第33話 シトラスの香り
「こんな……ものか?」
コンビニから帰ったのは4時。初心者向けのセットの仕方の動画を見ながら、脱衣所の鏡と格闘して数時間が経った。気が付けば、手に安っぽいシトラスの香りが染みついている。
最初は上手くいったが気になるところがあり、やり直したら付けすぎてシャワーで洗い落としたり、何度も繰り返すうちに時間は過ぎていく。
旅行の計画は……立てられそうにない。
◇
「ん……んぅ」
朝日が昇った快晴の7時半。セットを終えて部屋に戻り、毛布を畳んでいると、犬井さんが目を擦って布団から起き上がる。
「おはよう」
「おはよ……ももせく……!?」
開ききらない目で歩いていた彼女は跳ね上がり、一気に覚醒した。
「か、髪の毛、セットしたんだ……」
……いい反応だ、なんて思ってしまうのは自惚れなのだろうか。
「……いい匂い」
息が止まる。
彼女は鼻先が当たりそうなくらい近づくとスン、と小さく鼻を動かしてまじまじと見つめる……変なところはない、はずだ。
胸の鼓動は緩やかに、だが確かに早まっていく。
「似合ってない、かな?」
「そんなことない! 似合ってるよ! 目が見えてたほうがいい! でも、その……」
前髪をそっと指で梳いて、犬井さんは不思議そうに口を開く。
「きれいにできてるけど、セット……慣れてるの?」
「初めて。頑張ってみた」
「……朝早くから、ずっと?」
早朝の4時から3時間ぶっ続け、途中で洗い落とすためのシャワー2回。仮眠どころか計画すら全く立てられていない。
「……うん」
「……そっか」
手で覆った頬をほんのりと赤らませて、どこか恥ずかしそうに彼女は笑う。
「私も……頑張らないとね?」
そう言って彼女は自分の布団へ向かい、畳み始めると――
「今日って、京都だよね?」
「う、うん」
観光スポットどころか乗り換えすらまだ決められていない。
「百瀬くん、先に降りててもらえる?」
冷や汗が出るなか、犬井さんはそれに気付かないのか――そのフリなのか。
「私も……準備するから」
誤魔化すように、彼女は微笑む。
「……分かった」
時間ができて良かったと安心すべきなのか、それとも悔やむべきなのか。よく分からない気分になる。
「あっ、もちろん急ぎはするからね!」
「いいよ。ゆっくり、焦らずにね」
部屋の隅に寄せた荷物をまとめて、僕は出口の襖に手を掛ける。
部屋を出て階段を下り、2階の踊り場の椅子に腰を下ろして『京阪神・名古屋』の雑誌を開く。
清水寺と銀閣寺は方面が同じだから決まりか? いや、金閣寺に嵐山だって捨てがたい。
時間はどうするか。明日の昼過ぎまで回るか? それともいっそ夜も回るか?
……いや、京都の途中で神戸に立ち寄るのもいいかもしれない、グルメ的に。
考えれば考えるほど、混乱していく。
けれど、その過程が今は少し楽しい。
「……電車で、犬井さんに聞きながら進めるか」
こうなったのは、ちゃんとした観光が初めてだからか、それとも――荷が少し下りたからだろうか?
◇
『準備するから』、それを聞いてどれくらい経っただろう。20分か、30分か? はたまた5分なのかもしれない。
雨で濡れた靴はまだ湿っていて、少し気持ち悪い。頭の上の蛍光灯の微かな音が聞こえる。壁に掛かった時計の1分さえ途方もない長さに感じる。
一人でじっと待っていると、五感が研ぎ澄まされるのはどうしてだろう。
スタ、スタという足音が、緩やかなリズムで階上から1段1段と迫ってくるのが聞こえる。
間違いない、犬井さんだ――
「……は?」
……人違いだった、他にも宿泊者がいたのか。
「……すみません」
「なによ?」
――カバンを抱えた癖毛のおばあさんは怪訝そうに僕を睨むと、重そうに足を上げて通り過ぎていく。
こっちが勝手に間違えたのが悪いが、なんで歩くテンポだけはあんな軽やかなんだ。期待させないでくれ、本当に。
……寝たほうがいいのかもしれない。一瞬でも本気で疑うような僕は、僕ではない。
おばあさんの後ろ姿が見えなくなると、突然バタンと扉の閉まる音がし、パタパタという駆け足が転げ落ちそうな勢いでこちらに近づいてくる――
「おまたせっ! 待った!?」
――息を切らして姿を見せたのは、紛れもない彼女。
「……どう、かな?」
クルリと回って見せる彼女の息が上がってほんのり赤らんだ顔が、さらに赤みを帯びる。
「……」
肩の大きく出た、ひらりとした白いワンピース……というより、もはやドレス。
耳の後ろ、低めの位置で結ばれて、流れるように降りた黄金のツインテールが露わになった鎖骨にしなやかに垂れている。おさげ……とかいうものだろうか?
