第23話 村の外へ出る朝、工房に残る火
町へ出る朝は、いつもの朝より少し早く始まった。
まだ空が青くなりきる前、森は夜の名残を薄く引きずっている。沢の音は変わらないが、鳥の声は少ない。湿った空気が小屋の隙間から入り込み、寝起きの肌へひやりと触れる。
目を覚ました瞬間、俺はしばらく動かなかった。
町へ行く。そう決めたのは自分だ。売るためではない。名を広めるためでもない。ただ、見るため。知るため。町の包丁がどう使われ、町の仕事場がどう回り、町鍛冶がどんな忙しさの中で道具を打っているのか、自分の目で確かめるためだ。
理屈は通っている。
通っているはずなのに、腹の底は少し落ち着かなかった。
町そのものが面倒そうだというのもある。人が多い場所は苦手だ。目立つのも嫌だ。まして「森の鍛冶屋」なんて余計な肩書きが先に出回っている可能性を考えると、気が重い。
だが、今朝の落ち着かなさの大半は、町より工房の方に向いていた。
俺は小屋から出て、まだ暗い工房の前へ立つ。
仮設の炉。
昨夜のうちに少し整えておいた炭の山。
道具台の上の布と小刀。
壁際の柄材。
預かっている小さな刃物。
村人にもらった野菜籠。
そして、工房の前に並んだ椅子。
こうして見ると、本当に少しずつ増えたのだと分かる。
異世界へ来たばかりの頃には、ここには何もなかった。ただ火を起こし、雨をしのげればそれでよかった。生き延びるための場所でしかなかった。
それが今では、「残していく」前提で見回している。
火を絶やさず、炭を湿らせず、預かりものを守って、戻ってきた時にすぐ手が動く状態を保ちたい。半日ほど空けるだけなのに、考えることが多い。
「……面倒だな」
小さく呟いて、炉の前へしゃがみ込む。
まずは火だ。
灰をそっと寄せると、奥の方で赤がかすかに息をしていた。昨夜のうちに炭を少し深めに埋めておいたのが効いている。完全に落としてしまう手もあるが、それだと戻った時にまた一から火を起こさなければならない。今の俺は、そこを面倒がるくらいには、火のある暮らしに馴染んでしまっていた。
細い炭を一本だけ足し、空気が通りすぎないよう灰を整える。
残し火というのは、派手ではないが大事だ。燃やすための火ではなく、戻ってきた時にまた息を吹き返すための火。いわば、この工房そのものの心臓みたいなものだった。
火種をいじっていると、ふと昔のことを思い出す。
工房にいた頃も、朝一番の火と夜に残す火は別物だった。仕事を始めるための火と、明日へつなぐための火。今のこれは、それに少し似ている。
異世界の森の中なのに、火の前でやっていることだけは不思議と変わらない。
それが少しだけ、心を落ち着かせた。
次に炭だ。乾いたものは炉の近くへ寄せ、まだ少し湿気を抜きたいものは布をかけた上で風の通る側へ回す。濡れた朝の空気が入りにくいよう、屋根の端へ下げていた葉の束も少し整えた。たった半日。だが、その半日のあいだに雨が来るかもしれないし、風向きが変わるかもしれない。考え出すときりがない。
そういう考え方自体、昔の俺ならしなかった。
工房を空けるなんてありえない、ではなく、
空けるならどう残すか、を考えている。
その変化を意識すると、なんだか妙な気分になる。
「おはよう」
背後から声がした。
振り返らなくても誰だか分かる。ミレナではない。あいつの声はもっとよく通るし、言い方に商売っ気が混じる。これはもっと真っ直ぐで、少し寝起きの乾いた声だ。
「早いな」
「おまえがいちばん早いだろ」
リッカだった。
今日はさすがに工房の入口で寝てはいない。代わりに、朝露で少し湿った髪の先を指で払いながら、当然のような顔で工房の前へ立っている。
「来るなって言ったはずだ」
「今日は見送りだ」
「いらない」
「いる」
即答しやがった。
だが、今朝のリッカはいつもより少し静かだった。うるさくないわけではない。ただ、声の勢いが少しだけ抑えられている。たぶん、町へ行くという事実を、こいつなりに少し真面目に受け取っているのだろう。
俺は炭から手を離し、立ち上がる。
「留守番は無しだ」
「分かってる」
「勝手に火いじるな」
「分かってる」
「工房にも来るな」
「それは……なるべく」
「なるべくじゃなくて来るな」
「いやでも、火が心配で」
「おまえがいちばん心配だ」
「ひど!」
そこでやっと、いつもの調子が少し戻る。少しだけ安心した自分がいて、我ながら面倒だった。
リッカは工房の中を見回した。
「ほんとに行くんだな」
「そうだ」
「なんか不思議だ」
「何が」
