第20話 スタークロスド
「ねぇ百瀬くん、あそことかどう?」
夕飯のために宿を出て数分、犬井さんが指さしたのは――
「チェーンのファミレスはないだろ、東京にもたくさんある」
「えぇ~! それでもいいじゃん!」
犬井さんは拳を空へ伸ばして不満を言うが、通り過ぎていくエンジン音と風にかき消されたことにする。彼女の腹の虫が鳴く音も聞こえないことにする。
「せっかくの旅行だ、こっちで食べられるものを食べよう」
「え~っ!」
東京でいくらでも食べられるものをわざわざ選ぶ必要はないだろう。
けれど今は7時、門限は8時半だ。明木さんに迷惑をかけないためにも、早く決めなければ。
◇
「お腹空いた~! もうさっきのとこにしようよ~!」
10分、15分と時間は過ぎていき、いよいよ20分が経とうとしていたが夕飯の店は中々決まらずにいた。
「あと少し……あと少しだけ探そう」
夕陽はとっくに沈み、街灯の少ない通りはまさに深い黒一色。灯りは遠くからでも一目で分かった。
しかし灯りの数は少なく、営業している飲食店となるとさらに少なかった。
「もぉ~! そんなこだわんなくてもいいじゃん!」
「別に……拘ってなんかない」
風の吹く音で隠れないくらいお腹を鳴らして不満を言う犬井さんにこう返してみる。
「嘘だ! 絶対こだわってるよ!」
けれど正直、僕は意地になっているのかもしれない――何に対してかは分からないが。
「分かったよ、じゃあ次に見つけたところにしようか」
「やったあ! 約束だからね!」
跳ねて喜んだ犬井さんはそう言うと小指を突き出してきた。
「……これは?」
「指切りげんまん!」
「嘘だろ……」
17にもなって……いや、そろそろ18になるというのに指切りって……子供じゃあるまいし。
「次のお店って嘘なの?」
犬井さんは不満そうに横目で僕を見る。これ以上何か言っても、彼女は聞く耳を持たないだろう。
「そうじゃなくて……はぁ、分かったよ」
僕も小指を出して、彼女の指に絡める。
「ゆ~び切ーりげ~んまーん――」
どうして僕はこんなことをしているんだ……背筋と頬が焼けるような気分だ。
「――ゆーび切った!」
そう言って勢いよく振り下ろして指が離れる。儀式が終わり、彼女は満足そうにしている。
彼女は本当に、アホらしいというか……何というか――
「どうしたの百瀬くん? 口なんか隠して」
「……うるさい」
◇
「こんばんわ~!」
「「いらっしゃい!」」
さらに歩いて10分。ようやく僕らが入ったのは人通りの少ない通りに面した定食屋だった。
『定食居酒屋 ろおど』、白い壁と石材風の床の店内は何人も座れる栗の木の長いカウンターテーブル越しのキッチンに明るい夫婦が立っており、とても暖かい雰囲気だ。
メニューを渡され目を通すと、ドリンクのページで犬井さんは目を輝かせた。
「ねぇ、百瀬くん! 巨峰だって! 高いブドウじゃん!」
「本当だ、それに意外と安……おい、サワーってアルコールだぞ」
やっちゃった、といった表情で犬井さんは頭を掻いて笑った。
「でも私、もうすぐ誕生日だからってことで飲めたりは……」
「馬鹿言え、迎えても18才だろ。20歳になってから言いな」
「あはは、二人とも面白いこと言うね!」
犬井さんの冗談に付き合っていると、店主のおばさんはカウンターから乗り出して聞いていた。
奥ではおじさんがコップに水を注いでいた。
「二人は学生さん? どこから来たの? この辺じゃ見ない顔だけど」
そう聞かれて、僕らは顔を見合わせた。犬井さんは困ったように笑っていた。
さて、なんと答えるべきか……全部話すのは面倒くさいしな……
「高校の春休みで東京から来ました。彼女は……旅行仲間です」
「へぇ、いいね」
おばさんは僕と犬井さんを交互に見ると、納得したように頷いて言った。
