第32話 ひとつの店から、噂は勝手に歩き出す
町の噂は、村より足が速いらしい。
親方の店で包丁の違いが目に見えて出たせいか、その日の午後には、隣の店の料理人がわざわざ裏口から覗きに来た。次いで向かいの店の若い料理人、そのまた隣の菓子屋の包丁使いまで、何やらそわそわした顔でこちらを気にしている。
「ほらね」
ミレナが楽しそうに言う。
「やめろ」
「でも始まったわよ」
「始めるな」
「私は別に何もしてないわ。勝手に歩いてるだけ」
「おまえが最初の一歩を押しただろ」
実際その通りだと思うのだが、ミレナはまったく悪びれない。
親方がうんざりしたように包丁を布で拭う。
「おい、ミレナ。あんまり増やすなよ」
「親方までそんなこと言うの?」
「こっちは昼の仕込みがあるんだ」
「でも、いい包丁は欲しいでしょ」
「欲しいが、今は面倒も一緒に来すぎだ」
まったく同感だった。
隣の料理人が遠慮がちに声をかけてくる。
「あの、ちょっとだけ見てもらうことは……」
「駄目だ」
俺は即答した。
「早っ」
料理人が目を丸くする。
「今日は見るだけだ」
「いや、でももうだいぶ見てるじゃないですか」
「そういう意味じゃない」
「意味が分かりません!」
自分でも少し分かっていない。
だが、これ以上ここで小仕事を始めたら、本当にきりがない。包丁一本が二本になり、二本が五本になり、そのうち「町の鍛冶屋じゃなくて森の鍛冶屋へ」と妙な流れができる。そんな未来しか見えない。
ミレナが肩を震わせて笑っていた。
「何が面白い」
「あなた、ほんとうに評判嫌いなのね」
「当たり前だ」
「でも、いい仕事をしたら評判はつくわ」
「つかなくていい」
「そう願っても無理」
「……」
そこへ、親方が低い声で言った。
「だが、今日はこいつの言う通りだ。見るだけの日にしとけ」
「親方まで」
「包丁一本でここまで変わるのは本当だ。だが、何でもかんでも今ここで触らせるのは違う」
「……」
町の料理人たちは不満そうではあったが、親方の言葉なら引くしかないらしい。彼らはなおもこちらを気にしながらも、一応は店へ戻っていった。
静かにはならない。
ただ、露骨な押し寄せは止まった。
俺は小さく息を吐く。
「助かった」
「礼を言う顔じゃないな」
親方が言う。
「礼は言ってない」
「言ってるようなもんだ」
「……そうかもしれん」
認めるのは癪だったが、本当に少し助かったのだ。
町の噂は、勝手に歩き出す。
それを、今日だけでも止めてくれたのはありがたかった。




