第21話 左前
「頼むから今は一人にしてくれ」
さっきから百瀬くんの雰囲気は暗くなってて、声は低くなってる――
「う、うん……」
――それに、すごく辛そうな顔してる。
私が言ってる途中に百瀬くんは背中を向けて歩いていく。
聞いてるけど……聞く気はないみたいな感じで。
私、百瀬くんを怒らせちゃったみたいだ。スカートの裾を握ってる指がヒリヒリする。
「あ、あのっ……」
嫌われるのが怖い、怒られるのも怖い。
それでのどが勝手にヒクヒク動いて、声がうまく出ない。
裏返った声が出ても、百瀬くんには聞こえないみたいだ。
歩いていく百瀬くんの姿はどんどん小さくなっていく。
「……どうしよう」
さっきまで、百瀬くんはすぐそばにいた。
今はもうどれだけ走っても、謝ろうと思っても、百瀬くんには追いつけない気がする。
遠くで角を曲がって、百瀬くんは見えなくなった。
寒くないのに、気づけば私は鼻をすすってる。
◆
……お風呂に入れば落ち込んだ気分も良くなるよね。
そう思って電気をつけた。ちょっと狭いけど、温かくて、畳の落ち着く匂いがする明るい部屋――
「はぁ……」
――それが今はすごく静かで、どこか暗くて、とても広い。いつもの落ち着く匂いがしない。
部屋の角に百瀬くんのバッグがひっそりと置いてある。チャックのつまみがキッチリ端っこで揃ってたり、バッグの角を壁にピッタリ寄せてるのが百瀬くんらしくて、実は先回りしてお風呂に入ってるんじゃないかって思う。
でも、玄関に百瀬くんの靴はない。スリッパだって減ってない。百瀬くんはいない。
そう思うと胸がぎゅっとする。
そう思うと、すごくさみしい。
もしかすると、百瀬くんはこのまま帰ってこないかもしれない。
追いかけても、どこにいるか分からない。
……百瀬くんのお布団、敷いといてあげよう。
◆
「お帰りなさい、犬井さん……あら、百瀬さんは?」
お部屋にあった浴衣と帯を持って下に行くと、さっきはいなかった明木のおばあちゃんがいた。
「……証明書の印刷で遅れるみたいです」
顔をうまく動かせないけど、なんとか笑ってみる。おばあちゃんの前でもメソメソしたままじゃいけないよね。
「……そうですか」
けど、おばあちゃんの声は心配そうに下がってる。
今の私はうまく隠せないみたい。
◆
脱衣場で洋服を脱ぐと、体がゾクゾク震える。肌にこすれる布の感覚はすごく嫌な感じ。スカートを見たら太もものところにグシャっと握った跡が残ってる。
服をたたんでカゴに入れてから、お風呂場に入る。
中は湯気でムシムシして、温泉の匂いで鼻が少しツンとする。クリーム色の天井からぽたぽたと私の肩に水のつぶが落ちる。
ゴムをほどいてシャワーを浴びてみても、温かいけど、なにか物足りない温かさ。それで体はかじかんだみたいになる。
シャンプーで洗ってから前髪を上げると、目の前の鏡には私が映っていた――
「……あはは」
――目が赤くなってる、私。
試しにいつもみたいに笑ったり、怒ったり、驚いた表情を作ってみても、全部変な感じがする。
全部泣いてて、まるで自分の顔じゃないみたい。
体を洗う前に鏡の前で遥野さんに教わったみたいに髪を結ぼうとしても、できるのはヘンテコなお団子。ほどいて作って、何度やってもうまくいかない。
うん。なにもかも、うまくいかない。
◆
ボーっとできると思って湯船に入っても、百瀬くんのことが頭から離れない。
百瀬くんはちょっとつっけんどんで嫌そうな顔もするけど、それでもようやく仲良くなれて。それで励ましたくて……私のなにがダメだったんだろう?
私、百瀬くんに嫌な言い方しちゃったのかな? 面倒をかけてたのかな? 失礼なことしちゃってたのかな?
思い当たるのばっかりだ。どれが悪いかなんて分からないくらい。
でもたぶん、あんなに怒らせちゃったのは『死んじゃうなんて忘れて欲しい』って言ったからかな?
なにか、私に言われたくない理由でもあったのかな……
もし時間をもどせるならやり直したい。
それでもし戻ったら……いや、それでも言っちゃうと思う。絶対に死なないでほしいから。
それで、この先もずっと……やっぱり、考えるって嫌いだ。どんどん辛くなる。
もしもの未来なんて考えたって、どうしようもないじゃん。
鼻をすすってばっかじゃダメだ。早くお風呂から出よう。今できることをしよう。
なにができるかは分からないけど、とにかくたくさん。
◆
ちゃちゃっと髪の毛を乾かして、更衣室を出る。
髪を乾かした後って、なんだか頭がフワフワする。
「犬井さん」
階段を上っている後ろで、私が何度も呼ばれた呼びかた。
「えっ!? も、百――」
「蜜柑、よければお二人でどうぞ」
おばあちゃんだった。
……思わず百瀬くんと間違えるなんて。私、疲れてるのかな。
おばあちゃんがくれたビニール袋の中には明るいオレンジ色のみかんが何個か入ってる。
「あっ、ありがとうございます。 わぁ~美味しそう」
「……それはよかった」
声を作ろうとしても、うまくいかない。どうしても声が下がっちゃう。
おばあちゃんはニコッとしてるけど、可哀想と思ってるみたいに眉毛の端が下がってる。
私、おばあちゃんを嫌な気持ちにしちゃったよね……
「その、ごめ――」
「ちょっとね――」
謝ろうとしたとき、おばあちゃんはトコトコ歩いてきて、浴衣の帯をいじった。
「浴衣、似合ってるけど向きが逆だね。帯の位置も変。直してあげるからちょっと来てね」
そう言っておばあちゃんは私をテーブルまで呼んだ。
それで椅子に座ると、おばあちゃんはチャっと帯を解いてくれた。
「自分から見て着物の左が内側に来てる。これを左前って言ってね、縁起が悪いの」
「へぇ、そうなんですね」
おばあちゃん、手際よくて、物知りで、羨ましいなぁ。
私も百瀬くんの着物、やり方を覚えられたら直してあげられるかな? でも多分、百瀬くんのことだし着方も知ってるよね?
