第30話 起きたら病院だった
6月7日、大雨だった。
「ただいまー」
玄関でそう言っても返事がないのはいつものことだった。
「ただいまー!」
「おかえり。悠くん……」
この頃の母さんはいつもフラフラとして、リビングのソファーにグッタリと横になっていた。特に雨の日はもっと。
「洗濯物たたむね!」
いつも辛そうにしていたから、僕は毎日早く帰って家事をしてた。
『ありがとう』と言われたくて。
「ごめんね……ママ、何にもできなくて……」
母さんが口にしたのは、いつも謝罪だった。
「ううん!」
この頃はよく分かっていなかった、『ありがとう』と『ごめん』の違いを。
感謝は、余裕の無いときに口にするのは困難だということを。
◇
畳み終わって、掃除機をかけて、風呂掃除をして、あとは父さんが帰ってきて夕飯になるのを待つだけ。
できることが無くなった僕は母さんの隣に座って、テレビをつけた。
テレビに夢中になっている中、母さんはもぞもぞと体を動かしていた。
寝返りを打っているんだと思った、うまく出来ずに諦めるのをセットで――
「……悠くん」
「えっ?」
母さんは体を起こして、僕の隣で背もたれに腰を預けていた。
「ママ、うまく寝れないからさ……」
こんなこと、ずっと無かったから驚いた。
元気になったかもしれない。役に立てる。そう思って背筋を伸ばした。
「お薬……取ってきて貰えない?」
なんとかニコッと笑っていた。それで僕は、はしゃいでいたんだ。
薬の束は、いつも父さんが戸棚の一番上に置いていた。
「うん! 分かった!」
……その理由が分かるほど、当時の僕は賢くなかった。
万が一でも僕が悪戯をしないように――
「取れたよ! お母さん!」
「……ありがとね、悠くん」
――母さんが、勝手に飲まないように。
「今、お水もってくるね!」
『ありがとう』たった5文字の言葉が、すごく嬉しかった。
足場にした椅子を片付けて、冷蔵庫の麦茶を淹れて渡すと、母さんは震える手で僕にシートを渡した。
「開かないから……あけてくれる?」
そう言われて薬を押すとプツリと乾いた音がして、赤い薬はいともたやすく飛び出した。
「……ありがとう……強くなったんだね、悠くん」
細かくは覚えていない。でも、笑っていたのは覚えている。
愚かにも、本当にどうしようもない僕は胸を張ってしまった。
「いくつ飲むの?」
一緒になっていた用法と用量を僕が読めていたら、変わっていたかもしれない。
「……全……4つかな」
全部、そう言いかけたのは当時の僕でも分かった。けれど、言い間違いだと無視してしまった。
そうして薬を渡すと、母さんの目線は僕と薬の間を行き来した。
そうして、優しい目になると――
「ごめんね」
――抱きしめられた時の爽やかなグレープフルーツの匂いは、今でも思い出せる。
「じゃあ、ママは寝るね」
そう言って母さんは麦茶で飲み込むと、力なく横になった。
急いで救急車を呼ぶ一大事だというのに、僕は褒められたくて部屋で算数のプリントを始めた。
助けられたという安心と嬉しさ――それが僕の胸を満たしていた。
とどめを刺したというのに。
◇
8時過ぎ、玄関から鍵の開く音がした時、リビングは死んだみたいに静かだった。外の雨が、よく響いた。
「おかえりなさい」
「ごめん、電車が止まっ……」
父さんは固まった。何を見てかは知らない。僕か、母さんか、薬のゴミか、全て。
「お母さん、寝て――」
「起きろ! おい、起きろよッ!」
父さんは必死に母さんの体を揺らして、鼻と口に手を当てて、手首に触れた。
「お母さん寝るって――」
「黙れッ!」
突然のことで訳が分からなかった。
頬を叩いて、人工呼吸をして、胸を押した。
それの意味は知っていた。だから、取り返しのつかないことをしたんだとようやく分かった。
「悠! いつからだ母さんは!?」
鬼気迫る表情。
「帰って、すぐ……」
みるみると青ざめていった。
「119だ! 母さんの胸を押しとけッ!」
そう言って僕を跳ね飛ばす勢いで受話器を手にした。
言われるがままに僕は母さんの胸を押した。
柔らかい、冷たい、動かない胸を……何度も、何度も、何度も。
マッサージの反動で、ソファーの下から静かに缶が転がった――度数の高い果実酒だった。
「……もういい」
精気の抜けた声。
「でも……お母さんが……」
「いいんだ、もう」
「でっ、でも!」
「止めろと言ってるだろッ!!!」
雨が、本当によく聞こえる日だった。
手遅れだと思ったのか、それとも伝え終わったのか。奥で声がする受話器のケーブルは、ダラリと垂れて揺れていた。
そうして歩いてくる父さんに踏まれた缶は、嫌な音を立てて潰れた。
こぼれた汁からは、母さんの匂いがした。
「なぁ、悠」
マッサージをやめると、いるべき場所が分からなくなった。
母さんの横で正座をしていた僕に、父さんは無表情のまま薬のシートの束と、空になった残骸を見せた。
「母さんが薬を取ったところは見たか?」
僕が浴びたのは落ち着いて、ひどく冷たい口調だった。
「……」
聞いたことのない声で、思わずすくみ上がった。顔なんて、見れる訳が無かった。
「なぁ? ゆ――」
「……僕が、取りました」
「……は?」
窓の外の雨が、部屋にどうしようもなく響いた。
「何を――」
「お母さんが……取って、って」
どんな顔をしていたかは、分からない。
「お前……お前ッ……」
「お母さんが――」
顔をあげた直後、父さんから飛んできたのは怒声ではなかった。
――ゴンッという鈍い音と、こめかみに走る重い痛み、激しい眩暈、床に頭を打ったのは同時だった。
あとは何も覚えてない。気がつくと病院にいた。瞬間移動だと本気で思った……全く笑い話じゃないけど。