「二人はその……お付き合いとかはしてるのかな? 息ぴったりだけど」
「えっ!?」
動揺する犬井さんを見てニヤニヤしているおばさんの向こうで、おじさんは米をよそう手が止まっていた。
「してないです、友達です」
「またまたぁ~」
おばさんはからかうように目を細めて僕らを見ていた。
「オスカー・ワイルドって人はね、『男女の間では友情は有り得ない』って言ったんだけど、どうかな?」
……嫌な引用だな。そのセリフは確か、もう少し続きがあったはずだ。
それに才能があったとはいえ、あんな捻くれた人間の言うことなんて信じられない。
「でも実際、ここにあるでしょう?」
「さぁ?」
白々しくとぼけやがって……来る店を間違えたな。
とは言え時間はない。今日はここで食べないといけない。
「オレンジジュースと日替わり定食をお願いします」
「あっ、えと、私もそれで!」
「はーい!」
おばさんが受け取ったメニューを後ろに下げる中、どこか落ち着かない様子の犬井さんに目を向ける。
彼女の肩はゆらゆら揺れて、頬は少し赤くなっていた。
「どうしたんだよ、そんなもじもじして?」
冷蔵庫へ向かっていくおばさんに気づかれないよう耳打ちすると、犬井さんはすぐに振り返り、両手を当てて僕に耳打ちをした。
「やっと百瀬くんから友達って言ってくれたね?」
手を離した彼女はどこか恥ずかしそうに頬を掻いて笑っていた。
それに、何というか――どこか幸せそうに……
……いやいや、流石に自意識過剰だ。
「はぁぁぁ……」
深くため息を吐いて両手に顔を埋める。
本当に、犬井さんといるとペースが崩れる。
◇
「はい! 日替わり定食お待ちどおさま!」
威勢のいい声で飲み物とともに出てきたのは皮がこんがり焼けた焼き魚定食だった。何の魚かは分からない。
「わぁ! 美味しそう! あのっ、これなんてお魚なんですか?」
「これはね、サバ! 旬はちょっと過ぎてるけど、美味しいよ!」
目を輝かせる犬井さんにおばさんは負けじと元気に答えた。
タケノコと人参の煮物、ほうれん草のおひたし、味噌汁、白米……どれも優しく湯気がたっている。
こんなに料理が揃うのは何年ぶりだろう。
父さんも僕も料理ができなくて、ジャンクフードとかで適当に済ませていたから……本当に12年ぶりとかだ。
もしも僕が母さんを――
「どうしたの、ぼーっとして?」
「……何でもないよ」
ハッとして顔を向けると、犬井さんは不思議そうに僕を見ていた。
勝手に一人でしんみりするのは良くないな。今は目の前の料理を食べよう。
「「いただきます」」
さっそく焼き鯖に箸を刺すと、皮から小さくパリッと音がして、割れた部分からはじんわりと脂が滲みだす。
そこから身を取り、少しの皮と一緒に口へ運ぶ。
柔らかい食感の鯖は強すぎない塩味と油の旨味、そして微かな香ばしさが口に広がり鼻を抜ける。
「美味――」
「んん~っ! おいひい~!」
もごもごと音をさせ、歓声を上げる犬井さんの箸には大きな歯型のついた鯖があった。
……なかなか豪快な食べっぷりだが、直接齧るのが正しい食べ方なのだろうか?
「それはうれしいねぇ! ほら、どんどん食べて!」
「お米もホクホクしててすごいおいしいです!」
「うんうん!」
「この煮物もおいしいです!」
犬井さんはもごもご言いながら幸せそうにおばさんと話している。
それはさておき、料理への称賛の語彙が「おいしい」しか無いのはどうなんだ? 美味いのは確かだが。
「だってさ! 良かったねアンタ……って、えっ?」
おばさんがそう言って振り返ると、目を大きく見開いた。
その目線の先では、背を向けたおじさんが包丁を拭きながらコクコクと静かに頷いていた。
「どうしたの! 今日、やけにテンション高いじゃん!」
「「えっ!?」」
あれで!?
