9話 同じ席に座るだけですわ
翌日の昼休み、オクタヴィアは食堂へ向かいながら、昨日の自分が随分と気楽なことを考えていたものだと少しだけ後悔していた。
(席くらいありますわ、なんて……よくもまあ簡単に言えたものですわね)
隣を歩いているのはエレノアで、その少し後ろには昨日一緒に談話室へ来た二人の令嬢――ナタリア・ベルン子爵令嬢と、フェリシア・オルコット伯爵令嬢がいる。
昨日の話し合いがあったからか、三人とも今朝から以前より少しだけ遠慮がなくなっていたものの、それでも完全に元通りというわけではなく、ときおりオクタヴィアの顔色を窺う癖が残っているあたり、十五年間で出来上がった関係というものはそう簡単には変わらないらしい。
もっとも、それはオクタヴィアも同じだった。
今朝エレノアから髪飾りについて意見を求められたときなど、危うく「こちらの方がいいに決まっていますわ」と言い切るところだったのを思いとどまり、「わたくしはこちらが好みですけれど、あなたがつけるのでしょう」と言い直した。
たったそれだけのことなのに、エレノアが妙に嬉しそうな顔をしたのである。
(……今までのわたくし、本当に何をしていましたの?)
自分の好みを答えることと、相手の選択を決めることは違う。
ミレイユの件で学んだばかりなのに、十五年間染みついた考え方は、どうやら三日や四日で綺麗に消えてくれるほど都合よくできてはいないらしい。
「オクタヴィア様」
「何?」
「本当に、アーデン男爵令嬢もいらっしゃるのでしょうか」
エレノアが控えめに尋ねてくる。
「知りませんわ」
「知りませんの?」
「昨日だって、わたくしが呼んだわけではありませんもの」
「ですが、お二人でお食事をされていたのでしょう?」
「向こうから声をかけてきたのです。わたくしも断る理由がありませんでしたから、一緒に食べただけですわ」
「……そうなのですね」
エレノアはまだ何か言いたそうだったが、それ以上は口にしなかった。
「何?」
「いえ」
「昨日申し上げたでしょう。言いたいことがあるなら言いなさい」
「では……以前のオクタヴィア様なら、同じ席につくことすらお許しにならなかったと思います」
「以前のわたくしの話を始めたら何も進みませんわよ」
「それはそうですが」
エレノアが少し困ったように答える。
昨日、意見があるなら言えと伝えたばかりなのだから、こうして口にしてくれるだけでも進歩なのだろう。
問題は、その内容を聞いた自分が腹を立てずにいられるかどうかである。
(……何ですの、この修行のような日々は)
悪役令嬢をやめるというのは、もっと単純なものだと思っていた。
人を虐めず、嫌がらせもせず、エドガーへ過剰に執着することもやめ、ゲームで自分がやった悪事を避けていけば、それで破滅から遠ざかれると思っていたのに、実際には昨日までの自分が作った人間関係を一つずつ見直し、自分の言葉や考え方の癖まで直さなければならないのだから、想像していたより遥かに面倒である。
そんなことを考えているうちに食堂へ着き、いつもの窓際の席へ向かう。
昨日オクタヴィアが一人で座っていた卓には十分な数の椅子があり、四人で座ってもまだ余裕があった。
「今日は、こちらで?」
「ええ」
エレノアたちが席に着き、オクタヴィアもその中央に腰を下ろす。
周囲に令嬢たちがいるという意味では三日前までの光景に近いはずなのに、今日は何となく別のものに感じられた。
少なくとも今ここにいる三人は、昨日の話をしたうえで、それでも一緒に食事をしたいと言ってくれた者たちだ。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「あの、オクタヴィア様」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
(来ましたわね)
昼食の載った盆を持ったセシリアが、少し緊張した様子で立っていた。
昨日とは違い、オクタヴィアの周囲にはエレノアたちがいる。
セシリアも今朝自分を囲んでいた令嬢たちを忘れてはいないらしく、いつもの明るい表情を浮かべながらも、昨日のように当然とばかりに近づいてくることはなかった。
「何?」
「昨日はご一緒させていただきましたけれど……今日は、その……」
セシリアが空いている席へちらりと視線を向ける。
「わたしも、ご一緒してよろしいでしょうか?」
昨日より随分と遠慮がちだ。
当然だろう。
この卓には公爵令嬢であるオクタヴィアだけでなく、伯爵令嬢二人と子爵令嬢までいるのだから、地方男爵家の娘であるセシリアが何の躊躇もなく座れる方がおかしい。
