第43話 記憶の欠落と復活の遥野
……枯山水の庭園と、池の中央に佇む銀閣寺が落ち着いてよかった……と思う。
手を繋いで回ったことで僕の心には感動する余裕が無くて、気が付けば門と下り坂を抜けてタクシーを待っていた。
「木! 緑! って感じですごい綺麗だったね! ああいうの、百瀬くんの好みでしょ?」
「あ……あぁ、うん」
道中の記憶がほとんど無く、ただ上の空で返事をする。
手汗は大丈夫か、痛くしてないか……全ての意識と触覚が右手に吸われている。
犬井さんは柔らかい笑みを浮かべ、腕に下げた巾着と頭のお団子を楽しそうに揺らす……喜んでいるようだし、きっと綺麗だったのだろう。
そんな反応で力が抜けるような、抜けないような……そんな感覚に陥る中、彼女は何かを思い出したように目を見開く。
「そういえばさ、ホテルってプールあるんだよね?」
「ん? そういえばあったね、温水プール」
「……あの、さ」
行き来の少ない道路を見つめてボーっとしながら答えると、犬井さんは少し言葉につっかえて上ずった声になった。
「せっかくだし、入ってみない?」
季節外れの提案をする彼女の頬はポッと赤くなり、ギュッと握る手に力が籠められる。
この頼みに応えられるなら応えたい……が――
「いいけど……水着、この時季に売ってるかな」
――ほんの少し暖かくなったとはいえ、気温はまだまだ冬のそれだ。
ただ、そんな不安を見越していたのか、犬井さんは恥ずかしそうに目を逸らす。
「靴、買ったときさ……近くのスポーツショップで売ってたの見たから……だから、一緒に……どうかなって」
繋いでいる僕の右手に、ギュッと力が込められる。
「……じゃあ……せっかくだし――」
彼女が水着姿になる……それが頭をよぎり顔から火が出かけると――
『――♪♪』
突然の音に犬井さんは目を丸くする――冷やかすように僕のスマホの着信音が鳴った。
「すぐに済ませるから、ごめんね」
名残惜しいけれど……繋いだ手を離して通話を押す。
「おっす、モモセ?」
……よく言えば凄く頼もしい、強気な声。
「……どうも、遥野さん。お世話になっております」
福岡でホテルに泊めてもらって、こうして旅行ができるように助けてくれた人……だが――
「二人とも東京帰った? そっちはどう?」
「いえ。今は京都で、明々後日に帰る予定です」
「ふーん、そうか。じゃあ……ところでさ」
考え込む様子の奥でガサゴソと、何かを詰める音がする。
「モモセ、親父さんに売り込むの上手くいきそう?」
「えっ……いや、まだ」
「そっか、それでさ――」
袋の擦れる音が止む……何か、嫌な予感が――
「――モモセのご両親って好きな食べものある?」
「はぁ!? なっ、何でですか!?」
「上京しようと思って。来週にはホテルも辞めるし、泊まるアテが無いから泊めてもらおうと」
何を考えているんだ、この人は!?
「どうしたの?」と犬井さんが袖を引いて聞きたそうにしているが、答える余裕がない。
「いやいや……僕は――」
「刑法159条、有印私文書偽造罪。モモセは良くても、犬井ちゃんはどうかな? まぁ、善意でやったけど……な?」
犯罪!? ……というか、分かってやったのか!? というか――
「それ、捕まるのは遥野さんじゃないですか?」
「ウチはパクられてもいいけど、なら分かった上で印刷して使ってる犬井ちゃんはどうかな?」
この人は本当に……何を考えているか分からない。
「荷物はスーツケース1つだけだし、ウチは床で寝れるし部屋もいらない。期間は1ヶ月、物件を見つけるまで。それならいいよな?」
「いや、でも……」
「お前ん家、確実に便利だろ? それにボンボンなら部屋も広そうだし。」
「そんなこと――」
「現金をあんなに持つやつがいるか? それにお前の財布、革のそこそこ良いやつだろ?」
……この財布、良いやつなのか。誕生日で貰ったものだけど、あまり意識したことが無かった。
すごい物知りなんだな、という驚きが半分。早くタクシーが来て、話を切り上げられないかと願う中、遥野さんの指摘は続く。
「お前のローファーは踏まれた跡がなかったし、底も擦り減ってなかった。それに博多はホテル同士近いのにクタクタなのは、家と高校の最寄りが一緒で普段歩かないからだろ? で、制服から調べたら高校は東京の――」
何で全部当てられるんだ、この人は!?
「もう分かりましたから! 帰ったら父さんに繋ぎますから、そこで交渉してください!」
「OK! サンキュー!」
「あと母はいないので、父さんと話す時は気を遣ってくれると助かります」
「あっ、それはごめん」
電話越しの声は威勢が消え、なんとか落ち着きを取り戻せた……母さんのことを交渉のダシに使ったみたいなのが気掛かりだけど。
とはいえ――
「それと、なんでそんなに僕の環境が分かるんですか?」
――どんなタネがあるのか気になって仕方がない。遥野さんはホームズやポワロではあるまいし。
「2年前まで探偵事務所のバイトやってたんだよ。給料は良かったし面白かったけど、メッチャこき使われたのと移動が長すぎて辞めた」
……あながち冗談でもないみたいだ。
「そろそろ移動なので切りますね」
道の向こうでようやくタクシーが顔を出す。
とにかく、聞きたいことはもう無い。できればあまり話したくない、売り込みとかを余計に要求されそうだ。
「おう! じゃあ再来週あたりでよろしくな!」
「再来週!? ちょっ――」
突然のことで思わず叫ぶが、その時には通話が終了していた。
「も、百瀬くん? だ、大丈夫?」
「多分……いや、どうなんだろ」
……大丈夫ではないな。
心配させないように笑みを貼り付けよう……あまり上手くできていないのは、犬井さんの表情を見れば分かるけど。




