第28話 鈍いんだから
「……辛かったんだね」
犬井さんは重なった手を優しくさすって、重い空気を和らげようと微笑んでくれた。これから食事をするというのに、僕はなんて話をしているんだ。
「……うん」
僕は頷くことしかできない。
「話させちゃってごめんね……」
「謝ることじゃない、本当に」
しゃくりあげるような感覚が、話している途中から止まらない。
抑えようとすると、うまく言葉が出ない。もっと、しっかりと否定するべきなのに。
一番重要なことさえ、言えていないというのに。
「ねぇ……百――」
「その……そろそろご注文を……」
「「あっ」」
店員さんは引き攣った苦笑いをしながら手を揉んでいた。
……聞かれていたのだろうか?
「あのっ、じゃあ! 瓦そば! 百瀬くんもそれでいい?」
「あっ、あぁ!」
「注文は食券でお願いします!」
「わ、わかりましたー!」
言い切る前に犬井さんは食券機へ駆けて行く。
そうして僕はこっ恥ずかしい空気のまま席に取り残されて、店員さんと2人きりになった。
テーブルに顔を伏せながら、横目で様子を伺う。店員のお姉さんは相変わらず気まずそうにして、目を犬井さんと僕の間で行き来させていた……これは聞かれてたな。
「そ、その……お二人は――」
「ねぇ百瀬くん! 飲み物、オレンジジュースでいい?」
店員さんが重そうに口を開いたとき、犬井さんは入口からいつもの元気な声を上げて中断される。
きっと意識はしてなかったのだろうけど、こういう時、犬井さんの気まずい空気でもお構いなしなところは頼もしい。
「それで、その……」
けれどまぁ、話を聞かれた以上は避けられないか――
「お二人は、どちらから?」
「……は?」
避けられた。
「……東萩から来ました」
「へぇ……この天気の中、遠いのにわざわざありがとうございます」
ペコリと、店員さんは頭を下げる。
少しでもこの重い空気を変えようと、必死に話題を探してくれているのが分かった。
「いえいえ」
もしかすると、店員さんは聞いていないかもしれない。
こうやって世間話をするのだって純粋な厚意や興味で、野次馬精神などではなく……いちいち悪意と勘ぐるのは、もしかすると悪い癖なのかもしれない。
そうこうしていると、犬井さんは食券を持って駆け寄ってくる。
「これ、おねがいします!」
「かしこまりました! 完成まで少々お時間を頂きます!」
そう言って店員さんはキッチンへ、犬井さんは席に戻るとニコッと笑う。
「瓦そばって、本当に麺が緑色なんだね! てっきり写真が変なのかと思ってた!」
「……抹茶でも練り込んであるんだろうな」
普段通りの声色で話すべきなのだろうが、出たのは暗いものだった。
仕方ないだろう。もう言葉が思うように出ないし、彼女はいつだってすぐに笑ってみせるが、僕はそんなに器用じゃない。
「……みたいだね」
犬井さんも釣られて、空気は湿度と重さを取り戻す。
「さっきの話さ……」
彼女はキッチンを一瞥して人が見えないことを確認する。
「今まで、誰かに話したことあるの?」
好奇心なのか、同情なのか、心配なのか。色々なものが入り混じった顔で僕を見た。
「一度もない、話せる訳がない」
「でも私には話せるんだ?」
「……」
彼女はそう言って口元を隠し、少し間を置くと咳払いをすると――
「じゃあ、もう百瀬くんの問題は、百瀬くんだけのものじゃないね?」
――聞き覚えのある言葉で抱き寄せられ、僕の頭はテーブル越しに彼女の胸の中に沈み込んだ。
雨に濡れて冷たくなった生地の奥で、押されて戻っての2拍を繰り返す温かい鼓動。
羞恥と安心に挟まれながら、濡れた腕の中で確かに生きているのだと感じる、彼女が、僕が。
「だから、辛いことは言ってよ。私は何もできないかもだけど……」
腕を緩められてサッと頭を仰け反らせた時、犬井さんと目がハッキリと合った。
黄色とも黄緑ともつかない、明るい瞳。
今までちゃんと見ていなかった僕は、初めて彼女の瞳の色を知った。
「こうやって頭を撫でたり、励ますくらいならできるからさ?」
腕を伸ばして僕を撫でる、彼女の手のひらの体温が心地いい。
彼女の細められた目は自然な優しさで満ちて……じっと見ていられない。
僕は、これを受け入れていいのだろうか?
