第42話 甘えん坊と百瀬の再チャレンジ
「あっ! 百瀬くん、こっちこっち!」
両手にソフトクリームを持ってタクシー乗り場に戻ると、長い列の中で犬井さんがこちらに手を振っていた。
「はい、勝手に決めちゃったけど大丈夫?」
「うん! ありがとね! あっ、それとね!」
ソフトクリームを受け取った犬井さんは、ふと何かを思い出したように着物の袖を捲り、手首に下げた巾着をガサゴソと漁る。
「その……昨日ね? 薬のついでに買ったんだけど、良かったら使って?」
その手にあったのは、水なしで飲める酔い止めだった……あの時は迷惑をかけたというのに、犬井さんは気を使ってくれていたのか。
「……ありがとう。すごい助かる」
受け取ろうと伸ばした手が、昨日の出来事の罪悪感から一瞬固まる。
「よかったぁ~ 百瀬くん、バスに乗るたびに真っ青で辛そうだもん!」
……隠しているつもりは無かったけど、犬井さんから見たら僕はそんなに酷いことになっているのか。
「溶ける前に食べよう。タクシーで食べるわけにもいかないしね」
「うん! いただきます!」
空いた手で薬を受け取り、自分の巾着にしまう横で犬井さんは待ちきれない様子で勢いよく頷き、ソフトクリームへ舌を伸ばす。
「んん~!」
彼女は唇をほんのり緑に染めて嬉しそうに震える。いつも美味しそうに食べて、満面の笑みを浮かべる犬井さんは見ていて飽きない。
彼女を盗み見ていることを悟られないよう目を背け、僕もソフトクリームを口へ運ぶ。
キメが細かく滑らかで、重たくねっとりとしたクリームが口でじわりと溶ける。
溶けるにつれて濃厚な抹茶の優しいほろ苦さが舌の上に広がり、爽やかな香りが鼻からふっと抜ける。
「ソフトクリームなんて久しぶりに食べたけど……美味いな」
ついさっき宇治金時を食べたばかりであるけれど、抹茶味はどれだけ食べても飽きない。
「ね! 私も久しぶり!」
そう言って明るく微笑む彼女だが――
「犬井さん、ほっぺに付いてる」
――豆粒大のクリーム。
「えっ、ありがと……ほっぺ!?」
店でもらった紙ナフキンを差し出すが、声が裏返った犬井さんは目を大きく開く。
「百瀬くん、『ほっぺ』って可愛い言い方するんだ!?」
「……なんだよ」
頬に付けたまま可笑しそうにクスクスと笑う姿に、思わずムッとなる。
「ごめんって! ただ、可愛いなぁって思って!自信持って!」
「はぁ……」
犬井さんはあやすように僕の背中をポンポンとさするが、それで落ち着くほど僕は子供ではない……こんな様子で、本当に僕より年が上なのだろうか? 疑わしくて仕方がない。
……でもまぁ、犬井さんが楽しんでいるならそれでいいか。
落ち込んでいたり、卑屈になっているよりは何十倍もいい。
「ねぇねぇ百瀬くん!」
「……何?」
そう自分に言い聞かせている最中、犬井さんは肘を当てて僕を呼ぶ。
見ると、上目遣いに僕を見つめてニヤニヤする彼女の手にはナフキンが握られて――
「クリーム、どこ付いてるか分かんないから、拭いて?」
◇
「拭いてくれてもよかったじゃん、ケチぃ~」
「仕方ないだろ……」
僕が拭かなかったことに腹を立てたのか、タクシーに乗り込んでからも犬井さんはずっと不満そうに口を尖らせたままでいる。
……タクシーが来るまでの10分間、「溶けてベタベタになるから」と注意したのに頬に付けたまま粘っていた。彼女は少々頭がおかしい。
「百瀬くんがほっぺに付けても、取ってあげないからね!」
「はいはい……頑張って付けないように努力するよ」
「キィーッ! いじわる!」
無線から道路状況を伝える無機質な声が飛び交う中、運転手の人はニヤニヤしながらミラー越しに僕らを覗いている……気がする。気のせいだといいが。
とにかく、タクシーに乗ってしばらく経つけれど犬井さんはへそを曲げたままで……少し面倒くさい。
けれど、今の彼女へは面倒くささよりも感謝が勝っている。
