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第30話 起きたら病院だった

 6月7日、大雨だった。


「ただいまー」


 玄関でそう言っても返事がないのはいつものことだった。


「ただいまー!」

「おかえり。悠くん……」


 この頃の母さんはいつもフラフラとして、リビングのソファーにグッタリと横になっていた。特に雨の日はもっと。


「洗濯物たたむね!」


 いつも辛そうにしていたから、僕は毎日早く帰って家事をしてた。

 『ありがとう』と言われたくて。


「ごめんね……ママ、何にもできなくて……」


 母さんが口にしたのは、いつも謝罪だった。


「ううん!」


 この頃はよく分かっていなかった、『ありがとう』と『ごめん』の違いを。

 感謝は、余裕の無いときに口にするのは困難だということを。





 畳み終わって、掃除機をかけて、風呂掃除をして、あとは父さんが帰ってきて夕飯になるのを待つだけ。

 できることが無くなった僕は母さんの隣に座って、テレビをつけた。


 テレビに夢中になっている中、母さんはもぞもぞと体を動かしていた。

 寝返りを打っているんだと思った、うまく出来ずに諦めるのをセットで――


「……悠くん」

「えっ?」


 母さんは体を起こして、僕の隣で背もたれに腰を預けていた。


「ママ、うまく寝れないからさ……」


 こんなこと、ずっと無かったから驚いた。

 元気になったかもしれない。役に立てる。そう思って背筋を伸ばした。


「お薬……取ってきて貰えない?」


 なんとかニコッと笑っていた。それで僕は、はしゃいでいたんだ。


 薬の束は、いつも父さんが戸棚の一番上に置いていた。



「うん! 分かった!」



……その理由が分かるほど、当時の僕は賢くなかった。



 万が一でも僕が悪戯をしないように――



「取れたよ! お母さん!」

「……ありがとね、悠くん」



――母さんが、勝手に飲まないように。



「今、お水もってくるね!」


 『ありがとう』たった5文字の言葉が、すごく嬉しかった。

 足場にした椅子を片付けて、冷蔵庫の麦茶を淹れて渡すと、母さんは震える手で僕にシートを渡した。



「開かないから……あけてくれる?」



 そう言われて薬を押すとプツリと乾いた音がして、赤い薬はいともたやすく飛び出した。



「……ありがとう……強くなったんだね、悠くん」


 細かくは覚えていない。でも、笑っていたのは覚えている。

 愚かにも、本当にどうしようもない僕は胸を張ってしまった。


「いくつ飲むの?」


 一緒になっていた用法と用量を僕が読めていたら、変わっていたかもしれない。


「……全……4つかな」


 全部、そう言いかけたのは当時の僕でも分かった。けれど、言い間違いだと無視してしまった。


 そうして薬を渡すと、母さんの目線は僕と薬の間を行き来した。


 そうして、優しい目になると――


「ごめんね」



――抱きしめられた時の爽やかなグレープフルーツの匂いは、今でも思い出せる。



「じゃあ、ママは寝るね」



 そう言って母さんは麦茶で飲み込むと、力なく横になった。





 急いで救急車を呼ぶ一大事だというのに、僕は褒められたくて部屋で算数のプリントを始めた。



 助けられたという安心と嬉しさ――それが僕の胸を満たしていた。




 とどめを刺したというのに。





 8時過ぎ、玄関から鍵の開く音がした時、リビングは死んだみたいに静かだった。外の雨が、よく響いた。


「おかえりなさい」

「ごめん、電車が止まっ……」


 父さんは固まった。何を見てかは知らない。僕か、母さんか、薬のゴミか、全て。


「お母さん、寝て――」

「起きろ! おい、起きろよッ!」


 父さんは必死に母さんの体を揺らして、鼻と口に手を当てて、手首に触れた。


「お母さん寝るって――」

「黙れッ!」


 突然のことで訳が分からなかった。

 頬を叩いて、人工呼吸をして、胸を押した。

 それの意味は知っていた。だから、取り返しのつかないことをしたんだとようやく分かった。


「悠! いつからだ母さんは!?」


 鬼気迫る表情。


「帰って、すぐ……」


 みるみると青ざめていった。


「119だ! 母さんの胸を押しとけッ!」


 そう言って僕を跳ね飛ばす勢いで受話器を手にした。


 言われるがままに僕は母さんの胸を押した。


 柔らかい、冷たい、動かない胸を……何度も、何度も、何度も。



 マッサージの反動で、ソファーの下から静かに缶が転がった――度数の高い果実酒だった。



「……もういい」


 精気の抜けた声。


「でも……お母さんが……」

「いいんだ、もう」

「でっ、でも!」



「止めろと言ってるだろッ!!!」


 雨が、本当によく聞こえる日だった。


 手遅れだと思ったのか、それとも伝え終わったのか。奥で声がする受話器のケーブルは、ダラリと垂れて揺れていた。


 そうして歩いてくる父さんに踏まれた缶は、嫌な音を立てて潰れた。


 こぼれた汁からは、母さんの匂いがした。



「なぁ、悠」


 マッサージをやめると、いるべき場所が分からなくなった。


 母さんの横で正座をしていた僕に、父さんは無表情のまま薬のシートの束と、空になった残骸を見せた。


「母さんが薬を取ったところは見たか?」


 僕が浴びたのは落ち着いて、ひどく冷たい口調だった。


「……」


 聞いたことのない声で、思わずすくみ上がった。顔なんて、見れる訳が無かった。


「なぁ? ゆ――」


「……僕が、取りました」



「……は?」



 窓の外の雨が、部屋にどうしようもなく響いた。


「何を――」


「お母さんが……取って、って」


 どんな顔をしていたかは、分からない。


「お前……お前ッ……」

「お母さんが――」


 顔をあげた直後、父さんから飛んできたのは怒声ではなかった。




――ゴンッという鈍い音と、こめかみに走る重い痛み、激しい眩暈、床に頭を打ったのは同時だった。




 あとは何も覚えてない。気がつくと病院にいた。瞬間移動だと本気で思った……全く笑い話じゃないけど。

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