「構いませんわ」
「ありがとうございます」
ほっとしたように頭を下げる。
だが席へ向かおうとして、今度はエレノアたちを見て足を止めた。
一方のエレノアたちも、見事なまでに固まっている。
「…………」
「…………」
誰も喋らない。
オクタヴィアは紅茶を一口飲んだ。
(……昨日のわたくしを殴りたいですわね)
なぜ簡単に「来たければ来ればいい」などと言ったのだろう。
とはいえ、今さらセシリアだけを立たせておくわけにもいかない。
「エレノア」
名前を呼ぶと、エレノアと目が合った。
昨日話したばかりなのだから、言いたいことは分かるだろう。
しばらく沈黙したあと、エレノアは僅かに息を吐いた。
「……わたくしは構いません。お座りになったらいかがですか、アーデン男爵令嬢」
「あ……ありがとうございます、バルディス伯爵令嬢」
セシリアが丁寧に頭を下げ、オクタヴィアの向かい側へ座る。
五人になった卓へ、何とも言えない沈黙が落ちた。
昨日は食べ物の話ばかりしていたセシリアすら今日は黙っており、ナタリアは料理だけを見つめ、フェリシアは時折エレノアの方へ視線を向け、当のエレノアは姿勢を正したまま、まるでこれから試験でも始まるかのような顔をしている。
(何ですの、これは)
自分が何とかしなければならないのだろうか。
別に親睦会を開いた覚えはなく、同じ卓で食事をしても構わないと言っただけなのだから、各自好きに食べればいいではないか。
「あの……」
最初に沈黙へ耐えられなくなったのは、意外にもセシリアだった。
「何でしょう」
答えたのはエレノアである。
「昨日は、きちんとご挨拶できませんでしたので」
セシリアは一度姿勢を正した。
「改めまして、セシリア・アーデンと申します。昨日は色々ありましたけれど、これから同じ学院で過ごすことになりますので……よろしくお願いいたします」
差し出されたのは、あまりにも普通の挨拶だった。
だからこそ、エレノアは少し意外そうな顔をした。
「……エレノア・バルディスです。こちらはフェリシア・オルコット伯爵令嬢と、ナタリア・ベルン子爵令嬢」
「よろしくお願いいたします」
フェリシアとナタリアもそれぞれ会釈を返す。
それで終わるのかと思ったところで、エレノアがセシリアへ向き直った。
「それと、昨日のことですが」
セシリアの表情に僅かな緊張が戻る。
「はい」
「……申し訳ありませんでした」
オクタヴィアは思わずエレノアを見た。
昨日、謝れとは言っていないし、今朝もそんな話はしていないのだから、これはエレノア自身が考えて決めたことなのだろう。
「オクタヴィア様に叱られたから申し上げているわけではありません。昨日、わたくしなりに考えましたし……五人で一人を囲んだことについては、確かにやりすぎでした」
「エレノア」
「何でしょう」
「最後の一言が余計ですわ」
「ですが、全てわたくしが悪かったとはまだ思っておりませんので」
思った以上に正直になった。
昨日「意見があるなら言え」と言ったのは自分だが、ここまで早く効果が出るとは思っていなかった。
「……まあ、よろしいですわ。続けなさい」
エレノアは少し不思議そうにしたものの、再びセシリアへ向き直る。
「わたくしは今でも、身分の違いを全く気にする必要がないとは思っておりませんし、誰とでも同じように接するべきだとも思っていません。ですが、それと昨日わたくしたちがしたことは別だと考えましたので、そのことについては謝罪します」
セシリアはしばらく黙って聞いてから、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。正直に申し上げれば、昨日のことを何とも思っていないわけではありませんけれど……こうして謝っていただけたことは、嬉しいです」
「……そう」
「はい」
仲直りなどという綺麗な言葉で片づけるには、まだ早いのだろう。
エレノアはセシリアを完全に受け入れたわけではなく、セシリアだって昨日のことを忘れたわけではないが、昨日は一方が囲み、もう一方が床に座り込んでいた二人が、今日は同じ卓で向かい合って言葉を交わしているのだから、それだけでも十分な変化なのかもしれない。
「ところで」
少しして、エレノアがセシリアの手元へ目を向けた。
「はい?」
「そのパン……スープへ浸して召し上がるのですか?」
セシリアが自分の手元を見る。
パンを小さくちぎり、南瓜のスープへ少しだけ浸していた。
「あ……申し訳ありません。家ではよくこうして食べていたので、つい」
「別にわたくしへ謝る必要はありませんが、学院では控えた方がよろしいかと」