「っと、ゴメンゴメン。それで、他は?」
「あっ、えっと!」
手からお盆へ転がり落ちた箸を拾って、明らかに犬井さんは動揺していた。
それはそうだ。うんともすんとも言わず、静かに頷くだけでテンションが高いだなんて。
「こ、このオレンジジュースも新鮮でおいしいです!」
「……それは近所で買った瓶のやつだね、果汁10%」
「あっ、あはは……」
とんでもなく気まずそうな笑みを浮かべる犬井さん。
「まっ、まぁそういう時もあるさ……そっちの兄ちゃんはどう?」
「はっ、僕?」
犬井さんから移って、おばさんは僕に話を振る。
「そうですね……」
どれが一番美味しいか。正直どれも美味しいが……
食事でうまく回らない頭で考える中、犬井さんは熱烈な視線を僕に向けている。
まるで「オレンジジュースを褒めろ」とでもいうように。
「どれもすごく美味しいのですけど――」
「――僕はたくあんが好きですね。スッキリして、ピリッと辛くて」
「おぉ、良かったじゃんアンタ! たくあん美味しいって!」
おばさんは振り返った。向こうでおじさんは頷いた。隣の犬井さんは肩を落とした。
◇
「「ごちそうさまでした」」
「うん、お粗末様でした!」
食べ終えて水を飲み一息ついた後、僕らは席を立ち、犬井さんは椅子に掛けたカーディガンを羽織った。
「その、お会計をお願いします」
「は~い。えっと、1700円になります」
「えっ?」
「あれ、間違えた?」
あの質でこれは安すぎる。東京だったら定食だけでも2000円は余裕で超えると思う。
嘘だと思い、メニューをもう一度確認する。定食700円、飲み物150円。1円たりとも間違っていない。
「ごめんなさい、合ってます」
おばさんはカウンター上に貼ったメモを確認してホッと息をついた後、トレイをカウンターに乗せた。
「じゃあ、2000円からお願いします」
「おっ! 兄ちゃんが全部出すんだ、男前!」
おばさんが元気に言ったそば、横にいる犬井さんは少し気まずそうに俯いている。
「……宿で彼女から返してもらうので変わらないですよ」
「あっ、なるほどね」
犬井さんに聞こえないよう小声でおばさんに伝える。彼女にも体面があるだろう。
「おーいアンタ、300円ある?」
キッチンの奥でケースを見ていたおじさんは首を横に振った。
「おっと……兄ちゃん、細かいの持ってたりは?」
小銭入れの中を確認してみるが、100円玉は無かった。
「申し訳ないのですけど……」
「おぉう……」
おばさんは口元に拳を当てて唸っていると、奥からやってきたおじさんにおばさんは耳を貸した。
「……」
「あっ、いいかもねそれ!」
おじさんはまた引っ込んでいく中、おばさんは吹っ切れたようだった。
「お釣りの300円はこっちが貰って、代わりに二人におにぎり握るっていうのはどう? 持って帰って、夜食かお昼ご飯にでもしてさ」
丸く収めるためお釣りは諦めようかと思ったが、これは願ってもない提案だ。
「いいですね、犬井さんもそれで大丈夫か?」
ぼーっとしていたのか、突然話を振られた犬井さんの肩がビクッと動く。
「えっ? あっ、大丈夫です!」
「じゃあ、お願いします」
「はいよ!」
そう言うとおばさんはキッチンへ戻り、おじさんと冷蔵庫を物色しながら何かを相談していた。
おじさんの声は相変わらず聞こえないが、2人とも楽しそうなのはカウンターから見ても明らかだった。
◇
「また来てね~!」
「はーい!」
後ろで手を振る夫婦に犬井さんは手を振り、僕も手を振り返して店を後にする。
苦しすぎない満腹感と夜風が心地良い。これが続いてくれたらな――
「彼女、大事にしてあげなよ!」
おばさんのよく通る無粋な声援……余計なお世話だ。
いい人なんだが、これさえなければな。
全く、空気が台無しだ。
◇
