第40話 二度目の着替え
「ちょっと百瀬くん!? どうしたの!?」
僕が少し手を引いたことで、犬井さんは目を白黒させている。
「いいから今はついてきて」
ほんの数メートルだというのに余裕がなく、気の利いた言葉が出てこない。
全ては犬井さんに悲しい表情をして欲しくないから……だと思う、間違いなく。
◇
引き戸を開けると、店内からふんわりとお香の香りが鼻腔をくすぐる。
ベージュの壁で落ち着いた雰囲気の店内の端には着物のマネキンが立ち、壁一面が着物や小物、これまでの利用者と思しき写真で埋まっている。が――
「こんにち――」
「はい、あと5分でシフト上がりー! 私はこのまま行ってくるから、よろしく! 笠村!」
「はぁ!? ふざけんなよ!」
遠慮が一切ない罵声が飛び交う店内……間違いなく着物店のはずだが、来る店を間違えたか。
「あの……」
「いいじゃん! いつも勉強も教えてるんだからチャラで!」
「それとこれは別モンだろバカ! お前遅刻したろ、行くな! 働けクソ近江!」
2人とも大学生だろうか。カウンターの中で金髪にピアスの男性が黒髪の女性に怒鳴っている。
男性の方――笠村と呼ばれていた――は本気で言っているようだが、女性の方――おそらく近江――は相手にしていない様子だ。多分、本気の喧嘩ではないのだろうが……
「それにお前が行ったら外国人対応ができないんだよ――いらっしゃいませ! ご予約の方でしょうか?」
「いらっしゃ……May I help you?」
見苦しい言い合いが急に止み、笠村さんは僕へ。近江さんは流暢な英語で犬井さんへ、スイッチが入ったように接客を始める。
「えっ、あの……」
「日本人の方でしたか、笠村がお見苦しいところを……失礼しました!」
「あぁ? やるか? ――って」
犬井さんがオロオロと困惑していると、察した近江さんは小さく頭を下げる。
一方の笠村さんはというと――
「そこの金髪の子、名前は――」
「えっ?」
――犬井さんに釘付けになっていた。
「いいからいいから! お兄さんに教えてよ!」
「……犬井、です」
「服汚れてんじゃん! うちで着物に着替えたら、そのままご飯行かない? 奢るからさ!」
「……は?」
こいつは何を言っているんだ。
笠村の言葉に犬井さんはスカートの裾を隠して縮こまる。
『泣き出しそうな彼女によくもそんなことを言えたな』と、怒りより先に呆れを覚える……
……嘘だ。そんなの建前だ、本当は僕が――
「ちょい! 同居人の私がいながらよくナンパできるな笠村! あと奢るなら私に奢れ!」
「ふざけんな、お断りだわクソボケ!」
笠村はギョッと振り返ると、鬼の形相で近江さんを睨みつける……同居人ってどういうことだ。相手がいながら口説いていたのか?
「それに隣に男の子いるの分からない? もう明らかじゃん」
「は? うわぁ……マジだ」
笠村は存在に気が付かなかったのか、僕を見るとげんなりと肩を落とす。
「……いらっしゃいませぇー 何かご用でしょうかぁー」
「もういい退け! 私がやる! あーもう最悪! 私の上がり時間が!」
「痛ってぇ! 何すんだ!」
上の空の笠村が蹴り飛ばされると、カウンターは近江さんに代わった
「すっこんで頭冷やしてこい! 脳みそチン……んんっ! 大変失礼いたしました。着物のレンタルでよろしいでしょうか?」
「は、はい……」
丁寧でにこやかに対応してくれているが……この店は果たして大丈夫なのだろうか?
