第36話 靴の新調
足を踏み入れると、ふんわりとゴムと革の匂いがした。
「いらっしゃいませ~」
京都駅に到着し、中央改札を抜けて、少し歩いた先の家電量販店の一角にある靴屋。
日曜日の昼の真っ只中で、広い店内は賑わう中、店員さんはにこやかに僕らを迎えてくれた。
「その……犬井さんは財布って大丈夫?」
「流石にそれくらいは残ってるよ! 大丈夫!」
周りに聞こえないように耳打ちをすると、犬井さんは笑って頷いた。
「じゃあ、それぞれ選ぶって感じで――」
さっきから濡れたローファーが靴下まで染みて不快で仕方がない。
早く靴を買って、靴下と一緒に履き替えたい。そんな気持ちから別れようとした時――
「百瀬くんも、一緒に選んでくれない?」
――クイ、と袖を掴まれた。
正直、冗談じゃない。
それに、僕なんかが選んだら……
「……現代芸術みたいになると思うけど」
「じゃあ私がいくつか選ぶから、その中で選んでよ」
そう言って僕を椅子に座らせると、犬井さんは近くにある靴を物色しだす。
その間、見渡せる範囲で僕はスニーカーに目星を付ける、早く履き替えるために。
……少し奥にある、黒のスニーカーはどうだろう。汚れが目立たないし、歩きやすそうだ。
いや、そんな決め方でいいのだろうか? もう少し考えるべきではないのか?
◇
「お待たせ、百瀬くん! 来て!」
10分も掛からずに犬井さんは目をキラキラさせて戻ってきた。
そのまま犬井さんは手招きをし、僕は犬井さんが進む後をついていく。
「大分早いけど、大丈夫なのか?」
「えっ、そう?」
彼女は一瞬目を丸くしたが、褒められたと思ったのか照れくさそうに笑った。
「なんかこう、ビビッときたのを選んだんだ~ で! それで!」
目的の場所に着くと、ニコニコして待っていた店員さんが箱を抱えていた。
「2つあってね! 1つ目がこれ!」
試着用の椅子に座り、犬井さんはバッグから予備の乾いた靴下に履き替える。
それから店員さんが渡したのは、くるぶしまで覆う淡いピンクのスニーカーだった。
「どう? 他の服とも合わせやすいし、歩きやすそうだし、可愛くない?」
そう言って犬井さんは腰に手を当てて、突き出した右のつま先を上げたり、踵で床をコツコツ叩いて見せる。
細い足首を動かす様子は、いつもより少しアクティブな犬井さんという印象だ。
「うん、似合ってるよ」
「やった!」
嬉しそうにするのも束の間、犬井さんはすぐに脱ぐと店員さんは次を渡した。
「もう一個がこれ! メリー……なんでしたっけ?」
「メリージェーンですね!」
訂正されながら履いたのは、低いヒールが入り、露わになった足の甲をストラップで留めた、明るい茶色の革の靴だった。
「ヒールが入ってるのは初めてなんだけど、こっちも他の服に合いそうでさ! すごいオシャレじゃない?」
そう言って犬井さんはスニーカーの時と同じことをして見せる。
「でも上品すぎないかな……私なんかには」
ヒールが入っていることに慣れないのか、バランスを取りながら足を上げる動作はぎこちない。
そうして足を上げたときにふとワンピースの裾がふわりと浮き――
「そんなことないよ。上品で……似合ってるよ、すごく」
「えっ……」
――明るい茶色の靴が、白く、しなやかな足首とふくらはぎを際立たせていた。
まるでその靴は、彼女の脚のために存在したのではないか。そう思えるほど自然な姿に見えた。
「……なんか今の、すごい熱がこもってたね?」
コツコツと鳴らして近づいた犬井さんの頬は、すこし赤らんでいた。
心なしか、その表情にはからかいの色があるように感じた。
「……そんなことない」
人の脚を見る趣味なんて無いし、笑われるのは心外だが……弁明する気が起きない。
「じゃあ、これにしよっかな」
店員さんから箱を貰うと、犬井さんは靴を元に戻して膝の上に置いた。
「じゃあ、次は百瀬くんだね!」
◇
「お買い上げ、ありがとうございました~」
新しい靴を履いたまま会計をしてもらい、濡れたものを詰める袋だけ貰って僕らは店を出た。
「本当にありがとね。最初に百瀬くんに貰った分でもお会計できたのに、買ってもらっちゃって……」
「そんなに言わなくていいよ。似合ってたから……プレゼントってことで」
スカートの浮いたほんの一瞬ではあるが、脚を見てしまったことへのむず痒い罪悪感が押し寄せて、言葉に詰まる。
犬井さんが買った靴は割引が効いて4000円程度で、僕が選んだものと大して変わらない額だった。
「でも、百瀬くんの大切なお金だよ。私が好き勝手使っちゃダメじゃん」
そう口にする犬井さんは、少し気まずそうに笑った。
よく考えれば、犬井さんが自分のことでお金を使っているところを見たことがない。
最後に見たのは、瓦そばを代わりに頼んでもらった時くらいだ。
……僕は彼女に、無理な我慢を無意識に強いているのだろうか?
