第41話 村鍛冶の名は、まだ工房に来ていない
村の噂というものは、静かに広がるわりに、ちゃんと届く相手へは届くらしい。
その日、工房の前に来たのは、鍬の金具を直しに来た男だった。顔見知りではあるが、普段そこまで話す相手ではない。仕事を預かって、直して、返す。いつもならそれで終わる。
だが、その日は金具を受け取る時に、男が少し言いづらそうに口を開いた。
「……リッカの親父、知ってるみたいだぞ」
「何を」
「ここ」
横で薪を分けていたリッカの手がぴたりと止まった。
俺は男の顔を見る。冗談ではないらしい。
「まあ、そりゃそうだろうよ」
男は頭を掻いた。
「最近、包丁だ斧だって、みんな口にするからな。村で鍛冶やってりゃ耳にも入る」
「……」
「別に、怒鳴ってたとかじゃねえぞ。ただ、“そうか”って言っただけだ」
それだけ聞けば穏やかにも聞こえる。だが、穏やかで済む話かどうかは別だ。
村鍛冶――リッカの父は、まだ直接ここへ来てはいない。だが本人不在のまま、存在感だけはじわじわと前へ出てきている。村人の道具を支え続けてきた鍛冶師。その耳に、森の工房の噂が入っていないはずがなかった。
男が帰ったあと、工房の前には少しだけ気まずい静けさが落ちた。
リッカは薪の束を抱えたまま、しばらく何も言わなかった。珍しいことだ。
「……知ってるよな、そりゃ」
やがて小さく言う。
「だろうな」
「親父、村の鍛冶屋だし」
「そうだろうな」
「最近、あたしがここ来てるのも」
「だろうな」
言葉にすると、余計に現実味が出る。
村鍛冶はまだ来ていない。だが“来るかもしれない”気配は、もう充分に近いところまで来ていた。
それをどう感じているのか分からない。怒っているのか、呆れているのか、単に様子を見ているだけなのか。そこが分からないぶん、かえって面倒だった。
リッカは急に顔を上げる。
「でも親父、悪いやつじゃねえぞ」
「知ってる」
「知ってるのか?」
「村人の道具見れば分かる」
「……」
俺は道具台の上の鍬金具を見ながら続けた。
「雑に回してる仕事じゃない。急ぎに追われてるだけだ」
「……うん」
「村を止めないための鍛冶だろ」
「そうだ」
リッカの声は少し小さかった。
本人不在でも、その鍛冶師の輪郭は道具に出る。農具、戸板の金具、包丁の直し方。全部が“生活を止めないため”の仕事だった。一本に深く寄る余裕はなくても、村全体を回すための実直さがある。
だからこそ、簡単に敵だの味方だのとは切れない。
それをいちばんよく分かっているのは、たぶんリッカなのだろう。
「……たぶん親父、もうちょっとしたら来る」
リッカが言う。
「面倒だな」
「うわ、正直だな」
「正直に面倒だ」
「でも、逃げないんだろ?」
「逃げたら工房が残る」
「たしかに」
その返しに、少しだけ笑いそうになった。
だが、笑って済む話でもない。
村鍛冶の娘が森の工房へ入り浸り、村人がその工房へ道具を持ち込む。周りは善意でも、比べる目は自然に生まれる。
それが、この先どう転ぶかはまだ分からなかった。




