第25話 門をくぐれば、音の数が違う
町の門が近づくにつれて、音が増えていった。
村でも人の声はする。鍬のぶつかる音も、家畜の鳴き声も、女将の店から漏れる鍋の音もある。だが、あれは一つひとつが離れていて、耳の中でちゃんと分かれていた。
町は違う。
車輪の軋み。
荷を下ろす怒鳴り声。
どこかで鳴る金槌。
客を呼ぶ声。
鍋の蓋が跳ねる音。
走る子どもの足音。
笑い声。
舌打ち。
咳払い。
それが全部、一度に耳へ流れ込んでくる。
門の前まで来た時点で、俺はすでに少し嫌そうな顔をしていたらしい。荷車を押していたミレナが、横目で見ながら口元をゆるめる。
「まだ入ってもいないのに、すごい顔ね」
「帰りたくなってきた」
「門の前で言うことじゃないわ」
「じゃあ門の前じゃなければいいのか」
「そういう問題でもない」
リッカがいないだけ静かかと思ったが、代わりにミレナの口がよく回る。いや、リッカがいたらいたで、たぶん今ごろ町の門へ向かって全力疾走していただろうから、これで正解なのかもしれない。
門の左右には、木と石を組んだ低い壁が続いていた。城壁と呼ぶほど大げさではないが、村とは明らかに違う「境目」だ。見張りの男が二人、槍のようなものを持って立っている。村へ入る時にはなかった種類の緊張が、その場の空気に混ざっていた。
「止まって」
片方の門番が、ミレナへ声をかける。
「いつもの荷か」
「いつもの荷と、いつもの私よ」
「後ろのは?」
視線が俺に向く。
そうなるだろうとは思っていたが、やはり落ち着かない。俺は人にじろじろ見られるのが好きではない。しかも門の前というのは、見られる理由まで明確だ。よそ者か、怪しいものを持ち込まないか、その手の確認だろう。
ミレナは平然と答えた。
「森の方に住んでる鍛冶屋さん。町の料理人の包丁を見るのに連れてきたの」
「森?」
門番の眉が少し上がる。
「森のどこに鍛冶屋なんていた」
「いるのよ、最近」
「……最近?」
嫌な言い方だ。まるで変な生き物が棲みついたみたいじゃないか。
だがミレナは気にしない。
「ちゃんと仕事のできる人よ。女将さんの包丁も、ガロの斧もこの人」
「へえ」
門番の視線がもう一度こちらへ向く。興味半分、警戒半分といったところか。やめてほしい。まだ町へ入ってもいないのに、すでに面倒の匂いがする。
「……問題あるか」
俺が低く言うと、門番は少し意外そうな顔をした。
「いや、問題はない。ただ、見ない顔だったんでな」
「見ない顔で悪いな」
「別に悪いとは言ってねえよ」
そこでミレナが、すっと荷車の横から口を挟む。
「だから言ったでしょ。護送つき見学者だって」
「護送とは」
「まあまあ」
「いや、“まあまあ”じゃ――」
「通っていい?」
ミレナは俺の言葉を流しながら、門番へ明るく聞いた。
門番は苦笑し、手で中を示した。
「変な騒ぎだけ起こすなよ」
「起こさない」
俺が言うより早く、ミレナが答える。
「彼、静かな方だから」
「おまえが言うと不安になる」
「ひどいわね」
そのまま、荷車が門をくぐる。
俺も一歩遅れて、その中へ入った。
町の中の空気は、門の外よりさらに濃かった。
まず匂いが違う。焼いた肉、煮込んだ豆、香辛料、濡れた木、家畜、汗、炭、鉄。ありとあらゆる生活の匂いが重なって、道そのものへ染みついている。人も多い。荷車を引く男、布を抱えた女、桶を運ぶ子ども、店先で客を呼ぶ声。森や村では視界に入る人間の数が限られていたせいか、この「常に誰かが動いている」感じは、それだけで疲れる。
俺は自然と肩へ力が入るのを感じた。
「そんなに固まらないで」
ミレナが前を向いたまま言う。
「固まってない」
「歩幅が半歩短い」
「見てるな」
「商売人は見るのが仕事よ」
「鍛冶屋もだ」
