第37話 清水坂、腰の細さとグータッチ
京都駅から東福寺で乗り換えて、計15分。僕らは清水五条駅から地上へ上がる。
「ここから20分くらい歩くけど、大丈夫?」
本当はバスを使えばもう少し近くまで行けたが……これまでに4回もバスを目の前で逃している。バスはもう信じない。
「うん! 体力なら自信あるもん!」
いつもは歩くのが速い犬井さんが、新しい靴で歩き慣れないのか僅かにフラつきながらも後をついてくる。
次から次へと車が行きかう中、彼女は右へ左へと首を動かして景色を目に焼き付けていた。
「京都って瓦の家がたくさんある渋い感じだと思ってたけど、ここは全然ないんだね、オシャレだけど!」
「そうだね」
「百瀬くんは中学生のとき、ここ歩いた?」
「どうだろう。行きはバスだったけど、その後の自由時間で歩いてるかも」
銀行や青果店、着物店を過ぎていくと瓦屋根の割合は僅かに増えていき、奥に見える山の青い木々の色の違いが見えてくる。
「もう少し歩いたら道を曲がる……って」
気が付けば隣におらず、振り返ると少し遅れて犬井さんが駆け足でやってきた。
「ごめん! ちょっと待ってね!」
いくら歩いても余裕そうにしている犬井さんの息は、僅かに上がっていた。
……意識できてなかった。ヒールがある靴は踵が上がっている分、歩きにくいんだ。
「……その、ゆっくり歩こうか――」
「ちょっ、わっ――」
あと一歩の時、タイルの欠けにつまずき、犬井さんの体は前のめりに――
「ちょっ、危ない!」
――何とか間に合い、彼女を受け止められた。
……抱き締める形で。
「あっ、あ、あぁ……」
腕の中で、彼女の体がビクッと小さく跳ねたのが分かった。
「あ、あの……ありがと、ね……」
彼女の荒れた息遣いが衣擦れの音と、肩の上下を通して伝わってくる。
「ご、ごめんね! その、歩き方に慣れなくて……でも大丈夫! すぐ慣れるから!」
ワンピースの薄い生地を通り抜けて、背中に回った腕から彼女の少し熱い体温が直接流れ込んでくるような気がした。
「それが危ないんだよ……足首とか、捻ってない?」
「うっ、うん。大丈夫……だよ」
「よかった」
そうして寄りかかったままの犬井さんを起こそうと、彼女の腰に軽く左腕を当て――
「どどっ、どうしたの?」
――細い。
「な、なんでもないッ」
思わず声が裏返ったそばから、彼女の甘い香りが鼻孔をくすぐる。
腕が止まってしまっている……まるでベタベタ触ろうとしているみたいじゃないか。
「だっ、大丈夫だから……」
彼女を起こして、腕を離した後も、生々しい感触が離れない。
――カーディガンとワンピースのフワフワとした生地が潰れて、彼女の緩やかなカーブが腕にピッタリと合った。
不安なほど細いのに、それでいて柔らかくて、温かくて。
その感触が女の子らしいというか……もう訳が分からない。
「……百瀬くん顔真っ赤だけど、本当に大丈夫?」
……さっきは脚を見て、今度は腰。もう言い逃れができない。
彼女は純粋で、優しくしてくれるというのに。変な事なんて思ってはいけないのに……
それに付け込む変態だ、僕は。彼女の善意を、不純な劣情で……最低だ。
「……死にたい」
「ダメダメダメっ!! どうしたの!? 死なないって言ったじゃん!?」
◇
駅から道を10分近く真っすぐに歩き続けた末、分かれ道に差し掛かる。
「ここを……左だな」
スマホの地図の案内を頼りに横断歩道へ進んでいく。
赤信号で立ち止まる中、進む先へ目を向ける。そこは登り坂だった。
僕はまだまだ歩けるが……犬井さんはこのまま歩けるのだろうか。
「犬井さんは疲れてない? そろそろどこかで休むか?」
「ううん、大丈夫! ちょっと慣れてきたし!」
「……そっか、ならいいのだけど」
ありがとね、と犬井さんは笑うが、それに僕の心配は根拠のないままかえって増す。
信号が青に変わると僕らは歩き出し、そしてそのまま坂に差し掛かる。
大したことないと思っていた傾斜は、いざ対面すると想像以上に角度があり、曲がり角の向こうはさらに急になっていた。
犬井さんの靴は踵が上がっている分、登り坂では足が水平になって登りやすいのだろうか? だが下り坂は?
そもそも、ここから先は道路脇を歩くことになりそうだが、彼女は足を捻ったりはしないだろうか?
