第24話 森の鍛冶屋、町の噂へ向かう
森の外へ出るだけなら、これまでも何度かあった。
村へ塩を取りに行った時。女将の包丁を直した時。ガロの斧を見に山へ入った時。どれも工房から少し離れるだけのことだった。帰る場所は同じ森の中で、半日もかからず戻れる距離だった。
だが今日は違う。
同じ道を歩いているはずなのに、足の裏の感覚まで少し違う気がした。
森を抜け、村の外れの畑を横目に見ながら、俺はミレナの荷車の隣を歩いていた。荷車の車輪は、乾いたところでは軽く、ぬかるんだところでは嫌な音を立てる。村までの道はもう何度も通ったが、その先へ向かうのは初めてだった。
「そんなに肩に力入れなくても逃げないわよ」
荷車を押しながら、ミレナが言う。
「何がだ」
「町」
「逃げるならその方がありがたい」
「素直じゃないわねえ」
「素直なつもりだ」
「ぜんぜん」
うるさい。
だが、反論するのも面倒なので黙った。言い返したところでこの娘は喜ぶだけだ。荷車の上には、町へ持っていくらしい布や瓶、小袋に入った香辛料、それから村で受け取ったらしい野菜や卵も見える。商人というのは、よくあれだけ色々なものを積んで歩けるものだ。
「重くないのか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
「荷車あるもの」
「そういう意味じゃない」
「ん?」
「品の数と、話の数だ」
「話は軽いわよ」
「おまえのは重い」
「それは褒め言葉?」
「違う」
ミレナはくすくす笑う。
朝のうちは森の気配がまだ濃かった。だが、村を抜け、さらに先へ進むにつれて、景色が少しずつ変わっていく。木々はまばらになり、畑の区画が増える。小さな水路が整えられ、ところどころに荷車の轍がくっきり残っている。村の外にも、人の暮らしはずっと続いているのだと分かる道だった。
それが少し、不思議だった。
異世界へ来てから、俺の世界はほとんど森と村だけでできていた。沢、小屋、炉、女将の店、ガロの山仕事、畑の女たち。目に見える範囲で生活が回っている感覚だ。
だが、その外にも当然世界は続いている。
そして今日、その続きへ自分の足で入っていく。
それを思うと、落ち着かない。だが同時に、鍛冶屋としての興味も、胸の奥で小さく火を起こしていた。
「まだ引き返せるわよ」
ミレナが、いかにも面白がる声で言う。
「引き返さない」
「おや」
「来た以上は見る」
「へえ」
「その反応、腹立つな」
「だって、朝よりちゃんと前向きなんだもの」
否定しかけて、やめた。
朝よりは、たしかに腹が据わっていた。工房を出る前までは、火のことや炭のこと、小屋のことばかり考えていた。だが、一歩外へ出て道に乗ってしまえば、今度は見るべきものの方が頭へ浮かぶ。
町の料理人の包丁。
見習い職人の道具。
町鍛冶の仕事場。
村とは違う量と速度で回る生活。
面倒なのは変わらない。だが、それと同じだけ、見たい気持ちももう隠しきれなかった。
しばらく進んだところで、道の脇に小さな家が並ぶ一角へ寄ることになった。ミレナの品を届けるためらしい。
「少し待ってて」
「どこで」
「そのへんで」
「雑だな」
「護送つき見学者にそこまで手厚くしないわよ」
そう言ってミレナは荷車を引いて家の方へ行ってしまった。
俺は道端の木陰へ立ち、周囲を見回す。村より家の数は少ないが、それぞれの家が少しだけ大きい。戸板の作りも、屋根の重ね方も、村より手が込んでいるように見える。使われている金具も少し違う。鍛冶屋としては、こういうところからもう目が吸い寄せられる。
家の前に置かれた農具をちらりと見る。鍬の形、刃先の摩耗、柄との噛み。村と大きく違うわけではないが、金物の質が少し揃っている気がした。村鍛冶が一人で何でも回しているのとは、仕組みそのものが少し違うのかもしれない。
ミレナが戻ってくるまでのわずかな時間に、それだけでも頭の中へ情報が増える。
「やっぱり見てる」
戻ってきたミレナが、荷車の取っ手を握りながら笑った。
「鍛冶屋だからな」
「町に着いたらもっと忙しいわよ」
「面倒だ」
「でも楽しみでもある」
「……否定はしない」
自分でも驚くほど、素直にそう言っていた。
道は次第に広くなる。すれ違う荷車も増えた。村人より服の整った人間も混ざり始める。荷を積んだ馬車が通り過ぎる時の音が、森の中では聞いたことのない大きさで響く。
人の流れが、村とは違う。
村の道は「そこに住む人間」が通る道だ。だが今歩いているこの道は、「どこかへ行く人間」と「どこかから来る人間」が混じっている。移動の匂いがする。商いの匂いがする。そういう場所は、どうにも落ち着かない。
「顔、ひどいわよ」
またミレナが言う。
「放っておけ」
「そんなに嫌?」
「人が多い場所は苦手だ」
「鍛冶屋なのに?」
「鍛冶屋だからだ」
「たまに本気で意味分からない返しするわね」
「意味は通ってる」
通っているはずだ。
鍛冶というのは、火と鉄と、自分の手元の範囲に世界を絞れる仕事だ。人の多い場所はその逆で、意識が外へ散る。だから苦手なのだ。少なくとも俺はそう思っている。
だが、その「外」へ意識を向けなければ見えない仕事もある。
町へ近づくにつれて、その実感がじわじわと増していった。
やがて、道が大きく左へ曲がったところで、ミレナが顎をしゃくった。
「ほら」
「……」
視線の先に、町が見えた。
最初に見えたのは、建物の数だった。村とは比べ物にならない。屋根が重なり、煙が上がり、石と木でできた建物が道の向こうに連なっている。周囲を低い塀のようなものが囲み、その向こうにさらに高い建物の頭が見える。人の出入りも多い。荷車が列をなし、門らしきところの前では見張りらしき男まで立っている。
思っていたより、ずっと町だった。
いや、当たり前なのだが、村しか見ていなかった目にはその規模だけで十分に圧がある。
「どう?」
ミレナが言う。
「……面倒そうだ」
「第一声がそれなのね」
「他に何がある」
「すごい、とか?」
「人が多い」
「そうね」
「音も多い」
「そうね」
「絶対、面倒だ」
「それでも来たのはあなたでしょう」
その通りだった。
面倒だ。気後れもする。できることなら、工房の前の椅子へ座って火でも見ていたい。
だが、町を目の前にした時、胸の奥の別の部分が少しだけ熱を持つのも感じた。
ここには村と違う仕事がある。
違う道具がある。
違う使われ方がある。
それをこれから、自分の目で見ることになる。
ミレナはそんな俺の横顔を見て、少しだけ笑った。
「やっぱり職人の顔になるのね」
「うるさい」
「でも、さっきより嫌そうじゃない」
「嫌だ」
「そのわりには目が違う」
俺は返事をしなかった。
返事をする代わりに、町の方を見た。門の向こう、人の流れの奥に、まだ見ぬ仕事場の気配がある。台所も、鍛冶場も、店も、全部そこにあるのだろう。
面倒そうだ。
ほんとうに面倒そうだ。
けれど、その面倒の中へ、自分から足を踏み入れようとしているのもまた事実だった。
工房を出て、村を抜け、町の噂へ向かう。
静かに暮らしたいだけだったはずなのに、気づけばずいぶん遠くまで来たものだと、少しだけ可笑しくなる。
「行くわよ」
ミレナが荷車を押し出す。
「……ああ」
俺も一歩踏み出した。




