第33話 見るだけのつもりが、手を出してしまう
親方の店を出て、もうこれで今日は終わりにして帰ろうと本気で思っていた。
見るべきものは見た。料理場の速度も、包丁の流れも、町鍛冶の忙しさも見た。持ち帰る課題も頭の中にある。なら、これ以上町で余計な面倒を増やす必要はない。
……はずだった。
「ちょっと待って」
裏路地へ出たところで、ミレナが袖を引いた。
「今度は何だ」
「ほんとに小さい相談だけ」
「嫌な前置きだな」
「本当に小さいのよ」
そこへ、さっきの町鍛冶見習いの少年が走ってきた。手には、別の細工刃と、小さな皮剥ぎ用の刃物がある。
「すみません! 一つだけ、どうしても」
「一つだけって顔じゃない」
「二つです!」
「増えた」
少年は本気で困っている顔だった。皮剥ぎ用の刃物は、仕事をしているうちに手首が疲れてしまうらしい。細工刃の方は、木へ入る時に引っかかりが強いという。
見るだけのつもりだ。
今日はもう触らない。
そう決めていたのに、目の前へ出された刃物の減り方を見ると、頭の中で勝手に修正案が立ち始める。
「……くそ」
「やるの?」
ミレナが言う。
「やらない」
「でも顔はやるやつだ」
「うるさい」
結局、俺は路地の端の樽を借り、その上で刃物を見始めていた。
皮剥ぎ用は、刃先が少し前へ勝ちすぎている。そのせいで、引くたび手首へ無駄な返しが残る。細工刃は、研ぎは悪くないが腹の抜けが甘い。仕事の繊細さのわりに、刃が木へ食い込みすぎている。
ほんの少し、だ。
ほんの少し直せば、たぶん違う。
「見習い」
「はい!」
「使うやつは誰だ」
「皮剥ぎは革職人の人です。細工刃は木工の人」
「仕事見たか」
「まだです」
「なら、本当は見てからだ」
「……はい」
「だが、今は応急だけやる」
少年の目がぱっと明るくなる。
ミレナは横で笑いを噛み殺していた。腹立たしい。
俺は持ち歩いていた小さな砥石と布を取り出し、その場で最低限の修正をする。大仕事ではない。だが刃物というのは、小さな違いほど使う側には大きい。
皮剥ぎ刃を使った革職人の男は、その場で目を見開いた。
「おい、軽い」
「軽くしたわけじゃない」
俺は言う。
「戻りを少し抜いただけだ」
「何言ってるか半分分からんが、楽だ!」
細工刃を受け取った木工職人も、木片を削ってすぐ表情を変えた。
「引っかかりが減った……」
「入れすぎてたのを少し逃がした」
「そんなことができるのか」
「できる」
気づけば、路地の隅で人だかりができかけていた。
ああ、駄目だ。
見るだけのつもりが、完全に手を出している。
しかも、いちばん広まりやすい形で。
「もう帰る」
俺は砥石をしまいながら言った。
「早っ」
ミレナが笑う。
「今日の分は見た」
「見ただけじゃないわよ」
「うるさい」
これ以上いると、本当に収拾がつかなくなる。
町は面白い。だが、その面白さに付き合っていると面倒の増え方が早すぎる。
俺は本気でそう思った。