噴き出してくる不安から僕のペースは少しずつ遅くなり、気が付くと犬井さんが僕の半歩前を歩いていた。
地図を見て案内する立場だというのに、彼女が先導するのは変な話だ。
ペースを少し上げよう、そう思い――
「もしかして百瀬くん……歩くペース、合わせてくれてるの?」
横に並んだ時、犬井さんはふと僕を見た。
「もしかして私、遅かったかな?」
「……そうじゃないよ」
「もう歩くのはバッチリだから、心配しないで!」
犬井さんは微笑んで言うと、足を速めた僕に並ぶ。
隣を歩く彼女の息は通りを歩いていた時よりもハッハッと少し荒くなって、時々痛そうな声を押し殺しているようで、無理をしているのが明らかだ。
「……やっぱり、ゆっくり歩こう」
思わず口から飛び出す。
「本当に大丈夫だよ!」
「違う、その……」
ここから何を言えばいいかが分からない。
このまま心配を口にしたって、きっと余計彼女に気を遣わせるだけだ。
もっと、自分の都合で――
「……一緒にゆっくり歩きたいなって、ダメかな」
なんとか絞り出した続きに犬井さんの足が止まる。
小恥ずかしさで俯いていた顔を恐る恐る上げると、前で立つ彼女は目を見開き、口を半開きにして固まっていた。
「……うん、いいよ」
答えを聞いて、僕らはまた足を動かす。
清水寺への道だというのに、地元の人と旅行者が数名と人通りはかなり落ち着いている。
太陽は頭の真上まで昇って、首がひんやりとする程度の気温は冬の終わりを感じる。
京小物の店やカフェ、レンタルの着物店をゆったりと過ぎていく。
朝はもみじ饅頭で誤魔化したが、もう1時だというのにまだ昼食を食べていない。帰りはここらの店で食べようか。
あれこれ考え事をしていても、いつもより遅いペースで歩くのは何だかモヤモヤとする。
けれど、犬井さんは落ち着いて歩けているようだ。
なら今はこれもいい、そんな気がする――
「百瀬くん、時々……ちょっと恥ずかしいこと言うよね」
「……うるさいな」
――勘違いだったかもしれない。
「ねぇ! せっかくなら手も繋ぐ?」
犬井さんはニヤリと得意になって右手を差し出す。
「それは流石に……」
「恥ずかしがらないでもいいのに! 何にも言われないって、ほら!」
そう言って犬井さんは僕の左手に近づける。
繋げば犬井さんは転びづらいかもしれない。けれど、手を繋ぐのは流石に刺激が強すぎる。
「嫌だ」
やんわりと言おうとした言葉が、間を開けずに飛び出す。
……しまった。これでは、ただの拒絶だ。
犬井さんの手はピタリと止まった。
「あはは……そっか」
犬井さんは静かに笑うと、手を引っ込めた。
変わらず僕らは足を進める。
急な坂も終わりが見えてきて、一帯にソフトクリーム屋やお茶屋さんが現れ、観光地らしい賑わいへ変わっていく。
けれど、僕らの間での会話はバッサリと途絶えてしまっている。
隣で歩く犬井さんが傷ついているのが明らかで、僕が傷つけたのはさらに明らか。
こんなことなら手を繋げば……それはハードルが高過ぎるが、それにしてももっと言葉を選べばよかった。
引き返せないもどかしさ、どうしようもない罪悪感。気が付けば僕の目頭はじわりと熱を持つ。
「今は恥ずかしいから……」
右のこぶしをギュッと握り、恐る恐る犬井さんへ出す。
「その、グータッチで我慢して」
僕の手を見て彼女はキョトンとし、目がこぶしと顔を行き来する。
それから花が咲いたように表情がパァッと明るくなり――
「うん!」
――コツン。と、小さくて少し硬い、けれど温かい感触。
「なんか、すごい相棒って感じだね」
「何だよ」
そのたった一瞬の、胸の甘く痺れるような感覚が手からずっと離れない。
「……違うのか?」
「ふふっ」
僕の顔をジッと見ると、犬井さんは意味ありげに笑った。
「内緒!」
彼女は前屈みで口にそっと指を当てて、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
……いつもはパッと話すクセに、ちょっと生意気だ。それも犬井さんらしいけど。
「清水寺、あとちょっとかな?」
こちらの心境をよそに犬井さんは調子を取り戻し、俯く僕の顔を覗き込んでニコニコと笑う。
「うん、ここを進んだら着くよ」
そうして五条坂のアスファルトの道を抜けると、道の舗装は石畳へと変わる――最後の坂、清水坂だ。
石と木と瓦の家屋が連なる、落ち着いた風情ある通りに満ちる人混みを掻き分けて僕らは進む。
「ザラザラって雰囲気、すごい京都って感じがするね!」
昨日の雨の残り香がする通りに、落ち着きなく辺りを見回す犬井さん。
「まだまだこれからだよ」
蕎麦屋、漬物、茶屋、湯豆腐、八ッ橋。どの店も店が呼び込み客は呼び込まれ、どこもかしこも静かな喧騒がある。
後で八ッ橋は家のお土産に買って行こう、それと――
「帰りにどこかの店で、抹茶ソフト食べない?」
「賛成! 大賛成!」
弾む声で答える犬井さんはコッコッと石畳の硬い音を鳴らして、僕の右に並ぶ。
隙間を縫い、掻き分ける中、周囲の人達の目が僕らに向く。
横2列で歩いてしまっているからか。それとも……
「……」
白のワンピースにピンクのカーディガン、日の光を浴びて輝く金髪と赤のリボン付きのカチューシャ。
そんな明るい容姿に、すれ違う男たちの目は彼女に釘付けになっている。
……いなくならないかという不安から、右手を開いて彼女の傍へ出す。
繋がれてもそれは困るけれど……犬井さんは餅屋や着物姿に気を取られている。
「……はは」
「どうしたの?」
自分で断ったくせに、という乾いた自嘲が出てすぐに手を戻す。
「何でもない、行こう」




