第21話 森を出る理由は、目立つためじゃない
町へは行かない。
朝起きた時点で、俺はそう決めていた。
いや、昨日の夜から決めていたし、今朝になってからも改めて決めた。森の外へ出るのは必要最低限でいい。村までならまだしも、町となると話は別だ。人が多い。目立つ。余計な視線が増える。商人も職人も料理人もいる場所で、「森の鍛冶屋」なんて妙な肩書きを持ち込めば、ろくなことにならない。
だから行かない。
行かないはずだった。
「で、町ってどれくらい遠いんだ?」
朝一番にそう聞いてきたのは、当然リッカだった。
「行かない」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「便利だな、その理屈」
「便利だから使ってる」
工房の前で、俺は鉈の柄を布で拭きながら答えた。今日は午前中に小刀の研ぎ直しが一件、それからガロの紹介で来るという荷車の金具の相談がある。町のことなんて考えている暇はない。ないはずだ。
だが、視界の端には例の包みが置かれている。
町の料理人の包丁。
昨日のうちに一通り見て、考えた。考えすぎた、と言った方が正しいかもしれない。どこを軽くするか、どこを残すか、何を切る場なのか、どんな手の動きをしているか。そこまで頭の中で組み立てておきながら、「町へは行かない」と言い張るのは、我ながら少し無理がある。
だが、行きたくないのも本当だ。
この二つが同時にあるのが、いちばん面倒だった。
リッカは諦めるどころか、昨日よりさらに楽しそうだった。
「町、見てみたいよなあ」
「おまえはな」
「いや、おまえも」
「違う」
「じゃあなんで昨日から包丁を三回も持ち直してる」
「四回だ」
「自分で回数把握してるじゃねえか!」
「……」
口を滑らせた。
リッカが勝ち誇った顔でにやにやしている。腹立たしい。だが、そこでいちいち言い返しても消耗するだけなので、俺は無視して炉の前へしゃがみ込んだ。炭を寄せ、火を確かめる。火の仕事は好きだ。火だけ見ていれば、余計なことを考えずに済む時もある。
今日はそうならなかったが。
昼前、荷車の金具の相談に来た村人が帰ったあと、代わりに工房の前へ現れたのは、予想通りミレナだった。
「こんにちは」
「帰れ」
「最近、ちょっと挨拶が雑で固定されてきたわね」
「おまえ相手にはそれで十分だ」
「ひどい言われよう」
そう言いながらも、ミレナは気にした様子もなく荷車を止めた。今日の荷は少なめらしい。だが、顔を見る限り、口の方に余計な荷が積まれている。
「何だ」
「何って、進捗確認」
「何の」
「町に行くかどうかの」
「行かない」
「ふうん」
その「ふうん」が腹立たしい。
何かを見透かしているような、いや、見透かしているどころか、もう半歩先まで読んでいるみたいな響きだ。商売人というのは、相手の迷いを嗅ぎつけるのが早いらしい。
ミレナは椅子へ腰を下ろし、例の包みをちらりと見た。
「で、包丁は?」
「見た」
「感想は?」
「悪くない」
「でも?」
「……でも、仕事場を見ないと詰めきれん」
「ほら」
「ほら、じゃない」
ミレナはくすくす笑った。
「やっぱり気になるんじゃない」
「気になるのと町へ行くのは別だ」
「どう別なの?」
「……」
そこをきちんと説明しろと言われると困る。
俺はしばらく黙っていたが、結局、あまり言いたくない本音から順に口にするしかなかった。
「町へ行くと、目立つ」
「そうね」
「余計な話が増える」
「そうね」
「商人も職人も料理人もいる」
「ええ」
「面倒だ」
そこまで言うと、リッカが横で「それはまあ分かる」と素直に頷いた。おまえはもっと“町だー!”と騒ぐ側かと思っていたが、そこは理解できるらしい。
ミレナは頬杖をつき、俺を見た。
「でも、それだけじゃないでしょう」
「何がだ」
「行きたくない理由は分かった。でも、気になる理由は?」
言葉に詰まった。
そこをわざわざ口に出すのは癪だった。出した瞬間、もう認めたことになる気がしたからだ。けれど、このまま黙っていても、目の前の商人の娘は勝手に言葉を補ってくるだろう。
それはそれで腹が立つ。
だから、先に言うしかない。
「……町の仕事場を見れば、分かることがある」
声は思ったより低く出た。
「たとえば?」
「料理人の包丁の使い方」
「うん」
「量の切り方、台の高さ、刃の当て方、仕事の流れ」
「うん」
「村の台所の延長で考えても合わんところがあるかもしれん」
「そうね」
「鍛冶屋の見習いの道具も同じだ。何をして、どこで引っかかってるか、実際に見ないと分からん」
言い終えてから、少しだけ息を吐いた。
言葉にしてしまうと、余計に自分の中で形になる。つまり、俺は町へ行きたいわけではない。だが、職人としては見たいと思っている。知りたいと思っている。そこが否定できない。
ミレナは満足そうに微笑んだ。
「ほら、やっぱり」
「ほら、じゃない」
「売るためじゃないのよね」
「当たり前だ」
「見るため、知るため」
「……そうだ」
「職人って、そういう言い方する時はもう半分決めてるのよ」
余計なことを言うな。