乗り込む前に飲んだ酔い止めのおかげで気持ち悪さが抑えられて、揺れる車の中でも冗談を言う余裕ができた。
それに、僕が粉の薬を飲めないことを彼女は知らないはずだが……ラムネのように舌で溶ける飲みやすいものだったから、そういう面でもすごく助かった。
「……どうしたの、私のことじっと見て?」
もう窓の景色ばかりを見て、文字を避けることをしなくてもいい……
「何でもない」
……本当に、犬井様々だ。
◇
道中での渋滞が無く、出発から20分ほどで慈照寺――またの名を銀閣寺の入口に到着した。
今日初めて草履を履いた僕らは、石畳の上を慎重に歩いていく。
「……これ、転んだら大変だよね?」
僕よりもずっと気を遣って地面を踏む犬井さんは、すぐ奥に見える上り坂を見ると不安そうに瞳を揺らす。
「そうかもしれないけど……大丈夫だよ」
「でも……あの二人にも、百瀬くんにもまた迷惑かけちゃうじゃん……」
ワンピースの時に転んだことが、今も頭から離れないほどのショックだったのは分かる。ただ、せっかく来たからには少しでも立ち直って元気を出してほしい。
それに、さっきみたく悲しい表情をさせたくない。
どうにか、転ばないと安心してもらうことは――
「……ッ」
一つだけ思い浮かぶ、けれど――けれど僕にできるか……それは全くの別問題だ。
それに、僕は一度拒んでしまっている。
一体、今更どこのどいつがやるっていうんだ……
「……」
やってくる罪悪感を頭から振り払い、左手を空けて犬井さんのそばに差し出す――
「も、百瀬くん?」
――彼女は困惑した表情で足を止めて、大きく開いた目で僕を見る。
「……」
いざやろうと思うと、胸は息苦しく、鼓動が嫌に早くなっていく。
胸の内は勢い任せのキザな考えと、塗りつぶすような恥ずかしさの板挟み。解熱剤では下がらない熱が僕の頭を暴走させている。
「あの、本当にどうしたの?」
彼女は目を丸くして、顔に血が集まっていく僕のことを見つめる。
……一々恥ずかしがってグズグズしても仕方がない。
「……はぁ」
ため息を吐いて、『やれやれ』という態度を作って強がる振りをすれば――
「……手、繋げば転ばないでしょ」
――大丈夫、なんてことはない。
「……えっ?」
「……ほら」
犬井さんを直視できず、そっぽを向いて右手を差し出す。
目で見ていないのに、第六感みたいに彼女の目が手と顔を忙しく行き来しているのが分かる――
「いいの? さっき――」
――早く握ってくれ……いや、僕からじゃないと。
……喉元過ぎれば何とやらだ。
「いいから、行くよ」
「え、ぁ……ぅ、ん」
硬直したまま行き場を失っている彼女のひんやりとした左手を引き寄せて、不格好に繋いで上り坂へと歩き出す。
「「……」」
サラサラと袖を触れ合わせながら、とち狂って彼女の手首に触れた僕の親指を、少しずつ親指に重ねて、空いた手のひらの境目が一つになっていく。
そうして重なるにつれて、彼女の指の細さが、吸い付くような手のひらの熱っぽい冷たさが、握り返すときの微かな震えも、甘く忙しい脈も、全てが伝わって……
「あぁ、あの……ぁりがとっ」
力加減が分からず、互いに緩めて締めてで何度も握り直す中、彼女の上ずった声で、僕の頭は熱を帯びてさらに狂っていく。
「ふぅ……」
何度も息を吐いて気取ろうとしても、手のひらと指先に伝わる感触が邪魔をして、上手くいかない。
手のひらが汗ばみ、彼女の手がツルリと滑りそうになる度、僕は手のひらを重ねる――
「……も、ももせくん、そんな繋ぎたかったの?」
「……」
振り返ると、彼女は顔を真っ赤に染めて……とろけたような目をしていた。
「……んっ」
見たことのない表情に思うように喋れず、喉を摺ったよう声を出して、首を縦に振るのが精一杯――
「……ん」
――ただ、それは彼女も同じだったみたいだ。
入口の門すら潜れていないのに、もうやり切った気になるのは……仕方がないことなのだろうか。




