第22話 旅支度より先に、工房の留守番が問題だ
町へ行くと決めた翌朝、目が覚めた瞬間に最初に考えたのは、町のことではなかった。
工房を、どうする。
それだった。
沢の水音はいつも通りで、森の朝も変わらない。小屋の隙間から入る光も、炉の灰の色も、昨日までと同じだ。だが、頭の中だけが少し違う。三日後には、この場所を半日かそれ以上空けることになる。その事実が、妙に落ち着かなかった。
異世界へ来たばかりの頃なら、こんなことで悩まなかっただろう。
あの時は、ただ雨をしのげる場所と火があればよかった。小屋も仮で、炉も仮で、ここは「暮らし始める前の場所」にすぎなかった。離れたところで大きな違いはない。どうせ戻ってきても、あるのは土と石と木だけだったのだから。
だが今は違う。
炉がある。
炭がある。
預かっている道具がある。
村人からもらった野菜や布もある。
工房の前には椅子まである。
何より、ここには火が残っている。
その火を置いて出る、というのが、思っていた以上に重かった。
「顔、ひどいぞ」
入口の方から声がした。
「朝からいるな」
「それはもういるだろ」
当然みたいにリッカが立っている。最近では、朝一番にこいつを見ることへ驚く気力すら削られてきた。よくない傾向だと思う。
俺は灰の中の火種をいじりながら、低く言った。
「おまえ、三日後」
「うん」
「工房には来るな」
「なんでだよ!?」
「留守にするからだ」
「だから来るんだろ。守るために」
「誰が頼んだ」
「頼まれてないけど必要じゃん!」
「勝手に必要を増やすな」
リッカはむっとした顔で腕を組んだ。
「いや、でも普通に考えて、誰か留守番いた方がいいだろ」
「普通に考えて、おまえを一人置く方が怖い」
「ひどっ」
「事実だ」
「炭ひっくり返さねえよ!」
「ひっくり返さなくても余計なことをする」
「ちょっと否定できねえのが悔しい!」
否定できないなら大人しくしていてほしい。
だが、リッカの言っていることに一理あるのもまた面倒だった。
工房を空けるのは、やはり気になる。炉の火をどう残すか。炭を湿気からどう守るか。置いてある道具や預かりものをどうするか。村から誰か来た時にどうするか。考え始めるときりがない。
俺は立ち上がり、工房の前をぐるりと見回した。
道具台の上には、直し途中の鎌が一本。
壁際には次に柄をつける予定の小刀。
炭置き場には、乾きのいい炭と、まだ少し湿りを抜きたい炭。
小屋の中には布と塩、それからもらった麦の袋。
入口脇には、ガロが礼に置いていった空の籠まである。
いつの間にか、この場所は「何もない森の一角」ではなくなっていた。
「……面倒だな」
思わず呟く。
「町?」
リッカが聞いた。
「違う。工房だ」
「工房?」
「空けるのが面倒だ」
「おっ」
リッカの顔が、妙にうれしそうになる。
「なんだよ、それ」
「何がだ」
「いや、おまえ、ちゃんと“ここを残していく”って感覚あるんだなと思って」
「当たり前だろ」
「前はもっと、“森に置いてある仮の場所”って感じだったじゃん」
「……」
「今は違うんだな」
図星だった。
図星だが、それをこいつに綺麗に言い当てられると腹が立つ。
俺は顔をしかめたまま、工房の前へ積んでいた薪を手で押した。濡れていない。位置は悪くない。炭置き場も、布を一枚足せば雨を防ぎやすくなるだろう。道具台は、風の抜ける方向を考えて少しだけ位置を変えた方がいいかもしれない。
気づけば、町へ行くための支度より先に、工房を空けるための支度を頭の中で組み立て始めていた。
「旅支度、しねえの?」
リッカが聞く。
「旅ってほどじゃない」
「町行くんだろ」
「行って戻るだけだ」
「それを旅って言うんじゃねえの?」
「俺は言わん」
「頑固だなあ」
そう言いながら、リッカも工房の前を見回した。
「火はどうする?」
「種だけ残す」
「炭は?」
「乾いたのは屋根の内、湿り抜き中のは覆う」
「預かりものは?」
「小屋の中」
「おお」
こいつは本当に、こういう実務の話になると妙に目がよくなる。
「じゃあ、あたし留守番でいいじゃん」
「よくない」
「なんでだよ!」
「さっきも言った」
「でも今の流れ、完全にあたしが適任だっただろ」
「適任ではある」
「ほら!」
「だからこそ不安だ」
「なんでだよ!」
「適任なやつほど余計なことも思いつく」
「それは……ちょっとあるかも」
「だろ」
リッカは少しだけ口を尖らせた。
だが、本当に適任ではあるのだ。火も見られる。薪も分かる。炭焼きも知っている。村鍛冶の家の娘というだけあって、工房の基本的なところは任せやすい。問題は、それと同じくらい勝手に判断して余計な範囲まで手を広げそうなことだった。
