第25話 P.M.14:20 by 犬井
静かな、耐えられない大雨の音がする。
――お財布。百瀬くんの。
なんで。
『犬井さん、これを使って帰りな』
『いいんだよ。死ぬ僕より、生きる君が使う方がいいに決まってる』
バスに置いてかれた日に、はじめて話した日に百瀬くんが優しく言ってくれた、悲しいこと。
やめるって言ってくれたのに……なんで。
でも、もう止められない。どこに行ったかも分からない。
私は……どうしたらいいの? どうしたら百瀬くんを見つけられる? どうしたら止められる? どうしたら……
頭がすごいグルグルして、ギュッと締められるみたいに痛い。
薬を買いに走ったときから……30分くらい、いや、そんなに時間はたってない。
もしかしたら、もう……いや、そんなはずない、絶対!
そういえば新山口で急いだ時、ちょっとしか走ってないのに百瀬くんはゼェゼェいってた。
百瀬くん、私より体力ないんだ。 それに熱もあるしで走れるわけない。
――そうだ、走れないんだ! だから遠くには行けてないはず、行けるはずない!
走れば間に合うかも! 追いかけなきゃ、どこか分からないけど!
フリースなんて、着てたら雨を吸って遅くなる! 傘も!
バッグに2つともしまって、二人分のバッグを首に下げて、駅を飛び出して道路に出る。
――道が3つに分かれてる。
右か、左か、真ん中か。間違えたら二度と会えないかも。
百瀬くんなら……どっちに行くかな。
何も考えずに真ん中……いや、いなくなろうとしてるんだから考えてるはず。
百瀬くんの利き手の右……それも考えてるかも。
じゃあ、左……熱を出してるのにそんなに考えられる?
今の私、いつもより何倍も頭が良くなってる。だけど、そんなの役に立たない。
どっちに行けば……こんなことなら離れなかったら――
「どこ立ってんだ! 危ねぇだろ!」
「ごっ、ごめんなさい! すみません!」
クラクションの大きな音と怒鳴り声。左の道から来たトラックのおじさんが窓を開けて怖い顔して怒ってる。
もしかしたら――
「あのっ! ももっ! 水色のシャツで傘さしてない人! すれ違ってませんかっ!?」
「あぁ!?」
閉めようとした窓に手を突っ込まれて、おじさんは邪魔くさそうに私をみてる。
「いたけど、それがどうしたんだよ?」
――まだ間に合う!
「ありがとうございますッ!」
左は一本道だ。これなら本当に追いつけるかも!
できるだけ足を遠くまで伸ばして、速く回して――バッグのストラップが両肩に食い込んで一歩進むたびにズキズキする。
靴がぐっしょり濡れて気持ち悪い。こっちであってるのか心配。うまく息が吸えなくて苦しい――
「――うぁッ!」
つま先に何かがぶつかって、水たまりの地面が近づいて、ゴツンと音がした。泥と道路の重たい臭いがする。
「ッ……!」
打った膝が心臓みたくズクズクと痛い。血は出てないけどすごい熱い。
段差、雨で気付かなかった。
体を起こすと勝手に左足がガクガク震える。上手く立てない。
……もうやだ。寒いし、不安だし、苦しいし、痛いし。
でも、百瀬くんがいなくなるのはもっと嫌だ。
……クヨクヨしちゃダメだ、私。
今は痛くても、遅れたらもっと胸が痛くなる。
走らないと。とにかく、間に合わなくたって……いや、絶対間に合わせる。
ズキズキ痛む足でもう一度、少しずつ、わざと痛くなるように走る。慣れれば痛くなくなるから。
「あっ!」
道を曲がると、遠くに小さく揺れてる水色が見える。
あの水色だ、あとちょっとだ!
雨でぼんやりしてるのが、近くに来るとだんだんハッキリしてくる。
「百瀬くん!」
ああ、よかった。間に合ったんだ。追いついたら一人にしたこと謝って、一緒にお宿に行って、風邪薬を渡して、それから……
「百瀬くん! 百瀬くん!」
振り返ってくれない。声が雨音で聞こえないのかな。
それならもっと大きな声で……いや、今はとにかく早く、とにかく速く走らないと――
「百瀬く……」
近づいてくる水色はゆらゆら、ゆらゆら、ずっと揺れてる――
「あっ、もッ、ねぇ、あっ……」
――赤色まじりで。
――旗。ごはん屋さんの。
「あは、あっ、あはは……」
雨とは違う、テレビの砂嵐みたいな音が聞こえる。全身から力が抜けて立ってられない。さっきまで痛かったはずの膝は、もう何も感じない。
もう、私じゃ百瀬くんは見つけられないんだ。
砂嵐が頭の中でどんどん大きくなる。雨で濡れて体が冷えていくのが分かる。もしかしたら、とっくに冷え切ってたのかも。
でも目だけはジワッと熱くなってくる。なんで、こんなときに……
雨の音がどんどん遠くなって、息と砂嵐だけがやけに大きく聞こえる。
足が動かなくなって、膝が、喉が、体が、全部が震えだした――パッと目の前が明るくなる。
ブロロロロと聞いたことのある音が近づいてきて、止まった。
真ん中で明るく光る太陽みたいなライト。近づいてくるのは遠くからでも見える濃い赤で、細くて、車じゃない。
間違いない、郵便のバイクだ!
青いレインコートを着た人が戻ってきて、バイクにまたがって、エンジンの音がまた鳴りだす――
「お兄さんッ!」
行かないで!
「そこのっ! 郵便配達のお兄さんッ! お願い! 止まって!」
――腕を振り回す。膝が痛い。でも走る。のどが千切れるくらいの大声。
「どうしましたか?」
エンジンを止めて、むこうからお兄さんが走ってくる。
「水色のシャツの――」




