帥の姿を見て、男は目を剥いた。


「か、神室様……!突然のご訪問、いかがなさいましたでしょうか……。そ、その、何か我が社のシステムに不備でも……?」


 責任者は大量の冷や汗を流しながら、必死に愛想笑いを浮かべて腰を低くした。しかし、蓮はそんな男を冷ややかに見下ろすと、ふっ、と鼻で笑った。


「へえ。天下のIT企業ともあろうものが、国家プロジェクトのシステムに関わる重大な話を、こんな誰の耳があるかも分からないオープンなエントランスで聞くつもりかい?随分と風通しのいい会社なんだね」

「ひっ……!も、申し訳ございません!すぐに最上階の特別応接室へご案内いたします!」


 蓮の皮肉たっぷりの言葉に顔面を蒼白にし、責任者は逃げるように蓮たちをVIP専用のエレベーターへと誘導した。通されたのは、分厚い防音扉とマジックミラーで完全に外界から遮断された、重厚な特別応接室だった。SPたちを部屋の外に待機させ、重いドアがカチャリと閉まった、その瞬間。


「……神室様、それで、我が社のシステムに一体どのような――」


 特別応接室で待っていたのは会社の取締役社長だ。へこへこと揉み手をして近づいてきた社長の胸ぐらを、蓮は包帯が巻かれた右手で、いきなりガシッと掴み上げた。


「ヒッ!?」

「システムに不備はない。だが、一つだけ『致命的なバグ』を組み込んでもらう」


 先ほどまでの優雅な御曹司の態度は完全に消え失せていた。氷のように冷たく、しかし地獄の底から響くような声で、蓮は絶対の命令を下した。


「我が高校に導入されるシステムにおいて……『葉山 桔花』のペアは、必ず神室 蓮に固定しろ。他の男が選ばれる確率は0%だ。いや、それではまだ不十分だな……システムが毎日のマッチング計算を行う際、彼女のペア候補のリストには、最初から『僕以外の男のデータが存在しない』仕様に書き換えろ」

「な……な、なにをおっしゃるのですか!そ、そんな無茶な! これは国からの委託事業でして、特定の個人の確率を意図的に操作するだなんて、発覚したら我が社は――」

「発覚しなければいい。それに、政府の監査の目と、学校側の報告はすでに僕が『塞いで』きた」

「……え?」


 蓮の言葉に、責任者は絶望的な顔で息を呑んだ。ただの高校生が、ニュースの報道からたった数時間で政府のトップと学校のトップを黙らせてきたというのか。


「それでも、万が一にも……ということがあります!プログラムの痕跡から不正がバレれば、私は逮捕され、会社は倒産――」

「君は、何と何を天秤にかけているか分かっているのか?」


 蓮は胸ぐらを掴む手にさらに力を込め、社長の顔に自分の顔をギリギリまで近づけた。光を持たない、深淵のようなアッシュブルーの瞳が男を射抜く。


「君がこの要求を断れば、あるいは万が一にもシステムのエラーで、僕以外の男が彼女のペアに選ばれるようなことがあれば。……君の会社ごと、いや、君の一族の資産から戸籍に至るまで、全てをこの世から消し去る。裏の情報網と神室の力を使えば、それがどれほど容易いことか……分かっているね?」

「あ……ぅ……っ……」


 もはやそれはビジネスの交渉などではない。権力という名の暴力による、完全な蹂躙だった。一人の少女を独占するという、ただそれだけのこと。そのためだけに、この男は国家の政策の裏をかき、企業を一つ潰すことなど造作もないと本気で言っているのだ。


「……僕以外の有象無象の男が、僕のきいちゃんと同じ空気を吸うことすら許せないんだよ。分かったら、今すぐプログラムを書き換えろ」


 悪魔のように甘く、重すぎる情念の篭った声に、社長はただ涙目で何度も何度も頷くことしかできなかった。

 ――こうして、国家の鳴り物入りの政策の裏で、一人の少女を独占するためだけの狂気的なシステム改ざんが完了した。


「ふふっ……あはははっ!!」


 社長は責任者を呼びつけ、責任者は震える手でプログラムのソースコードを書き換えてゆく。完成したソースコードを確認しながら、蓮はとうとう堪えきれずに歓喜の笑い声を上げた。

 これで、すべて僕のものだ。擬似的であっても、彼女と夫婦になるのは僕だけ。毎日放課後、誰にも邪魔されることなく、彼女と二人きりの甘い時間を過ごせる。在学中に少しずつ、僕なしじゃ生きられない体に作り変えていく。時間はたっぷりあるのだ。


「待っててね、きいちゃん。これからは毎日、僕のあふれる愛を全身で教えてあげるからね……♡」


 両手で顔を覆い、恍惚とした吐息を漏らす蓮。愛する彼女を絶対の檻に閉じ込めるための重く甘すぎる罠は、こうして誰にも知られることなく完璧に作動を始めたのだった。


つづく

地雷を踏み抜かれた御曹司神室 蓮による外堀埋めツアーの話でした。

恐らく、相手が桔花ではなくか弱い女の子であったらここまでしなくても良かったのだと思います。

夫婦係になる前には、あの手この手で既に恋人になっていたのですから。

(恋人同士は、教師に認められたら『夫婦係』除外という設定もあります。一応)

桔花ちゃんが男に微塵も興味がなく、恋人になれなかったので外堀を埋めるしかなかった可哀想()な蓮くん。

次回からは、始まった新婚生活を堪能する蓮くんの話となります。次回もよろしくお願いします。


最後に一つ。

ヤンデレ男子の地雷を踏み抜く話を考えるのがだ~~~い好きです!!!!!

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