分からない、熱を持った頭で考えるには難しい。
けれど、今は分からないままでいい……そんな気がする。
「あれ、百瀬くんって――」
「んっ、ん! おっ、お待たせしました~!」
犬井さんが僕の前髪に触れて何かを口にしかけた時、咳払いとともに無理に張り上げたような声が空気を引き裂いた。
「こ、こちら、瓦そばの二人前になります」
「「……」」
「……」
もともと食欲は無いが、たった今、もっと無くなった。そう文句を言ってやりたいと、思っ……たわけじゃない。
「つ、つゆにレモンを浮かべてお召し上がりください……」
でも、もっとタイミングはあったと思う。
「ご、ごゆっくり~」
じわじわと頬が熱くなる感覚の中、店員の去って行く先にはキッチン担当と思しきお兄さんがこちらを覗いていた。
壁から出す顔の真横には無粋な親指が立っている。
「あ、あはは……」
「……」
頭をテーブルに打ち付けると、カランと箸の跳ねた音がした。
何の解決にもなりはしないが、痛みで一瞬だけ気が逸れるのが救いだ。
……ついさっき自殺を断念した身でこう思うのは変な話だが、いっそ殺してほしい。
「……食べよっか」
「……そうだな」
ふんわりとした脂の甘い香りに熱い顔を上げて、出されたものに目を向ける。
ハンバーグプレートのように瓦の上でパチパチと音を立てて揚げ焼きになっている、鮮やかな緑の茶蕎麦。その上には錦糸卵にそぼろ、豚バラに刻み海苔、そしてレモンと紅葉おろし。
「いただきま~す!」
「……いただきます」
色もそうだが、つゆにレモン……こんな組み合わせ、僕は食べきれるだろうか?
「んっ! 美味しい!」
モグモグと口を動かしながら、犬井さんは目を輝かせる。
不安と体調不良で落ち着かないが、レモンをつゆに落とし、蕎麦をくぐらせて無理やり口へ運ぶ。
「……本当だ」
美味い。関東ではない、甘じょっぱいつゆだ。
茶そばは鮮やかな緑色の見た目の割に抹茶が微かに香る程度で、蕎麦特有のアクのようなボソッとした感じがない。
コシのある食感でありながら、焼けて固くなった底の部分はパリッとアクセントとなって、元の蕎麦にはない感覚だ。
続けて紅葉おろしを溶かし、山盛りに盛られた錦糸卵と豚バラに箸を伸ばし、つゆに付けて口へ運ぶ。
豚と卵の甘みと紅葉おろしの優しい辛みで、体が少しずつ熱を取り戻していく。その甘みをレモンの酸味と皮の若干の苦味が優しく引き立てて、舌の裏の唾液腺が締まる。
彩りのためだけに盛られていた訳じゃないんだな。
「ふふっ……」
「どうした?」
ふと顔を上げると犬井さんがクスクスと笑っている。
「なんか百瀬くんって、食べてるときは表情が豊かだよね?」
「……そんなことない」
「でも、絶対食べるのは好きだよね?」
「……まぁ、うん」
蕎麦をつゆに浸しながら、犬井さんはニコニコと僕を見つめる。
「どうして?」
「ほら、食べている時は頭が回らなくなるだろ?」
「そうだね……って、百瀬くん?」
「嫌なことも上手く考えられないだろ?」
「そんなネガティブな理由で好きにならないでよ!」
ストン、と彼女は僕の頭にチョップを落とす。
まぁ、半分は冗談だ。美味しいものを食べているときは、僕だっていい気分になる。今だってそうだ。
ただ……思ったより油っこい。
「これ……食べられるかな」
揚げ焼きだから仕方ないが、体調不良もあって今日は食べ切れそうにない。
「私が食べようか?」
そう言って余裕そうに蕎麦をすする犬井さん。彼女の分に目を落とすと、既に半分近くを食べ終えていた。
