第四話 胃袋掌握
あの一本背負いの初日から、数日が経過した。
「……はぁ。今日もかよ」
放課後の旧校舎。指定されたラウンジの重厚なドアの前で、葉山 桔花は深い絶望とともに盛大なため息を吐き出した。
この数日間、オレは毎日欠かさず『夫婦係』に選ばれ続けている。そして、ドアを開ければ必ず、あの亜麻色の髪をした変態御曹司――神室 蓮が、ソファに座って待ち構えているのだ。最初は本気で自分のくじ運の悪さを呪ったが、さすがに全校男子の中から四日連続で同じ相手を引き当てるなど、異常だ。おそらく、あの頭のネジが飛んでいるストーカーが、裏で何か汚い手を使ってシステムを弄ったのだろう。だが、証拠もない。それに『ミッション未クリア』のまま逃げ出せば、内申点に響くなどのペナルティが課せられてしまう。仮に証拠があったとしても、教師に訴えるということは、オレが毎日『夫婦係』をやらされていることが周囲にバレるということだ。それだけは絶対に嫌だった。
「……オレの大事な筋トレの時間が……!クソッ!」
ギリリと奥歯を噛み締め、桔花は乱暴にドアノブを回した。
ガチャリ。
「おかえりなさい、きいちゃん♡今日もよろしくね♡」
「……」
桔花は鋭い金色の瞳を細め、無言で相手を睨みつけた。
ラウンジの中にいた蓮は、いつもの完璧な白スーツ姿……ではなく、なんとワイシャツの上に黒いエプロンを身に着けていた。
「なんだよその格好」
「ふふ、よく似合ってるでしょ?今日のミッションはこれだからね」
蓮が指差したテーブルのタブレットには、こう表示されていた。
『本日のミッション:夕食を作り、二人で食卓を囲むこと』
「……夕食?」
「そう。夫婦の絆を深めるための、初めての共同作業だね。でも安心して。きいちゃんはそこに座って待っててくれればいいから」
「は?二人で作れって書いてあんだろ」
「二人で食卓を囲めばいいんだよ。夕食は、僕がきいちゃんのために作る。きいちゃんは僕の愛を受け取って食べる。これが僕たち夫婦の共同作業だよ」
相変わらずの狂った理論を展開しながら、蓮はラウンジに備え付けられたシステムキッチンへと向かった。
桔花は料理ができない。プロテインをシェイクするか、コンビニのサラダチキンを齧るか、ゆで卵を作るくらいしかしたことがない。だから、蓮が作ってくれるというなら都合が良かった。
どうせ、こいつみたいな温室育ちの坊ちゃんが作れるものなんて、たかが知れてるだろ。適当に食って、さっさとミッションを終わらせよう。
そうタカを括り、桔花は短くなった筋トレ時間を埋めるように、スクワットを始めた。
しかし。
数分後、キッチンから漂ってきた暴力的なまでに食欲をそそる香りに、スクワットをしていた桔花の動きがピタリと止まり、金色の瞳が見開かれた。
「おい、なんだそのいい匂いは……」
その声に、キッチンに立つ蓮がクルリと振り返る。彼は桔花が匂いに釣られたのを見て、アッシュブルーの瞳を細めて嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ、いい匂いだろう?きいちゃんの胃袋と筋肉が喜ぶ、最高の魔法をかけてる最中だよ♡」
エプロン姿の御曹司はパチンとウインクを一つ落とし、ご機嫌な鼻歌交じりに再びコンロへと向かう。トントン、という軽快な包丁の音。ジュージューと肉が焼ける香ばしい匂いと、ハーブの爽やかな香り。神室財閥の御曹司である筈の蓮は、信じられないほど見事な手つきでフライパンを振るい、手際よく調理を進めていた。
「お待たせ。本日のディナーだよ」
蓮が嬉しそうにテーブルに並べたのは、厚切りの鶏胸肉のハーブロースト、ブロッコリーとゆで卵の彩り鮮やかなサラダ、そして具沢山のミネストローネだった。高タンパク、低脂質。筋肉を愛する桔花にとって、まさに完璧なメニューである。
「な……お前、なんでこんな……」
「愛する妻の健康と筋肉を管理するのは、夫の務めだからね」
蓮はアッシュブルーの瞳を甘く細め、向かいの席に座った。
「神室家の情報網……じゃなかった、愛の力で、きいちゃんがいつもどんなトレーニングをしてどんな栄養素を欲しているかリサーチ済みさ。さあ、冷めないうちに食べて♡」
前半の不穏な言葉を突っ込む余裕もないほど、桔花の胃袋は限界を迎えていた。ハードな部活終わりの体に、この匂いは反則だ。
