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第26話 P.M.15:00

 暗緑色の山と色褪せた家々。銀の空、灰の濁流。


 降り続ける雨で服が濡れて、体に張り付いて急速に体温を奪われて重くなっていく。


……どうして僕は飛び込めずにいるんだ。どうして竦む足も震える手も、橋を捉えているんだ。


 僕は人殺しで、死ぬべきで、死にたいんだ。のうのうと生きていいはずがない、それなのに――


――どうして僕は橋のたもとばかり見ているんだ。


 分かっている。分かっているのに、あのピンクのフリースの幻でも見えないかと、愚かにも期待してしまっている自分がいる。


 けれど、犬井さんに黙って抜け出してきているんだ。30分は歩いた。彼女は来るはずがない。


 訳が分からない。どうして僕は怖気づいている? 高1から考えて来ただろ。


……戻ろうなんて今更どんな顔していけばいいんだ。


 飛ぼう。僕に戻る場所はない。もう辛いのも、気持ち悪いのもたくさんだ――


「――くん!」


 橋の向こうから風で消えかかった声がする。

 心なしか橋が揺れている。彼女の声だ。

 眩暈も頭痛もするのに、ついに幻聴まで……熱も佳境に入ったか――


「――瀬くん!」


 まただ。ギシギシと、橋の揺れが強くなるほど幻聴の区別が付かなくなってくる。

 雨音に混じって踏板を踏み割るような、泥水を跳ね上げるような音が聞こえる。


……気持ち悪い話だが、心の奥底では期待しているのかもしれない。来てくれることを。


 早く、まだ理性がハッキリしている内に飛ぼう。最後くらいはちゃんと……


「百瀬くん!」


 上体を乗り出して、足を浮かせて――


「ダメッ!!」


 足首を掴まれた感覚が――雨で冷え切ったはずの足首に、ありえないほどの熱を感じる。人の手の熱だ。


「なッ――」


 世界が灰色の濁流から、濡れて黒光りする木の板に変わった。


「うぶッッ!」


 顔面に踏板が迫って、ツンと鋭く、ゆっくり噛み締めるような鈍い痛みが鼻の奥まで走り、思わず涙が滲む。


 あれほど耳元で轟いていた河の音が、激しい雨音が、嘘のように遠のいていく。


「うっ……うぅ……」


 世界が静かになって、聞こえるのは自分の情けないうめき声と、誰かの嗚咽だけ。


 何が起きているか分からない。どうして鼻を打った? どうして僕は生きている?


 ズキズキ痛む鼻を押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。


「いなくならないでよ……もうッ!」


 言い切ると同時に、地べたに膝をついた彼女の腕が素早く僕の肩を通りぬけ、僕の頭はだらりと上を向いて――


「お宿、近いからさ、行こ? ねっ?」


――気付けば彼女の腕の中で抱きしめられていた。


「……」

「こんなとこにいないで、早く行こう? 病気直して、明日も一緒にどこか……ううん、休んでてもいいから!」


 やめてくれ。そんな無責任に……希望を与えようだなんて。


「も、百瀬くん……」


 小さい肩を押しのけて、欄干の方へ這いずる。


「なんで、そんなに死――」


 なんで、だって?


「……僕はもう、取れるだけの責任は取っただろ」


 もう、止まるわけには行かない。前から決めたことだろ。


「バスに置いて行かれても、悩まなくても行きたかった旅行ができるようにした。衣食住だってなんとかしただろ」


 全ては楽になるためだった。それなのに……


「君に……犬井さんは――」


言葉が、喉の奥で詰まる。


どうして……


「――一体、何の責任がとれるんだよ! ずっと辛いのに、これ以上僕に何の責任を取れって言うんだ!」


 叫んだ瞬間、はっきりと視界が滲む。


 どうして……こんなに辛いんだ。


「頼むから……放っておいてくれないかな」

「……ごめんね」


 言い過ぎた……いや、これでいいんだ。


 暗い顔で彼女は俯く。雨に濡れた前髪の奥で、何かが滲み出るのが見え――


「お、おい!」


――僕の襟を強く握って、彼女は橋を渡り始める。


「離せ――」

「うるさいッ! ご飯食べにいくよ! 話はそれからにして!」


 擦り切れるような、犬井さんらしくない怒声。


 必死に解こうとしても、冗談みたいな馬鹿力の前に歯が立たない。両肩にカバンのストラップを通した彼女に、片腕でただただ無力に引き摺られる。どこへ向かうのかも分からないまま、ガリガリと靴の踵が擦り減る音が降りしきる雨をかき消す。