「最初、おまえ絶対村の外なんか出ねえ顔してたのに」
「今も進んで出たいわけじゃない」
「でも出る」
「仕事を見るためだ」
「うん」
リッカはそう言って、炉の前へしゃがみ込んだ。
「火、残すんだな」
「戻ってきてから一から起こすのが面倒だ」
「それだけ?」
「それだけだ」
嘘ではない。だが、それだけでもなかった。
工房の火を完全に落として空けるのは、なんだか「留守にする」ではなく「切ってしまう」感じがして、嫌だったのだ。火が残っていれば、戻った時にこの場所はちゃんと続きを待っている気がする。
そこまで言葉にするつもりはなかったが、リッカは灰の中の赤を見て、何となく察したような顔になった。
「……帰ってくる場所、って感じするもんな」
「独り言か」
「違う」
「じゃあ余計なことを言うな」
「でも、そうだろ」
そう言われると、否定しきれない。
少し前の俺なら、この場所はただの「今いるところ」だった。だが今は違う。出て、また戻る前提で見ている。戻ったら火を起こし、続きをやる。そういう場所になっている。
そこへ、軽い車輪の音が近づいてきた。
「おはよう」
今度こそミレナだ。
「時間ぴったりね」
「来なくていい」
「来なかったら町に行けないでしょう」
「……それはそうだが」
悔しい。
ミレナは荷車を止めると、俺より先に工房の様子をぐるりと見回した。
「ちゃんと留守支度してる」
「誰のせいだと思ってる」
「私のせいにしないでよ。決めたのはあなたでしょう」
「おまえの口が余計なことを運んできた」
「その口に乗ったのもあなた」
「腹立つな」
「よく言われるわ」
ほんとうによく言われていそうで嫌だ。
ミレナは荷車の上の荷を軽く叩いた。
「今日は町へ寄る前に、いくつか村外れの家へ品を届ける。だから、向こうに着くのは昼前くらい」
「長いな」
「行商ってそういうものよ」
「じゃあ俺はただの便乗か」
「そうね。護送つき見学者」
「言い方」
「本当でしょう?」
「……否定はしない」
リッカが吹き出す。
「護送つき見学者!」
「笑うな」
「だって似合わねえ!」
「おまえは留守番未満だろ」
「なんだその区分!」
騒がしい。
だが、いつもの騒がしさが少しだけありがたくもあった。たぶん、工房を空ける朝だからだ。こういうどうでもいいやり取りがあると、余計な緊張が少し散る。
俺は最後にもう一度、工房を見た。
道具台は片づいている。
預かりものは小屋へ入れた。
炭は覆った。
火種は残した。
入口の布も巻き上げて風が通りすぎないようにした。
やれることはやった。
「まだ心配?」
ミレナが聞く。
「心配じゃない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「顔が言ってる」
今度はリッカまで同じことを言う。
「おまえら、その理屈は俺のものだ」
「便利だから使ってる」
リッカが言う。
「やめろ」
「やだ」
朝日が少しずつ森へ差し込み始める。昨日までと同じようでいて、今日は何かが違う。工房の前の空気が、ほんの少しだけ張っている。
俺は炉の前へ戻り、最後に灰の位置を整えた。
ほんの少しだけ赤が見える。
それで十分だ。
異世界へ来た最初の朝は、火が欲しいとしか思わなかった。
今は違う。残していく火がある。戻ってくる工房がある。
その事実が、胸の奥で静かに重みを持つ。
「じゃあ、行くか」
ミレナが荷車の取っ手を握る。
リッカは工房の前に立ったまま、こっちを見ている。行きたくてたまらない顔だ。だが同時に、ここへ残るのも分かっている顔だった。
「町、ちゃんと見てこいよ」
「おまえに言われなくても見る」
「あと帰ったら絶対話せ」
「気が向いたらな」
「向け!」
「命令するな」
「弟子未満への教育義務!」
「ない」
最後までそれを言うのか。
少しだけ口元が緩みそうになったのを、なんとか堪える。
俺は工房へ向き直り、小さく息を吐いた。
「すぐ戻る」
誰に聞かせるでもない声だった。
だが、その一言を口にした瞬間、この場所はもうただの森の中の作業場ではなくなっていた。俺が出て、戻る前提で存在している場所。工房と言っていい場所だ。
踵を返し、ミレナの荷車の横へつく。リッカは工房の前で腕を組み、偉そうに見送るつもりらしい。なんでそうなる。
森の道を一歩踏み出す。
背中に工房の気配を感じる。火が残る場所。椅子があり、道具があり、村人の気配が染みつき始めた小さな工房。
そこを置いて、俺は初めて少し遠くへ出る。
面倒だ。気も重い。だが、鍛冶屋として見たいものがあるのも本当だった。