「おにぎり、いっぱい貰っちゃったね」
あれから色々な具を見つけた店主夫婦は仲良くおにぎりを握り、僕らは3つずつ持たされた。
合計6個、1個当たり50円。おまけにかなり大きい。
「そうだな。定食も安かったのに大丈夫なのかね?」
「どうなんだろね?」
風の吹く帰り道は街灯が少なく、足元に気を向けないと転びそうになる。
「そういえばさ、百瀬くん。お会計のときおばさんに何話したの?」
「……美味しかったです、くらいかな」
「……ふーん、そっか」
少し浮かないような声色で犬井さんは答えた。
お互いの表情も分からないまま、そんな他愛のないことを話しながら建物から漏れる灯りを頼りに歩く。
「あっ、百瀬くん! 見て見て!」
「なんだよ」
「いいからいいから!」
ぼんやりとしか犬井さんの姿が分からない中、彼女のシルエットは弾ませた声で空を指さした。
「星、すごくない!?」
見上げる夜空には満天の――
「東京じゃこんな見れないよね!?」
「あぁ……そうだな」
――とは行かないまでも、砕けたガラスのように明るい星々が散りばめられていた。
僕の知る夜空と言えば月と飛行機、それと微かに明るい北極星しかない。
それが今は赤や白の瞬く様々な点で彩られている。
「……あれは、オリオン座か? そしたらあの3つで冬の大三角形か?」
「えっ、どれどれ!?」
「ほら、あの7個を砂時計みたいに結んで。3つがベルトで――」
「へぇ~!」
「それで上の方にあるのがベテルギウス、隣がプロキオンで下がシリウスを繋ぐと冬の……あれ、繋ぐのはリゲルだっけか?」
小学校で星座を少し勉強したけれど、まさか役立つとは思わなかったな。
「詳しいんだね、好きなの?」
「……別に、これの夏の大三角形しか知らないよ」
「もぉ~! 百瀬くん、目キラキラさせてたじゃん! 謙遜しなくてもいいのに!」
「……」
隣でケラケラと笑う声が聞こえる。果たして笑っているんだか、笑われているんだか……
「……なんかさ」
「どうした?」
間をとるように犬井さんは大きく息を吸った。
「こんなに綺麗なものを見るとさ、小さい不安とか悩みってどっかに行かない?」
「……そうかな?」
そういうものなのだろうか? ずっと考えて生きてきたからか、よく分からない。
でもまぁ、少しなら頷けるか。
「そうだよ! だからさ――」
車が通り過ぎていく中、ライトの灯りで彼女の笑う顔が照らされる。
隣を歩く彼女の横顔は、心なしか綺麗で――
「死んじゃうなんて、忘れちゃって欲しいな」
――は?
「……あれ、百瀬くん?」
何も知らないで、僕が死ぬ理由がその程度のものだとでも思っているのか。
母親が死んだ、目の前で。
僕の、この手で。
殺しておいてそれを隠している。そんな僕がのうのうと生きていい筈がない。
◇
宿の前についた。荒れる風が騒々しい。
「犬井さんは先に戻っててくれ。同意書を印刷してくる。宿のおばさんには遅れるって言っておいてくれ」
「あの、私もついてっちゃ――」
「頼むから今は一人にしてくれ」
「う、うん……」
そうして彼女を置いて僕はようやく一人になった。
シャツの張り付く感覚が鬱陶しい。車は目障りだ。音は全て耳障りだ。星が憎い。
五感が鋭くなって不快だ。1秒1秒が長い。
今の僕は人とぶつかったら掴みかかるだろう。もし犬井さんがついてきていたら当たり散らしていたかもしれない。
けれど人にも彼女にも当たるわけには行かない。権利がないし、彼女は事情を知らないだろ。
さっきから頭に血が通いすぎて脳が焼けるようだ。ついさっきまで死ぬことをすっかり忘れていた自分が恥ずかしい。
今は頭を冷やすべきなんだ。そして早く彼女のもとから去らなければ。僕はおかしくなる。
明日には死のう。
そのためには……彼女に嫌われなくては。