「離せ、どうしてそこまで――」

「好きだから!」


「……は?」


 雨も、橋の軋みも、心臓の音さえ、その一言にかき消える。


 この状況で、何を言ってるんだ。


「聞こえなかった!? 好きだから! 友達だから!! 百瀬くんだからッ!! ねぇ! 他に理由いる!?」


 大雨を黙らせる気迫で叫ぶ度に、彼女は襟を握る力を、引き摺る勢いを強める――


「どれだけ大切か分かってないみたいだからもっといっぱい言わせてもらうけどさ!」

「ウェッ……」



――その度に、僕の首はより強く締まる。



「太宰府、一緒に回ってくれて! 一人にしないでくれたよねッ!」

「ちょっ……苦し……」

「バスに置いてかれても! 慰めてくれたしッ!」

「待っ……」

「役に立てなくても友達って言ってくれて! ずっと優しくしてくれるしッ!」

「分かっ……犬……」

「そんな百瀬くんを死なすわけないでしょ!?」

「死ぬっ、ギ、ギブッ……犬井っ、ギブッ……!」


 朦朧としていく意識の中、必死に犬井さんの手を叩いて、ようやく気づいた彼女は手を解いた。


「カハッ! ハッ、ハッ! ハァッ! ハァッ! ハァアアッ!」

「ご、ごめんっ! 必死で……気がつかなくて」


 足に力が入らず、地べたに這いつくばって、背中をさすられながら必死に息を吸って吐く。

 自殺のつもりが、危うく他殺になるところだった。


「と、とにかくさ!」


 荒くなった呼吸が落ち着き、顔を上げると犬井さんは目線までしゃがんで、右手を差し出す。


「辛いことがあるなら言ってよ」


 反対の手には傘が握られて、僕を雨に濡れないようにしてくれていた。


「私、百瀬くんの力になりたいよ……」

「……」


 何も言えないまま手を借りて、立ち上がる。


……こういう時、僕はなんて言えばいいんだ。


「行こう?」

「……うん」


 手をつないだまま、微笑んだ彼女に引かれて歩き出す。気恥ずかしいが、もう手を振り払う体力がない。払おうとも思えない。



……今は、温かいこの手を受け入れよう。





「ここで食べよっか」


 そう言って彼女が指差すのは『瓦そば 広浜屋』。店内の暖色系の明かりが雲に覆われて暗くなった外まで漏れている。この大雨の中で開いているのは奇跡としか思えない。

 けれど――


「……食欲ないんだけど」

「その時は私が食べるからさ! ご飯食べれば元気でるでしょ? 行こ!」


 断ることができず、手を引かれるままに入店する。


「いらっしゃいませ!?」


 僕らを見た店員のお姉さんは目を大きくしたが、そばにあった乾いたタオルで濡れた髪を拭くよう促された。


「拭いたげよっか?」


 犬井さんはまだ拭き終わらないうちに自分のタオルを頭に乗せて、悪戯っぽく笑いながら僕のタオルに手を伸ばす。


「いい、これくらい自分でやる」


 調子が悪くたってこれくらいはできる。

 それに、タオルをくれた店員さんが目の前にいるというのに、醜態を晒すわけにはいかない。


 髪を拭き終わると、店員さんは新しいタオルをくれて、勧められるままに服と荷物も拭く。


「ご注文は券売機から食券でお願いします!」

「分かりました!」


 元気よく答えた犬井さんに店員さんはニコッと笑って厨房の奥へ引き返していった。


「百瀬くんはなに頼……あっ、そうだ!」


 思い出したようにガサゴソと彼女はバッグの中を漁りだした。


「これ、お薬! お水あるし、飲んじゃいなよ!」

「あっ……」


 買いに行かせたんじゃないか。


「……ごめん。その……色々迷惑かけて」

「もぉっ! ……もう、ほんとだよ。すごい心配したんだから」


 始めは冗談でも言うみたいに跳ねた彼女の声は、すぐに沈んだものになっていく。


「ごめん、本当に」


 ただただ、どうしようもない罪悪感が噴き出す。


「……」

「……あのさ、百瀬くん」


 重たい沈黙の中、先に口を開いたのは彼女だった。


「どうして、百瀬くんってなんで……その……」


 伏し目がちになって、両手の指を合わせてもじもじさせ始める。


「……ううん! やっぱりいい、言いづらいよね――」


 そう言って、彼女は明るく笑ってみせる。

 このまま言わないままでも、いいのかもしれない。それで話は終わらせられる。


「僕は、母さんを――」


 9年前のことを思い出す、もうすぐ10年になる。こんなに強く、自分から意識して思い出すのはいつぶりだろう。


 小学2年生の頃、6月の初め、梅雨の時期だった――僕は彼女に、どこまで言うべきなのだろう。

 本当に彼女に全て話したとき……僕はどう思われるのだろう。


「……止められなかった」

「……えっ?」


 本当に言いたかった言葉は出なかったが、彼女はただ黙って、僕を心配そうに見つめる。


 彼女は何も言わず、僕が握り絞めた拳に、優しく手が重ねられる。


 柔らかく、温かく、一回りも小さいのに包み込むような、そんな優しい手。


 さっきまでは自殺をしようと夢中になっていた頭が、今は拒絶されないかという不安で渦巻いている。



 ただ、彼女の体温を、確かにある存在を感じると、それが少しだけ和らぐ。



 少しだけ……勇気を出してみようと、そう思えた。

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