その上にピンクのカーディガンを羽織り、ふわりと舞う様子はさながら羽衣だ。
「……」
言葉を失うというのは安っぽい表現だが、今の僕は文字通りそれだ。
「お~い、百瀬くん?」
「……うん」
顔の前で手を振られ、何とか頷く。
「その……綺麗だ、な……」
「よかっ……たぁ、あはは」
犬井さんは花が咲いたような表情をしたかと思えば、急に恥ずかしそうに頬を掻いて弱々しく目を伏せる。
「その……僕、まずいこと言った?」
「えっ、ううん! そんなことない! でも……」
両手の指先を合わせてもじもじとさせて、重々しく口を開く。
「その、綺麗で……思わず買っちゃったんだけど……」
みるみるうちに目が潤み、犬井さんはギュッと拳を握って――
「本当にごめんなさい! 百瀬くんの大事なお金なのに、高いの買っちゃって!」
久々にこんな犬井さんを見た。
ただ、昨日との落差を思い出すと――
「……ふふっ」
――思わず吹き出してしまう。
「ははっ、大丈夫だよ」
「……えっ?」
こんなこと――彼女にとっては一大事なのだろうが――を気にしていたというのに、久しぶりに彼女らしさを見た気がする。
「お金は大丈夫。元々、僕がいなくなっても東京へ帰れるようにしてたつもりだったからさ」
「で、でも……」
根は真面目で優しいけれど、肝心なところが抜けている。
出会った頃はそれが面倒で嫌いだったけれど――今は認めざるを得ない。
犬井さんが好きだ、嫌いだった部分も全て。
「迷惑も掛けたし、もういなくならないから、その分は好きにしてもらっていい。それじゃダメかな?」
「……」
上目遣いで申し訳なさそうに見つめる彼女を見ると、頭を撫でてみたく――いや、それは失礼か。
「そろそろチェックアウトだし行こう。服、似合ってるよ」
「……その、百瀬くん」
ひんやりとした階段の手すりに触れたとき、犬井さんの声で振り返る。
「どうした?」
「あっ……」
彼女は指を合わせて――
「ありがとね、百瀬くん……」
――不器用に笑った。
……敵わないな、本当に。
◇
チェックアウトを済ませ、そこから歩いて数分。昨日の嵐が嘘のような晴れの下、錦帯橋のそばの商店で僕は少し時間を潰すことにして――
「どっちにするかな……」
「悩んでるけど、どうしたの?」
「家用のお土産。瓦せんべいと栗きんとん、どっちがいいかな?」
僕が聞くと、犬井さんは唸りながら2つのパッケージの間で指を動かす。
「う~ん……おせんべいじゃない? 数もあるしさ!」
「……そうだね、こっちにする」
そうして会計を済ませ、店を出ると犬井さんは錦帯橋をボーっと見つめていた。
「お待たせ、どうした?」
「あっ、百瀬くん」
「なにかあった?」
「ううん……ただね――」
彼女は目を細め、しんみりとした表情で橋を指さす。
「昨日、いろいろあったなぁ……って」
「……」
「あっ、もちろん責めてるんじゃないよ!」
そうして犬井さんはお腹の下でもじもじさせる。
「昨日があったから、百瀬くんのことを知れて、こうして一緒なわけだしさ!」
「……そうかな」
「……ねぇ、百瀬くん」
忙しく動く手が、ぴたりと止まる。
「うん?」
「百瀬くんって……言い方悪いけど、今まで辛い思い出ばっかりみたいじゃん」
いつもなら頷くところだが、昨日と今日のことで、すぐには頷けなかった。
「まぁ……そうかもね」
「だから、だからね?」
犬井さんは大きく一歩を踏み、文字通り僕の目と鼻の先に迫る。
「ちょ……」
「これからの旅行はさ、いい思い出をたくさん作らない? 一緒に、今までの分も取り戻せるくらいの!」
僕がたじろいでも、目を輝かせる彼女はその分を詰め、間髪入れず――
「どうかな……私、頑張るからさ――
――辛かったぶん……一緒に、幸せになろ?
…………なんて、あはは。恥ずかし――」
「いいね、それ」
「えっ?」
こんな臭いセリフを聞いたのはいつぶりだろう。
僕も、それに応じたい。
そのためには、もう必要なくなったものがある。
「ちぇっ……一個落としてたか」
「えっ、百瀬くん?」
小銭入れに隠して、今まで忘れていた薬――正確には睡眠導入剤。
「最初の思い出にさ、一緒に捨ててみないか?」
自分の手に出して差し出し、目で河の方を示す。
手元にあるのは残り5錠。半分はいくつだ?
「……いいね! ちょっと待ってね!」
そう言って彼女もがま口を開くと――
「はいっ! これで半分こしよ!」
「……持ってたのか」
――犬井さんは自慢げに残りの1錠を僕の手に出し、合わせて6錠。
それから彼女は丁度半分の3錠を取った。
「じゃあ、やるか」
そうして僕らは転落防止の柵から――
「うんっ!」
大きく肩を引いて――
「「せーのっ!」」
――振りかぶる。
赤い粒はそれぞれが不規則な回転をしながら宙に散らばって緩やかな弧を描き、音を立てて流れる錦川へ、波紋1つ生まずに沈む。
僕らは柵から身を乗り出して、赤の消えていく様をじっと見つめる。
「百瀬くんの、意外と飛ばなかったね?」
「そっちこそ、ちゃんと飛んだのは1錠だけだろ」
「え~っ、百瀬くんは全部そうじゃん!」
「お前ら! ゴミを河に捨てるな!」
犬の散歩でそばに通りかかったおじさんは声を荒げるが――
「プ、プハッ……」
「おい、笑うな……くはッ……」
――堪えられない。決して嘲っている訳じゃない。ただただ、理由も分からずに笑ってしまう。
「「……ごめんなさい」」
僕らは顔を見合わせ、すぐに向き直る。肩の震えを押さえながら、何とか真剣な表情を作る。
「……何なんだ、お前たちは」
傍から見れば僕らはきっと不審者だ。ゴミを捨てて馬鹿笑いするろくでなしだ。
ただ、今はそれが勲章か何かに思える……きっと熱で頭がやられているんだ。
「……行こう。時間を食い過ぎたから、駅までちょっと急ぐぞ」
今、この瞬間だけは誇ろう。久しぶりに、気分が凄くいいから。
「うんっ!」
……薬は家に少し残っているが、帰ったら捨てよう。
後悔と反省は、後でいくらだってする。今は期待だけだ。