「……っ、いただきます」
桔花は箸を手に取り、鶏胸肉のローストを口に運んだ。
瞬間。
「……!ッンマァ!!」
鶏胸肉特有のパサつきなど一切ない、驚くほどしっとりとした柔らかさ。絶妙な塩加減とハーブの香りが、口いっぱいに広がる。
「マジか、これ……超美味い……!柔らかすぎるっ!コンビニのサラダチキンがゴムに思えるレベルだぞ!」
「ふふ、良かった♡火入れにはこだわったんだ。神室系列のホテルの三ツ星シェフを家に呼んで、特訓した甲斐があったよ」
桔花に食べさせるためだけに、蓮は世界最高峰のシェフからマンツーマンで料理を叩き込まれたのだ。その重すぎる愛の真実を知る由もなく、桔花は夢中になって料理を口に運び続けた。リスのように頬を膨らませて食べるその姿を、蓮はとろけるような笑顔で眺めている。
「食った食った……。まさか学校でこんな美味いメシが食えるとはな。……あ、ミッションのクリア通知が出た」
皿を綺麗に空にした桔花がタブレットを見ると、画面には『クリア』の文字が表示され、背後のドアのロックが解除される音がした。
「よし、じゃあ帰るわ。ごちそうさ……」
立ち上がろうとした桔花の顔に、スッと蓮の白い指が伸びてきた。長い指先が、桔花の口元に触れる。
「おっと。口の端に、ミネストローネのスープがついてるよ」
「は……っ?」
蓮は、桔花の口元を拭ったその指を、そのまま自身の口へと運んだ。そして、ペロリと色っぽく舐めとった。
「な……っ!」
「……ん。きいちゃんからのお裾分け、すごく甘くて美味しいね♡」
アッシュブルーの瞳が、至近距離で妖しく光る。その瞬間、桔花の思考がショートした。
「お、おまっ……、汚いだろ……っ!」
「汚くなんてないさ。夫婦なんだから、これくらい普通でしょ?」
「っ……この、ド変態がァーーッ!!」
羞恥と怒りで顔を真っ赤にした桔花が、容赦のない右ハイキックを放つ。
しかし、この数日で桔花の攻撃パターンを学習しつつある蓮は、「おっと!」と嬉しそうに身を躱した。
「あははっ!食後の運動かい?」
「逃げんなコラ!その薄汚え顔面を陥没させてやる!」
桔花は床を蹴り、弾丸のような速度で蓮に突進した。ラウンジの中で、逃げる御曹司とそれを追うゴリラ女子の、命がけの追いかけっこが始まった。
「怖い怖い!でもそんな血気盛んなところも愛してるよ!」
蓮はひらりと身を翻し、ラウンジの中央にあるローテーブルを軽やかに飛び越えた。桔花も一切の減速なしにテーブルを跳び越え、着地と同時に強烈な回し蹴りを放つ。
ブォンッ!
空気を切り裂く恐ろしい音が鳴ったが、蓮は間一髪でしゃがみ込んでそれを躱し、そのままソファの裏へ回り込んだ。
「ちょこまかと……っ!オレの蹴りを避けやがって!」
「僕だって伊達に毎日きいちゃんの愛を受けてないからね!大抵の軌道は読めるようになったよ!」
「愛じゃねえ!殺意だ!!」
桔花はソファの上に置いてあったクッションを掴むと、全力で蓮の顔面めがけて投擲した。
ドスッ!!
鈍い音と共に壁に激突したクッションは、中身の綿が破裂しそうなほどの威力を秘めていた。まともに食らえば病院送りになるレベルだ。
「あはははっ!きいちゃん、そんなに僕を捕まえたいの?捕まえたら、ご褒美にキスしてあげるよ♡」
「ふざけんなァーッ!!」
からかうような蓮の言葉に、怒りでさらに顔を真っ赤にした桔花が、今度はキッチンカウンターに手をついて飛び越え、蓮に迫る。ラウンジの設備をフルに活用した、まるでアクション映画のような攻防が繰り広げられる。
キーンコーンカーンコーン。
下校時刻を知らせるチャイムが鳴り響く。
「……チッ。時間か。命拾いしたな」
肩で息をしながら、桔花は乱れたジャージの襟を正し、鞄を担いだ。ソファの裏に隠れていた蓮が、ひょっこりと顔を出して極上の笑顔を向ける。
「明日の『夫婦係』も、もちろん僕が相手だよ♡きいちゃん、明日は何が食べたい?」
「……お前、マジで毎日システム書き換えてんのかよ!いい加減にしろォーーッ!!」
怒号を残し、桔花は逃げるようにラウンジを後にした。
しかし。その足取りが初日ほど重くなかったこと、そして顔の強張りが少しだけ解けていたことを……彼女の胃袋を完全に掌握しつつある御曹司だけが、気づいて優しく目を細めていたのだった。
つづく