「亡くなった人とか、これから亡くなる人がするの。だから気を付けてね」
背筋がゾゾッとした。
百瀬くん、あんなに怒ったのってもしかして……
「……気をつけます」
百瀬くんが左前に着たのを見たわけじゃないけど……何だか、すごく嫌な予感がする。
「あの……」
「うん?」
百瀬くんには悪いかもだけど――
「……お、男の子の結び方も、教えてもらえませんか?」
私を捨てないでくれて、お金がないのに一緒にいさせてくれて、いっぱい褒めて、心配してくれる。
だから百瀬くんが辛そうな顔をしてると、私も辛くなる。
――うん。やっぱり、絶対百瀬くんを死なせたくない。
だから、今はおまじないでも何でも覚えたい。とにかく役に立って、百瀬くんの負担を減らしたい。
◆
「女の子の帯はおへその上で結び目は真ん中よりちょっと横。男の子はおへその所かちょっと下で結び目は背中の真ん中、ですよね?」
「うん、完璧。百瀬さんはさっき帰って来て先にお風呂を上がりましたから、戻ったら蜜柑、二人で分けてね」
帰ってきたんだ! よかった!
「わかりました! みかん、ありがとうございます!」
「うん、元気になったね」
「はい!」
◆
お部屋に戻ると百瀬くんはもう浴衣を着て、ボーっと上を見てた。
「お帰り、百瀬くん」
「……あぁ」
百瀬くんは私の顔を見てくれない。もとからあまり見てくれないけど……それは恥ずかしいって感じだった。でも今はそんなのじゃない、顔もそむけちゃうし。
元気がなさそうな表情と目。でもさっきみたく、すごく不機嫌って感じでもないし……どういうこと?
「浴衣着てるけど、お風呂は入ったの?」
「……シャワーだけ」
「……そっか」
今もちょっと不機嫌みたいで返事は全部そっけない感じ。でも無視はしないでくれる。
「ねぇ、百瀬くん。おばあちゃんにみかん貰ったの」
「……」
「一緒に食べよ?」
「……いいよ、全部食べな」
どれだけ話しても百瀬くんとの距離はぜんぜん縮まらないけど、でも今はいっぱい話さなきゃだよね。
「おいしいやつらしいよ? 皮もむいたげるから、食べよ?」
「……いらない」
「そっか。じゃあ、いただきま~す!」
ひとつ取って、口に入れる。かむとじゅわっと甘い味がする。すっごい濃くて、ほんとうにおいしい。
「う~ん、おいしい!」
百瀬くんも食べたくなるようにちょっとだけ大げさに言ってみたら、百瀬くんはチラッと私を見た。
やっぱり、食べたいんだ。
百瀬くんによく見えるようにもう一個食べて、ほっぺに手を当ててみる。
「百瀬くんも食べなよ! おいしくてほっぺ落ちちゃうよ!」
また誘ってみたら、さすがに我慢できなくなったみたいで百瀬くんは膝立ちで歩いてきた。
「……分かったよ」
「よかった! 食べよ食べよ!」
そう言って百瀬くんにみかんを一個手渡す。私の手が触れたとき、百瀬くんはちょっとビクッとしてサッと手を引っ込めた。ちょっと可愛い。
百瀬くんは皮をむいて一個食べた。
「……本当だ」
「でしょ? みかん、あと2個あるからね!」
百瀬くんはうなずいて、どんどん食べていく。
とりあえず、機嫌がちょっと直ったみたいでよかった。
◆
「あのさ、百瀬くん。さっきはごめんね」
百瀬くんが2個目を食べてるとき、思い切って言ってみる――また怒らせちゃうかもだけど、こうして話せるのは今くらいだと思ったから。
「……いいよ、犬井さんが悪いんじゃないんだ」
「……」
いいよ、そう言ってくれるけど……許してくれてるわけじゃない。そんな顔をしてる、気がする。
それにやっぱり、すごく辛そうな顔をしてる。
「……明日も、私と一緒に旅行してくれる?」
怒らせちゃったのに、こんなこと頼むなんて図々しいけど……それでもこの旅行は続けたいし、百瀬くんを死なせたくない。
「心配しなくたってするよ」
「うん、ありがと。明日は……もっと楽しくするからね」
私がお礼を言ったとき、百瀬くんは少しだけ寂しそうな目をしてた。
「……歯磨いてくる」
「ちょっと待って!」
歯ブラシを持った百瀬くんは襖に手をかけて立ち止まった。
「浴衣、直してあげる」
帯がくちゃくちゃで、結び方も変だし――
「向きが間違ってるからさ」
――左前。
「……このままでいいよ、明日には着替えるし」
百瀬くんは少し感心したみたいな顔でそう言って、部屋を静かに出て行った。
感心って、どういうこと?
……意味、分かってるってことだよね?
◆
「おやすみ」
電気を消して、お布団に戻った百瀬くんはそう言った。
紐を引っ張るときの百瀬くんは、私の顔をじっと見てた。
「うん……おやすみなさい」
すごく、寂しそうな顔をしてた。思い出すと、胸がギュッとなる。
私、百瀬くんを笑わせて……安心させてあげられるのかな。