「でしょうね」
そう言われると、たしかに俺の目も勝手に動いていた。
門を入ってすぐの店先に、鎌が三本立てかけてある。村のものより少し細身だ。刃の開きも浅い。扱う土地が違うのか、それとも売る側の都合か。
少し先の荷車の脇には、鍛え直し待ちなのだろう、車輪の輪金が積まれている。どれも均質で、村鍛冶が一本ずつ作るより、まとめて打った気配が強い。
屋台の端では、太い包丁で肉を切っている男がいる。持ち方が強い。たぶん疲れやすい。
町は嫌いだ。うるさいし、人が多いし、どこを見ても「こっちを見返す人間」がいる。なのに、その中に混じる道具や仕事の匂いは、いちいち俺の目を引っ張った。
「見応えはあるだろ?」
ミレナが、こちらを見ずに言う。
「……面倒だがな」
「面倒なだけ?」
「見応えはある」
「素直」
「素直じゃない」
「今のは素直よ」
否定しきれないので黙った。
道の両脇には店が並んでいた。食べ物、布、木工品、壺、乾物、金物。全部が村より多く、全部が少しだけ洗練されて見える。といっても高級そうなわけではない。単純に、人の目に晒されて磨かれてきた感じだ。
その中で、鍛冶屋の前を通りかかった時、俺は思わず歩みを緩めた。
店先には農具がいくつも並び、修理待ちらしい金具の束が木箱へ放り込まれている。奥からは金槌の連続音。火の熱気も、通りまで薄く漏れてきていた。
「あとでね」
ミレナが言う。
「先に料理人のところ」
「……分かってる」
「すごい嫌そうな顔しながら従うわね」
「必要だからだ」
「はいはい」
必要だからだ。
そう言いながらも、鍛冶屋の前の空気へ後ろ髪を引かれるような感覚はあった。忙しさの匂いがする。村の工房とはまるで違う種類の鍛冶場だ。ああいう場所がどう回っているのか、興味がないと言えば嘘になる。
だが、まずは包丁だ。
町まで来た理由を思い出し、俺は前を向く。
少し進むと、人通りの多い通りから横へ逸れた場所に、食べ物屋が固まっている一角が見えた。どこも店先から匂いが強い。煮込み、焼き物、揚げ物、香草。村の食堂とは比べものにならないほど、匂いも音もせわしない。
「こっち」
ミレナが荷車を止める。
「ここが例の料理人の店」
建物そのものは特別大きくない。だが裏口のあたりには食材の入った箱が積まれ、桶が並び、若い見習いらしいのが二人走り回っていた。まだ昼前だというのに、すでに戦場みたいな空気がある。
「……忙しそうだな」
「だから町の包丁は村と違うのよ」
ミレナが言う。
「回る速度が違うもの」
「だろうな」
店の裏口近くへ寄ると、中から野菜を刻む音が連続して聞こえてきた。一定の速さ、だが急いている。村の女将の店で聞いた包丁の音より、もう少し細かく、少し焦りを含んでいる。
俺はそこで立ち止まり、しばらく耳を澄ませた。
切る量。
動く人数。
仕事の急き方。
まだ中を見てもいないのに、村との違いが音だけで分かる。
「どう?」
ミレナが聞く。
「……やっぱり、違うな」
「何が」
「台所の速さが」
それを口にした時、自分の中で何かが少しだけはっきりした気がした。
村と町は、やはり違う。けれどその違いは、遠い世界の話ではない。包丁一本で繋がる程度には、すぐ隣にある違いなのだ。
だからこそ、見に来た意味はある。
そう認めざるを得なくなった。
ミレナは満足そうに笑った。
「ほら、来てよかったでしょ」
「まだ何もしてない」
「でも見始めてる」
「……否定はしない」
俺は裏口の向こう、慌ただしく動く気配へ目を向けた。
門をくぐった時に感じた気後れはまだ消えていない。人の多さも、音の多さも、相変わらず苦手だ。面倒そうだという感想も変わらない。
それでも、目の前にある仕事場を見たい気持ちの方が、もう少しだけ勝ち始めていた。