それに正直、味が渋滞しているのはあまり好きじゃない。普通のざる蕎麦の方が好きかもしれない……普段なら。
「じゃあ、その時は頼むよ」
「うん! だから安心していっぱい残してね!」
そう言って犬井さんは優しい目でクスッと笑う。
甘くて、しょっぱくて、酸っぱくて、少し苦い……けど今はこれが良い――彼女をといるそう思える。
……これは残さず食べ切らないとないとなぁ。
◇
「「ごちそうさまでした」」
「「またのご来店、お待ちしております!」」
店員の2人がキッチンとレジから顔を出して手を振る。味は良かったが、二度と来ないと思う。
「おいしかったね!」
「そうだな」
今の体調ではどうにも油がきつかった。もちろん残さず食べようとは思ったが、満腹で限界だった。
結局僕は瓦そばを半分も食べられず、不甲斐ないが残りは犬井さんに食べてもらった。
そうして店を出ると、外はいくらか明るさを取り戻し、雨脚も落ち着いていた。一足早く出た犬井さんは傘をさすと僕に差し出す。
「じゃあ、このままお宿に行こう! 百瀬くんは大丈夫? 荷物もとっか? 歩ける?」
「あまり病人扱いはしないでよ、傘だって持つよ」
「だめ! 傘は私がもつ!」
そう言って頑なに傘から手を離さない。まぁ、今日くらいはいいか。
ただ、傘は一本しかない。
……傍から見て、これは大丈夫なのだろうか。
「……やっぱり持たせて貰えない?」
「なに? もしかして百瀬くん、相合傘なの気にしてるの~?」
顔に出ないよう気を遣ったつもりだが、犬井さんはそう言って肘で僕を小突く。
「女の子に持たせるっていうのが……絵面的にだな……」
「え~! いいじゃん、こっちのほうが面白いしさ!」
そうして彼女は僕の手を無理やり引いて歩き出す……これはもう聞き入れられそうにないな。
狭い傘の中で彼女の肩が二の腕にぶつかる。その度に僕が一歩離れると、彼女が一歩詰める。
「……狭くないの?」
「ううん、これくらいが丁度いい」
こっちの心配に、犬井さんは半歩詰めた上で軽々と言う。
本当に……簡単に言ってくるんだからなぁ。
「はぁ……」
「あっ、待って待って!」
ぎこちない気分のまま宿へ向かう中、濡れて目に掛かった前髪を払おうとした時、犬井さんはふと立ち止まった。
人通りがない橋の上で、傘の縁からシトシトと雫が垂れていく。
「さっきも思ったんだけどさ……」
彼女は背伸びをして、僕の額に細い指で触れ、そっと前髪を分けた。
「……うん。百瀬くん、こっちの方がいいよ」
冷たい風が額を撫で、犬井さんはスマホのインカメラで今の僕の姿を見せた。
「いつも隠れてたけど、これなら……目がよく見えるからさ」
センターパート、というのだろうか。髪型に気を遣ったことがないから詳しくは分からない。
「目ならちゃんと見えてるよ」
そう答えた時、彼女は目を逸らして唇をキュッと結び――
「……私が見たいの」
――見たことのない表情をした。
「……」
「百瀬くん、目が綺麗なんだからさ」
「は……?」
「……分かってよ、鈍いんだから」
消え入るような声。彼女は背伸びをやめると、顔を隠すようにクルリと前を向いて再び歩き出す。
僕はというと、あの表情に感情が追い付かず雨の中で立ち尽くしていた。
なんて言えばよかったんだ?
『君だってとても綺麗だ』
――なんて、言えれば良かったのだろうか。
開けた視界の奥で、歩き去って行く犬井さんの耳は赤みを帯びている……気がした。




