第12話 森の工房に、火は残った
夜の火には、昼間とは違う顔がある。
昼の炉は忙しい。温度を見て、炭を足して、素材を入れて、取り出して、打って、また戻す。火は仕事の相棒で、気を抜けばすぐ機嫌を損ねる。だから見惚れている暇はあまりない。
けれど夜の火は違う。
仕事が一段落し、炭の山が静かに赤を抱え、炉壁の土がじんわりと熱を返している時の火は、少しだけ人を黙らせる力がある。見ているだけで、頭の中の余計なざわめきが下へ沈んでいく。
その夜、俺は工房らしきものの前に置いた椅子へ腰掛け、炉の番をしながら火を見ていた。
空気は冷えている。昼のあいだは汗ばむことも増えたが、日が落ちると森の空気はぐっと締まる。小屋の壁はまだ粗く、風が入る。けれど、火があるだけで世界はずいぶん違う。火の前だけは、この異世界でも工房の夜に近い匂いがした。
炭と土と、少しだけ鉄の匂い。
それを吸い込みながら、ここ数日のことを思い返す。
たった数日だ。異世界に放り出されて、沢を見つけて、土をこねて、石を積んで、炉を作って、小屋を作った。最初は本当に、生き延びるためだけだった。寝床より先に炉が欲しいなんて、我ながらどうかしていると思ったが、それでもあの時は本気でそう思ったのだ。
火床と金床があれば、生きていける。
結局、その考えは今もあまり変わっていない。
だが、変わったこともある。
工房の前に視線をやる。
昼間に使った木桶。
薪の束。
研ぎ直した鎌を包んでいた布。
村人が置いていった野菜籠。
道具台の隅に置いた卵。
そして、来客用にと自分でも半ば無意識に作った木の椅子。
前はなかったものばかりだ。
この森に来たばかりの頃は、ここには火しかなかった。いや、火すらなかった。土と石と木だけで、ただ黙って立っている森だった。
それが今は違う。
人が来る。
包丁を持ってくる。
斧を抱えてくる。
鎌を見せる。
何も言わず、野菜や薪を置いていく。
火だけじゃない。人の気配が残っている。
それを鬱陶しいと思うことは、今でもある。
正直、あるどころかかなりある。朝っぱらから騒がしいやつもいるし、余計なことを広めたがる商売人もいるし、村人の視線は未だに慣れない。できればもう少し静かにやりたい。目立たず、ひっそりと、森の中で必要なものだけ打っていたい。
それが本音だ。
でも、その本音だけでは言い切れないものも、少しずつ増えてきた。
女将の包丁を思い出す。
最初にあれを見た時は、ただ単に「ひどい刃だ」としか思わなかった。あんな状態で使っていたら、手首も肩も余計に死ぬ。職人として見過ごせなかった。ただそれだけだったはずだ。
でも、打ち直した包丁を渡した時、女将の動きが変わった。刃が入るだけでなく、仕事の流れそのものが軽くなっていた。切り口が揃い、仕込みが早くなり、疲れ方まで変わる。あの瞬間を見てしまうと、道具というのはただの金物ではいられなくなる。
ガロの斧もそうだ。
重く、欠けやすく、身体に無駄な負担をかける道具を、本人はもう「そういうもの」と思い始めていた。腕が鈍ったのか、年のせいかと笑っていた。けれど、道具が変われば仕事は変わる。身体の使い方まで変わる。それを、あの男は本気で驚いていた。
鎌も、小刀も、包丁も、全部同じだ。
ただ鉄を打って、少し形を整えただけ。
それなのに、誰かの一日が少し楽になる。
そこまで考えると、炉の赤が少し違って見える。
俺は静かに暮らしたい。今でも、それはたぶん本当だ。
だが同時に、自分の打ったものが誰かの暮らしを変えるのなら、それはそれで悪くないとも思い始めている。ほんの少しだけ。認めるのは癪だが、たぶんそうだ。
火の向こうにある暗い森を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
「……面倒だな」
誰に向けた言葉でもない。
静かなままでいたい自分と、仕事が役に立つならそれを完全には嫌がれない自分。その両方がいるのが、たぶん一番面倒だった。
炉の中で炭がぱちりと鳴る。
その音を聞きながら、俺は少しだけ背を預けた。椅子はまだ粗い。座り心地も工房にあった古い腰掛けには遠い。けれど、この場所で使うには悪くなかった。工房の前、火の見える位置、手を伸ばせば道具台がある距離。来客用に作ったはずなのに、結局いちばん座っているのは自分かもしれない。
ふと、笑いそうになる。
来客用の椅子なんて、前の俺なら絶対に作らなかった。
人が来る前提で場所を整えるなんて、少し前までの自分にはなかった発想だ。なのに今は、それを当たり前みたいに置いている。
「……変わったのか」
問いかけるように呟いたが、答えは出ない。
変わったのかもしれないし、変わっていないのかもしれない。相変わらず人付き合いは苦手だし、静かな方が落ち着く。けれど、完全に一人だけの場所へ戻りたいかと言われると、少しだけ言葉に詰まる。
その時だった。
工房の外、小屋の入口あたりで、ごそり、と何かが動く音がした。
反射的に身体が起きる。夜の森では、どんな小さな物音でも気を抜けない。獣か、村人か、あるいは風に飛ばされた薪か。炉のそばに置いていた鉈へ手を伸ばし、足音を殺して入口へ向かう。
壁代わりの板を少しずらし、外を覗く。
最初、何なのか分からなかった。
工房の前の地面に、何か丸いものがある。毛布のような布にくるまった塊だ。しかも、その塊は妙に規則正しく上下している。
寝息だ。
俺はしばらく無言で、その毛布の塊を見下ろした。
嫌な予感が、ゆっくりと確信へ変わる。
「……おい」
小声で呼ぶ。
返事はない。近づく。毛布の端から、見覚えのある赤茶色の髪がはみ出していた。
リッカだ。
なんでだ。
いや、理由はだいたい分かる。分かるが納得はできない。なぜ追い返したはずのドワーフ娘が、俺の工房の入口で毛布にくるまって寝ているのか。しかも妙に熟睡している。
さらにその横に、板きれが立てかけてあるのが見えた。
嫌な予感しかしない。
拾い上げて見ると、板には太い字でこう書いてあった。
「明日から本気で弟子やる」
頭が痛くなった。
いや、ほんとうに物理的に痛かった気がする。こめかみのあたりがずきずきする。どうしてそうなる。どうして「断られたから出直す」ではなく「入口で寝て既成事実を作る」になるのか。ドワーフはみんなこうなのか。いや、たぶんこいつが特別なんだろう。
足元で、毛布の塊がもぞりと動いた。
「ん……むにゃ……炉、風、そっちじゃ……」
寝言まで鍛冶か。
そこだけは妙に本気なのが腹立たしい。
俺は板きれを持ったまま、しばらく夜空を見上げた。木々の隙間に星が見える。異世界の星なのか、元の世界と同じなのかも分からない。ただ、そんなことを考えるより先に、入口で寝ている押しかけ弟子志願者をどうするか考えなければならない状況が、ひどく現実味を持って迫っていた。
火は残っている。
工房も残っている。
静かな暮らしも、まだ完全には壊れていない――はずだ。
けれど、その静けさの輪郭は、思っていたよりずっと簡単に人の気配で塗り替えられていくらしい。
俺は深く、深くため息をついた。
「……ひっそり、とは何だったんだ」
答える者はいない。
ただ、炉の中で残り火が小さく赤を保ち、工房の入口ではドワーフ娘が勝手に寝息を立てていた。