そしてたぶん、本人に悪気がないぶん余計に危険だ。
昼前、ミレナが荷車を引いて現れた。
「こんにちは」
「なんで毎回来る」
「行商の日程の確認に決まってるでしょう」
「手紙で済ませろ」
「森の工房に誰が手紙運ぶのよ」
それはたしかにそうだが、こいつに正論を言われると悔しい。
ミレナは荷車を止めると、俺の顔を見るなり口元を少し上げた。
「町に行くって決めた顔じゃなくて、“工房を空けるのが不安”って顔してるわね」
「……」
「図星でしょ」
「腹立つな」
「当たるとよく言われるわ」
リッカがすかさず口を挟む。
「こいつ、あたしを留守番にしないって!」
「賢明ね」
「なんでだよ!」
「あなた、やる気はあるけど、頼まれてない範囲まで頑張るでしょう」
「うっ」
「工房守るつもりが、勝手に鍛接の練習とか始めそう」
「いや、それは……」
「やるのか」
俺が低く言う。
「……ちょっと興味はある」
「だろうな」
「でも工房の火見ながらなら――」
「却下」
「ですよねー!」
ミレナは笑いながらも、すぐに真面目な顔になった。
「でも、留守の間に誰か来る可能性はあるわよ」
「だろうな」
「村には先に言っておいた方がいい」
「行商で町へ出るって?」
「そこまでは言わなくてもいい。“三日後は半日ほど工房を閉める”で十分」
「……」
「変に黙って消えるより、その方が余計な騒ぎにならないわ」
それは、もっともだった。
俺は面倒そうに顔をしかめたが、結局うなずくしかない。こういう時、ミレナの商売人らしい現実感覚は役に立つ。本人へ言う気はあまりないが。
午後、女将の店へ顔を出し、ガロのところへ寄り、それから畑の女たちにも声をかけた。
「三日後、昼のあいだ工房を閉める」
「何かあったのかい?」
女将が包丁を動かしながら聞く。
「用事だ」
「町?」
「……」
「図星っぽい顔だねえ」
「余計な勘を働かせるな」
「ま、どっちでもいいさ。閉めるなら閉めるで言ってくれりゃいい」
ガロは斧を肩へ担いだまま笑った。
「留守にするの、気になるんだろ」
「当たり前だ」
「だいぶ工房っぽくなってきたもんな」
「前から工房だ」
「そういう意味じゃねえよ」
畑の女たちは、「じゃあその日は来ないようにするよ」と素直に頷いた。その物分かりのよさがありがたい反面、少し拍子抜けもした。もっと何か言われるかと思っていたのだ。
村を一回りして工房へ戻るころには、日はだいぶ傾いていた。
工房の前に立つと、やはり少しほっとする。
粗末な小屋。
石と土で組んだ炉。
道具台。
椅子。
炭と薪。
どれも大したものではない。だが、今の俺にとってはもう十分に「戻る場所」だった。
リッカが、工房の前で足をぶらぶらさせながら待っていた。
「で?」
「何が」
「留守番」
「却下だ」
「まだ言うかあ!」
「何度でも言う」
「もうちょっと考えてもいいだろ!」
「考えた結果だ」
「信頼がねえ!」
「ある」
「あるのかよ!」
「あるが、別の不安が勝つ」
「それ、褒められてんのか貶されてんのか分かんねえ!」
たぶん両方だ。
俺は道具台へ手をつき、しばらく工房の中を見た。
火の位置。
炭の位置。
預かりもの。
壁際の柄材。
村人からもらった籠。
そこに視線を走らせて、改めて思う。
俺は思っている以上に、この場所へ執着している。
異世界で生き延びるために作っただけの仮の拠点――そのつもりだった。だが、いまは違う。火の残し方ひとつに気を遣い、半日空けるだけで段取りを考え、誰に何を伝えるかまで気にしている。
それはもう、ただの「雨をしのぐ場所」ではない。
「……変わったな」
小さく呟いたつもりだったが、リッカが聞き逃さなかった。
「何が?」
「独り言だ」
「その便利な逃げ道ずるいよな」
「便利なんだよ」
そう返しながらも、内心では認めていた。
ここは工房だ。
しかも、俺が思っていたよりずっとちゃんとした意味での。
森の中に一人で作った場所なのに、今は村の人間が来て、道具を預けて、少し喋って帰っていく。そういう場所になってきている。
町へ行くのが面倒なのも、目立つのが嫌なのも本当だ。だが、戻ってくる場所がある状態で一度外を見る、というのは、異世界へ来た頃には想像もしなかったことだった。
火は残す。
工房も残る。
俺はそれを置いて一度だけ外へ出る。
そう考えた時、腹の奥に少しだけ重さと高鳴りが混じるのを感じた。
面倒だ。
だが、たぶん、それだけではない。




