第10話 静かな工房に、増えていく音
最初に来たのは、包丁を二本抱えた婆さんだった。
朝、沢から水を汲んで戻ると、工房らしきものの前に小柄な影が立っていた。俺の作った粗末な屋根と炉を、まるで値踏みするみたいに細い目で見ている。横には編み籠。中から刃物の柄が覗いていた。
「……何だ」
思わずそう言うと、婆さんは振り返りもせずに鼻を鳴らした。
「何だじゃないよ。ここが森の鍛冶屋のとこだろ」
「そう呼ばれてるらしい」
「包丁、見てほしくて来た」
まっすぐすぎる用件だった。
最近、村からの来客はリッカだけではなくなっていた。といっても、まだ頻繁というほどではない。だが女将の包丁、ガロの斧、その二つの話は思っていたより村に広がっていたらしい。
広がらなくていいのに、と内心では思う。
だが実際に困っている顔をされると、それをそのまま追い返すのも気分が悪い。しかも相手が道具を抱えて来ているとなると、なおさらだ。
俺は黙って籠を覗き込んだ。
包丁が二本。どちらも使い込まれている。一方は刃先が丸まり、もう一方は無理に研がれすぎて刃の腹が痩せていた。刃物としてはひどいが、逆に言えば毎日それだけ使われてきた証拠でもある。
「研ぎか。打ち直しじゃない」
「まだ金物をまるごと頼む余裕はないからねえ」
「……そうか」
その言い方に、少しだけ口をつぐむ。
森で一人やっていると忘れそうになるが、村の暮らしは楽ではない。道具が悪くても、使い続けるしかないことの方が多い。だからこそ、一つの刃物がちゃんと働く意味が大きいのだろう。
俺は包丁を受け取り、道具台の上へ置いた。
「少し待て」
「待つよ。どうせ急いで帰っても畑しかないし」
婆さんはそう言って、工房の前の切り株へ勝手に腰を下ろした。俺は一瞬何か言おうかと思ったが、やめた。別に座られて困るものでもない。
水を打ち、石へ刃を当てる。
しゃっ、しゃっ、と乾いた音が朝の森に重なる。研ぎは嫌いじゃない。打ち直しほど派手ではないが、使われ方の跡がそのまま残っていて、相手の暮らしが見えるからだ。この婆さんは包丁を押し切りで使う癖がある。だから刃元が特に死にやすい。たぶん手首も少し弱っているのだろう。なら、必要以上に角度を立てず、少しでも入る流れを残す方がいい。
研いでいる間、婆さんは特に話しかけてこなかった。
助かった。
静かな依頼人はありがたい。いや、静かじゃない依頼人に心当たりがありすぎるだけかもしれないが。
包丁を返すと、婆さんは刃先を光にかざし、何度か空で切る真似をした。
「……おお」
「使えば分かる」
「分かる前からちょっと分かるね、これは」
そう言って、婆さんは籠の底から小さな布袋を出した。中には卵が三つ入っていた。
「いらない」
「礼だよ」
「研ぎだけだ」
「こっちは助かったんだ。受け取りな」
そう言って、半ば無理やり道具台へ置いていく。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
卵三つ。大した量じゃない。だが、森の中で暮らしていると、そういう「ちょっとしたもの」の価値が身に染みる。正直に言えば、ありがたかった。
そして、その「最初」が始まりだった。
次に来たのは、鎌を抱えた若い女だった。畑で草を払うのに使っているらしいが、刃先が欠け、柄も緩んでいる。研ぎ直しと柄の締め直しでまだ使えると伝えると、女はほっとしたような顔をした。礼だと言って置いていったのは、干した豆の袋だった。
その次は、小刀を持った男だった。獣の皮を剥ぐのに使うらしく、刃先を立てすぎて欠けやすくなっていた。仕事の様子を聞き、少し粘りを残すよう研ぎを変える。男は帰り際、薪を一束置いていった。
さらにその次は、鍬の金具を見せに来た年寄りだった。鍛冶仕事としては大したものじゃない。だが柄との噛みが悪くなっていたので、火を入れて少し癖を直し、締め直してやる。礼は青菜だった。
工房の前には、少しずつ物が増えていった。
薪。卵。野菜。干し豆。布切れ。たまに木の実。誰が置いていったのか分からないものまであった。どれも高価なものではない。だが、森暮らしの身にはどれも十分にありがたい。
ありがたい、のだが。
「……増えすぎだろ」
ある朝、小屋の前に置かれた野菜と布切れと薪の束を見て、思わず口に出た。
「おっ、ついに人気工房って感じだな!」
「おまえは毎朝いるな」
「弟子だからな!」
「違う」
リッカはもはや半分当然みたいな顔で朝からいる。
何度追い返しても来る。薪を持ってくる。鉱石を拾ってくる。たまに頼んでもいないのに沢から水まで運んでくる。正直うるさいし、落ち着かない。だが作業の手つきはだいぶ信用できるようになってきたので、完全に無視もできないのが厄介だった。
ただ、リッカのおかげで気づいたこともある。
人が増えると、音が増える。
前は葉擦れと沢の水音と、炉の火の音しかなかった。今はそこへ、足音が加わる。誰かが工房の前で喉を鳴らして呼ぶ音。切り株へ腰を下ろす音。置いていかれた籠が木の台に触れる音。そういう小さな音が、いつの間にかこの場所へ染み込み始めていた。
静かなはずなのに、前とは違う静けさだ。
最初の頃の静けさは、何もない森の静けさだった。だが今は少し違う。人の気配が一度通り過ぎ、その余韻だけが残ったあとの静けさだ。
面倒だと思うことは、もちろんある。