「ご予約はお済みですか?」
「いえ……彼女の服が汚れてしまったので――」
「あぁ、なるほど……おい、笠村! 2人いける!?」
店の奥に向かって近江さんが叫ぶ。
……僕は足に泥が少し跳ねたくらいだ。気にするほどではないが……犬井さん一人着替えさせるというのは惨めな思いをさせるかもしれない。
断ろうと思ったが……僕も着るか。
「……あぁ? 大丈夫だろ。今日はなんか予約少ないし」
「大丈夫そうですね。プランはいかがにいたしますか?」
そう言ってカウンターの脇から料金表を出して僕らに見せた。
心なしか、笠村の声に元気がない。
・メンズプラン : 5000円
・ヘアセットプラン : 5500円
・学生プラン : 4500円
その他にも振袖に袴、訪問着プラン……と表だけで様々なものが並ぶ中――
「……この『修学旅行プラン』というのは?」
修学旅行プラン、一人3500円。着付けにアクセサリーも含まれてこの値段、他のものと比べて明らかに安い。
高めのホテルに靴と今日一日でかなりの予算が飛んだ。まだ30万近くあるとはいえ、明日以降も楽しむためだ。質が変わらないなら費用は抑えたい。
「申し訳ありません。こちら、ご予約が必要なプランでして……」
近江さんは気まずそうに頬を搔く。
費用は抑えたいが……ダメなら仕方がない――
「こちらのカップルプランはいかがでしょうか?」
「「えっ……」」
ひらりと料金表を裏返し、近江さんは大きく描かれた写真を指さす。
カップルプラン、一人4000円。安い、安いが……
「え……っと」
表から顔を逸らすと、顔を林檎のように赤くした犬井さんと目が合う。
「ほ、他の……って。僕ら、高校生で……」
「あら、カップルではないので?」
そう言うと近江さんは楽しそうにほくそ笑む。
「そうなりますと学生プランですが……カップルじゃないようだと、アイツがねぇ?」
近江さんは奥の暖簾を示し、それから犬井さんに目が向く。
「あ、も……百瀬くん?」
じり、と犬井さんが近づく。
気まずさなのか、恥ずかしさなのか。裾を握る彼女の顔は俯いたままだ。
「……じゃあ、それで」
「なんですか?」
分かりやすく耳を傾けて、近江さんが聞こえないフリをしているのは明らかだった。
おもちゃになりたくない、という気持ちで一杯だったが……断るのは犬井さんを否定するような気がした。
それに、今まで常にそばにいて気が付けなかったが、犬井さんは誰が見ても間違いない魅力的だ。
取られないために――いや、僕にその権利があるかは疑わしいが――彼女の横にいるには僕も覚悟がいる。
「カップルプランで……お願いします」
◇
「動け笠村! ナンパ失敗したからってクヨクヨすんな! 仕事だ!」
暖簾をくぐり奥へ進むと、近江さんは椅子に座ったまま顔を覆う笠村を蹴る。
「……マジで?」
立ち上がった笠村は涙目で、犬井さんと僕を見ると大きなため息を吐く。
「さっきはコイツがすみませんね。大学デビューをしくじって、もう3年なのに未だ女子に相手されないからはしゃいじゃったんですよ」
「えぇ……」
ニヤニヤ笑われると、笠村は顔を赤くする。
「お前……覚えてろよ……」
「じゃあ、犬井さんはこちらへ。笠村、しっかりしろ~」
「……どの口が言うんだよ」
笠村が睨みつけるも、相手にしない様子で近江さんは更衣室へ消えていく。
「さっきはごめんなぁ、気が付かなくて」
僕と二人だけになると、笠村は居心地が悪そうに頭を下げた。
「……いえ」
「そっか。とにかく、アイツが言ったことは全部嘘だから……行くぞ」
「は、はぁ……」
近江さんに言われたことが気掛かりだったのか、笠村は念を押してくる。
「えっと……読み方は『ももせ』、だよな?」
「は、はい」
「百瀬、服選ぶのって苦手だったりする?」
着物の大量に並ぶ部屋に着くと、僕の首からつま先を一瞥した笠村が言ったことは見事に図星だった。どうやらプロは騙せないらしい。
「えぇ、まぁ」
「やっぱりか、服の組み合わせが店のマネキンぽいと思ったわけだ」
『どうりで』といったように頷くが、その様子に嘲笑の色はなかった。
笠村はため息を吐くと面倒くさそうに、けれど慣れた様子でハンガーラックを指さす。
「着物と帯はここから好きなの選んで、羽織は……欲しければ取って。色は紺とか焦げ茶が無難、帯は着物に近い色味で。それと羽織を着るなら着物はそれより少し明るい方がいい。」
巾着は着付けの後に選ぶ、髪のセットは別の人が行う、返却は18時までに……と、カウンターでの高圧的な雰囲気が嘘のように大人しい。
それに口調は淡々としているが、指示は丁寧で明快だ。
「じゃあ、あとは更衣室で着付けをしてもらって。うちの叔母さんがやってくれるから」
そうして笠村……いや笠村さんはカウンターへ戻っていく。
「あの、笠村さん」
「なに?」
……犬井さんへの件はそれとして、実はそこまで悪い人ではないのだろうか?
「ご丁寧にありがとうございます」
「いいよ、別に。お客さまだし」
「さっきのことは根には持ってますけど」
「それは悪かったって……」
照れ臭そうに頬を搔くと、「じゃあ」と笠村さんは背を向ける。
淡いグレーの着物と焦げ茶の羽織を抱え、少し釈然としない気分のまま僕は更衣室に入った。