だが、半分決めている、というのも外れていないのかもしれない。少なくとも、昨日の俺より今の俺の方が、町へ行く理由をはっきり言葉にしてしまっている。
リッカが椅子から身を乗り出した。
「じゃあ行くのか!?」
「おまえはすぐそうなる」
「だって今の流れ、完全に行くやつじゃん!」
「まだ決めてない」
「いや、だいぶ決めてるぞ」
「うるさい」
ミレナも追撃する。
「別に町へ出たからって、店を構えろとか売り込めとか言うつもりはないわ」
「信用ならん」
「ほんとに。今回は“見るだけ”でもいい」
「……」
「町の食堂街を見て、包丁を使う手を見て、鍛冶屋の小僧の話を聞いて、それで帰ればいいじゃない」
「簡単に言うな」
「簡単よ。行って、見て、戻るだけ」
「その“だけ”の途中に面倒が詰まってる」
「そこは私がなるべく潰す」
「おまえがいちばん面倒の種だろ」
「ひどい!」
ひどくない。かなり正確な認識だと思う。
だが、ミレナの言うことにも一理はある。町へ行く理由を「広げるため」「売るため」にしてしまうから面倒なのだ。そうではなく、「見るため」「知るため」だけなら、理屈は通る。
いや、通る気がしてくる、という方が正しいかもしれない。
それがいちばん危ない。
俺は立ち上がり、工房の前を少し歩いた。
小屋。
仮設の炉。
炭の山。
道具台。
村人が置いていった籠。
そして椅子。
全部、少し前まではなかったものだ。この異世界で生き延びるために作り始めて、気づけば人が来る場所になりつつある。だからこそ、これを置いて町へ出る、ということが少し重い。
同時に、外を知ることでここへ返せるものもあるかもしれない。
その両方が、目の前にぶら下がっている。
「……次の行商はいつだ」
気づけば、そう聞いていた。
リッカとミレナの顔が同時に上がる。
「おっ」
「三日後よ」
答えが早い。待っていたのだろう。
俺は眉間を押さえたくなったが、我慢した。
「一度だけだ」
「うん」
「見るだけだ」
「はいはい」
「包丁の使い方と、町の仕事場を見る。それだけだ」
「分かってる」
「おまえは分かってなさそうだから言ってる」
「失礼ね」
リッカがついに立ち上がった。
「じゃあ行くんだな!?」
「俺がいつおまえも連れていくと言った」
「えっ」
「えっ、じゃない。なんで当然みたいな顔してる」
「いや、行くだろ!?」
「行かん」
「なんでだよ!」
「おまえがいると静かに見られん」
「町でもその評価なのかよ!」
それはそうだろう。
ミレナが肩をすくめる。
「でも護送役はいた方がいいわよ」
「護送って何だ」
「森から町へ、見慣れない人が一人で入るより、私と一緒の方が余計な詮索を減らせる」
「それは、まあ……」
「ほら」
「ほら、じゃない」
理屈としては分かるのが悔しい。
ミレナは行商人だ。顔も利くのだろう。俺が一人で町へ入るよりは、たしかに余計な面倒は減るかもしれない。
リッカはまだ食い下がる。
「じゃああたしは!」
「留守番だ」
「なんで!?」
「工房を空にして全員で出る気か」
「……あ」
「そういうところだ」
「うっ」
痛いところを突かれたらしい。
リッカは口を尖らせたが、たしかに工房を空けること自体、俺にとってはまだ慣れない選択だ。村へ行くのとは違う。町となれば半日はかかるだろうし、場合によっては火の管理も考えないといけない。
そのことまで含めて、行くかどうかはまだ気が重かった。
だが、決めてしまった以上、もう昨日までの「絶対に行かない」とは違う。
俺はなるべく淡々とした声で言った。
「次の行商の日に、一度だけ行く」
リッカが息を呑む。
ミレナは満足そうに笑う。
「でも理由は町で売るためじゃない」
「分かってる」
「見るためだ」
「知るため、でしょう?」
「……そうだ」
言葉にすると、少しだけ腹が据わる。
目立ちたくない。
静かに暮らしたい。
それはたぶん、この先も変わらない。
けれど職人として、知らない仕事場と知らない使われ方を前にして、何も見ずに済ませるのも違う気がする。それを認めてしまった以上、一度くらいは行って、自分の目で確かめるしかないのだろう。
リッカが悔しそうに言う。
「絶対、あとであたしにも話せよ」
「気が向いたらな」
「向け!」
「命令するな」
「弟子未満への教育義務だぞ!」
「そんなものはない」
「冷てえ!」
そのやり取りを聞きながら、ミレナがくすくす笑う。
「やっぱり、行く流れになると思った」
「おまえの“やっぱり”は嫌いだ」
「でも当たってるでしょ」
「それが腹立つ」
工房の前に、昼の風が吹く。
森の静けさは変わらない。沢の音も同じだ。小屋も炉も、椅子も道具台も、昨日までと同じ場所にある。
なのに、少し先の未来だけが変わった。
三日後、俺は町へ行く。
売るためではない。
広げるためでもない。
ただ、見るため。
知るため。
町の仕事場と道具の使われ方を、自分の目で確かめるためだ。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥には小さな落ち着かなさが残っていた。
面倒の種を自分で拾いにいくようなものだ。
だが、それでもたぶん、鍛冶屋としてはそれが正しい。