道具の手入れをしながら、また誰か来たのかと眉をひそめることもある。作業の途中で声をかけられると、正直いらっとする。こちらにはこちらの段取りがあるのだ。
だが、依頼人が実際に困っている顔を見ると、結局断りきれない。
切れない包丁で腕を痛めている。
重い鎌で手首が死にかけている。
欠けた小刀で余計な力を使っている。
そういうのは、見れば分かる。
そして分かってしまうと、職人としては放っておきにくい。
今日も、工房の前には一人の男が立っていた。村の若い衆で、たしか前に女将の店で見た顔だ。手にしているのは、折れかけた小さな刃物だった。
「……何だ」
「小刀、見てもらえるか」
「折れてる」
「だから見てもらいてえんだろ」
「新しくした方が早い」
「でも、すぐ全部は無理だ」
その一言で、また反論が面倒になる。
俺は黙って刃物を受け取った。完全に新造するより、今は一時しのぎの修正で持たせる方がこの男の暮らしには合っているのだろう。だったら、その範囲で一番ましな形にするしかない。
リッカが横から覗き込み、わくわくした顔をしている。
「今日は何やるんだ?」
「研ぎと修正だ」
「おお、地味だけど大事なやつ!」
「おまえ、黙ってるときと喋るときの差を覚えろ」
「頑張る!」
「今のは頑張れてない」
男が吹き出しそうになるのを見て、俺は少しだけ眉を寄せた。笑われるのは苦手だ。だが、不思議と以前ほど嫌ではなかった。
依頼はどれも大仕事ではない。
刀を打つわけでもない。伝説の武器を作るわけでもない。包丁を研ぎ、鎌を直し、小刀を整える。村の暮らしにくっついた、こまごまとした仕事ばかりだ。
けれど、その一つ一つがちゃんと生活へつながっている。
畑で使う。
台所で使う。
山で使う。
皮を剥ぐ。
草を刈る。
木を切る。
大きな仕事ではないぶん、使う人間の顔が見える。使い方が分かる。だから調整の意味がある。そこが、やっていて嫌ではなかった。
昼過ぎ、若い衆の小刀を返すと、男は刃の入りを試して何度も感心したようにうなずいた。
「……助かる」
「折れたら今度は打ち直す」
「そん時は、ちゃんと何か持ってくる」
彼はそう言って、腰の袋から布切れを取り出した。大したものではない。だが丈夫そうな麻布だ。
「母ちゃんが『森の鍛冶屋は布が足りなさそうだ』って」
「……足りてない」
「だろうな」
そのまま男は笑って帰っていった。
残された布切れを見下ろし、俺はしばらく何も言えなかった。
前なら、人から何かをもらうことにもっと強く構えていた気がする。借りを作るようで落ち着かないし、関係が増えるのも面倒だった。今だって、基本的にはその感覚は変わらない。
それでも、工房の前に置かれていく品々を見ていると、ただの借りや義理だけではないものも感じる。
村人たちなりの、下手くそな礼だ。
うまく言葉にできない代わりに、薪を置く。卵を置く。野菜を置く。それがこの村のやり方なのだろう。ぶっきらぼうなのは、俺だけではないらしい。
夕方になるころには、工房の前は少し散らかっていた。
いや、正確には「暮らしの跡」で散らかっていた。置かれた籠、薪の束、洗って干している布、道具台の上の研ぎ屑、炉の脇へ積んだ炭。以前はただ空いていた場所に、今は物があり、音があり、人の出入りの痕跡がある。
静かなはずの工房が、以前とは違う意味で落ち着く場所になり始めていた。
そのことに気づいて、俺は少しだけ戸惑う。
一人でいたい気持ちは変わらない。今でも、人が続けて来ると疲れるし、余計な会話はしたくない。できるなら静かに火の前へ座っていたい。
でも、完全な孤独に戻りたいかと聞かれると、少し答えに詰まる。
火の音しかない朝は好きだ。だが、誰かが使い終えた包丁を抱えてここへ来るようになった今、その音だけでは少し足りない気もする。足りない、というのは変だが、たぶんそういうことだ。
夕餉の前に、俺は小屋の横に転がしてあった丸太へ鉈を入れていた。
最初は、ただの癖だった。人が来た時に毎回切り株へ座らせるのもどうかと思っただけだ。依頼人が包丁や鎌を出すたびに、地面へしゃがませるのも見づらい。だから、少し腰かけやすい高さのものが一つあれば便利だろう、と。
それだけのつもりで木を選び、余分な節を落とし、座面になるところを削る。四本脚ほど手間はかけず、太い枝をうまく使って安定させる。見た目は粗いが、座るだけなら十分だ。
気づけば、俺はかなり真面目にそれを作っていた。
座面の高さ。
ぐらつかない脚。
地面の傾きに合わせた調整。
刃物を膝に置いても邪魔になりにくい幅。
途中で、ふと手が止まる。
「……何やってるんだ、俺は」
口に出してから、目の前の木の椅子もどきを見た。
来客用だ。
誰かが来た時に座るための椅子。それを、俺は当たり前みたいに作っていた。
前までの俺なら、こんなものは必要なかった。というか、作る発想自体がなかっただろう。人が来る前提で工房を整えるなんて、静かな暮らしからいちばん遠い。
なのに今の俺は、それを自然にやっている。
しばらく無言で椅子を見つめたあと、俺は深く息を吐いた。
「……まあ、便利か」
誰に言い訳しているのか分からない。
けれど、その椅子を工房の前へ置いてみると、不思議としっくりきた。粗末な小屋、仮設の炉、積まれた薪、並んだ道具、その横にひとつだけ置かれた椅子。
前より少しだけ、この場所が「人の来る場所」に見える。
それを嫌だと思い切れない自分に、俺はまた少しだけ困るのだった。