「……その、全く我慢しなくていいんだからな? 犬井さんも楽しめないと意味が無いから」
「我慢なんて全然してないよ……むしろ、今までずっと贅沢してきたくらいだよ」
そう言って犬井さんは叱られた子供のような表情を浮かべた。
「ドンヨリしちゃうし、やめよっか。この話?」
「……そうだね」
僕はまだ彼女に引け目を感じさせているのか、そう思うとズキズキと頭が痛む。
……でも、今は考えないようにしよう。楽しい京都旅行だ、切り替えないと。
「でもさぁ、百瀬くん。自分の靴、もうちょっと選んでも良かったんじゃない?」
犬井さんはペチペチと頬を叩くと、そう言って流し目を送ってきた。
「……いや、決めるのが速い分に越したことはないだろ」
そう言うと彼女は膨れっ面で僕の腕を軽く小突く。
「私も百瀬くんの選びたかったの!」
「それは悪かったって」
というのも、僕の靴は2分で決まった。犬井さんが最初に選んだものに似た、灰色のハイカットスニーカー。
近くにあったし、安く、動きやすそうで、何よりの決め手は撥水だったからだ。もう濡れるのは御免だ。
「ウソ! 絶対思ってないじゃん!」
「ははっ……実はそう」
「もぉーッ!」
ぶぅ、とコミカルに膨れる様子に思わず笑うと、犬井さんは肘でまた小突いてくる。
――もし僕に恋人か妹がいたら、こんな感じに愉快に過ごす未来もあったのだろうか。
幼いというか、健気な様子の彼女を見て『僕がしっかりしないと』なんて頭を過ぎった時、犬井さんは突然閃いたように足を止めた。
「プレゼントで思い出したんだけど、そういえばさ! 百瀬くんの誕生日って、4月3日?」
……彼女は急に鋭くなる時があるが、これは一体どういう仕掛けなのだろう?
「……そうだけど、何で分かった?」
自慢じゃないが、僕の誕生日は遅生まれの中で最速だ。
名前が紛らわしいが、つまりは今までの人生で僕より早く生まれた同級生に会ったことがない……よく考えたら、自慢にしている節があるな。
「教えてくれたスマホのパスワードが0403で誕生日っぽいし、そうかな~って」
「パスワードって教えたっけ?」
「教えてくれたじゃん! 昨日、駅で雨宿りしてた時!」
全く覚えていない。あの時は目が回って、早く一人になって死ぬことだけ考えていた。
「そこでね、クイズ!」
サッと目の前に回り込んだ犬井さんの声は、悪戯を閃いた子供のように弾んでいた。
「私の誕生日はいつでしょう?」
「は?」
クイズというからには、今の僕には解く方法があるはずだ。
だが、これまでの出来事にそのヒントがあった訳では無い。全くもって唐突だ。
「……ヒント」
「ヒント1つめ! 百瀬と同じ4月です!」
ニヤニヤ笑う犬井さんは後ろ歩きをして、僕の前を先導する。
4月……予想以上に早く生まれてるな。
ただ、ヒントのおかげで365択から減らせたとは言え、まだ31択もある。
よく考えろ、何の脈絡も無しにクイズを出すはずがない。
何か1択に絞る方法や、必然性があるはず――そうか!
「もしかして……同じ誕生日?」
「ブーッ! 違います! でも惜しい!」
腕でバツを作り、楽しそうに口をとがらせる。
「なんだよ、もう」
「じゃあ、ヒント2つめ――」
そうして息を吸って溜めを作る犬井さんは楽しそうで――今までに見たことがないくらい憎らしかった。
「百瀬くんより、お姉ちゃんですっ!」
◇
犬井さんはウキウキしながらカードキーで扉を開けると、待ちきれずに飛び出して行った。
「すごい! お部屋すごい広い! ソファー! ベッドすごい大きい! 景色もきれい! それに!」
あまりの興奮で語彙が貧相な犬井さんは、靴を脱ぐとベッド上に乗り――
「すごい! ベッドふかふか!」
「おい! ジャンプはやめろ! 恥ずかしいから!」
――こんな……こんなのが、年上?
見下す意図はない……無いけれど。
「ちょっとだけ! あとちょっとだけでいいから!」
僕の方が……年下?
「……もう一度、誕生日を聞いても?」
「だから、4月の2日! もう5回目だよ!?」
ホテルのフロントで証明書から誕生日は確認したし、道中で学生証だって見せてもらった。
確かに4月2日とあったが……いまだに信じられない。
「もう! そんなショック受けないでよ~」
ベッドの縁で座る僕の横に来ると、ポンと頭に手を置いてきた。
「別にいいじゃん、1日くらい」
「……そうだけどさ」
「なんなら、私が年下ってことでもいいからさ、ね?」
慰めているつもりなのだろうか……優しく笑みにより深く胸を抉られる。
……『年上』だとか『しっかりしよう』だなんて、もう考えないようにしよう。
犬井さんはモチモチと枕の柔らかさを確かめる中、僕は変な気疲れから仰向けなって、天井を見つめる。
両手を広げても余るダブルベッド、新品のようなシミ一つない白の天井。
11階、京都タワーと駅前を見下ろせるツインベッドのセミスイートルームだ。
正直、とんでもなく奮発した。
今までの民泊は2人1部屋でギリギリ1万円しないくらいだったが、ここはアーリーチェックイン含めて大体7倍だ。
「昼は観光しながら外で食べ歩きをして、夕飯はここのラウンジで食べようか」
高いだけあって、特典でラウンジのビュッフェとプールは無料だ。
「うん!」
「じゃあ、少ししたら行こうか」
体を起こして、電車内でまとめたメモを確認する。
犬井さんは僕の横で新しい靴を履いたり、手で持って色々な角度から見て柔らかい笑みを浮かべていた。
「じゃあ、最初は――」
「――清水寺、だよね?」
床に降ろした犬井さんは肩をコツンと僕の腕に当てた。
「なんで分かった?」
「えへへ、京都っていったらそこじゃん! 本にもでっかく写真があったし!」