「はい。気をつけます」
セシリアは少し恥ずかしそうにパンを皿へ戻した。
その様子を見ていたオクタヴィアは、思わず口を挟む。
「別にそこまで目くじらを立てるほどでもないでしょう」
「オクタヴィア様?」
「正式な晩餐の席ならともかく、ここは学院の食堂ですもの。多少のことは構わないのではなくて?」
エレノアが意外そうな顔をする。
セシリアまで驚いていた。
「……何ですの?」
「いえ」
セシリアは慌てて首を振る。
「オクタヴィア様は、もっと厳しくおっしゃるかと思っていました」
「わたくしだって場所くらい考えますわよ」
そう答えたものの、三日前までの自分ならどうだっただろうと考え、少し自信がなくなる。
もしかすると、真っ先に注意していたかもしれない。
しかもエレノアより遥かに嫌味な言い方で。
(……考えるのはやめましょう)
過去の自分を思い返すたびに頭が痛くなる。
「でも」
セシリアが少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「何のお礼ですの?」
「庇ってくださったので」
「別に庇ってはいませんわ。わたくしの意見を言っただけです」
「はい」
「……何ですの、その笑顔は」
「何でもありません」
何となく納得できない。
だが、これ以上追及するほどのことでもないだろう。
そんな二人のやり取りを見ていたフェリシアが、口元を僅かに緩めた。
「何?」
オクタヴィアが尋ねると、フェリシアは慌てて姿勢を正した。
「申し訳ありません。その……オクタヴィア様が、こんなふうにお話しされるところをあまり見たことがありませんでしたので」
「こんなふうとは?」
「その……楽しそうに、と申しますか」
「…………」
オクタヴィアは眉を寄せる。
「わたくしは以前から普通に会話くらいしていましたわよ」
エレノアたち三人が、揃って何とも言えない顔をした。
「何ですの、その反応は」
今度は誰の台詞か疑いようもなく、オクタヴィアが三人を見回している。
「いえ、何でもございません」
エレノアが代表するように答えた。
「言いたいことがあるなら言いなさいと、昨日申し上げましたわよね?」
「では申し上げますが、以前のオクタヴィア様との会話は、もう少し……緊張いたしました」
「…………」
「もちろん、今でも緊張はしております」
「付け足さなくて結構ですわ」
フェリシアが小さく笑い、ナタリアもつられたように口元を緩める。
オクタヴィアは少しだけ不満だったが、不思議と腹は立たなかった。
昨日までなら、自分が何かを言えば周囲がそれに合わせて笑っていたのに、今日は誰かが自分へ意見を言い、それを聞いた別の誰かが笑っている。
中心にいるのは同じでも、その意味は随分と違うような気がした。
「皆さん、オクタヴィア様と長いお付き合いなのですね」
セシリアが少し羨ましそうに言う。
「ええ。幼い頃から夜会やお茶会で何度もご一緒しております」
エレノアが答えると、セシリアは素直に感心したように頷いた。
「だから、オクタヴィア様のことをよくご存じなのですね」
「……どうでしょう」
「エレノア?」
「昨日、少し分からなくなりましたので」
エレノアはそう言ってから、オクタヴィアを見る。
「ですが、知らなかったのなら、これから知ればよろしいのでしょう?」
「…………」
昨日の話を踏まえているのだと分かった。
オクタヴィアは一瞬返事に迷ったものの、やがて小さく頷く。
「そうですわね」
それを聞いたエレノアが、ほんの少し笑った。
セシリアは二人の間に何があったのか知らないため、不思議そうに見ていたが、事情を尋ねるようなことはしなかった。
オクタヴィアは紅茶へ口をつけながら、卓を囲む少女たちを改めて眺める。
昨日までは同じ席につくことすらなかった者たちが、今はこうして一つの卓を囲んでいるからといって、突然全員が友人になったわけではなく、エレノアたちにはまだセシリアへの戸惑いがあり、セシリアにも彼女たちへの警戒が残っている。
それでも、無理に仲良くなる必要などないのだろう。
同じ場所に座り、少しずつ言葉を交わし、その中で相手がどんな人間なのかを知っていけばいい。
(……わたくしも同じですわね)
エレノアたちのことも、セシリアのことも、自分は知っているつもりでいただけなのかもしれない。
そして向こうもまた、これまでのオクタヴィアしか知らない。
ならば、これから知ればいい。
エレノアが言った通り、それだけのことなのだろう。
そう考えれば、昨日までなら考えられなかったこの奇妙な昼食も、案外悪いものではなかった。




