8話 わたくしのせいではないと言い切れませんわ
午後の授業が終わった頃には、オクタヴィアは少し疲れていた。
授業そのものが大変だったわけではなく、入学初日ということもあって学院内での規則や今後の予定についての説明がほとんどだったのだが、それ以外のところで朝から随分と気を使っていたらしい。
(……見られていますわね)
教室を出て廊下を歩いている間にも、あちらこちらから視線を感じる。
入学前日に腰まであった黒髪を突然切っただけでも十分目立つというのに、今朝はセシリアを囲んでいた令嬢たちを止め、昼にはそのセシリアと二人で食事までしたのだから、十五年間かけて作り上げてきたオクタヴィア・ローゼンフェルトの評判を知っている者ほど、いったい何が起きたのかと気になるのだろう。
廊下ですれ違う令嬢たちがこちらを見ては何かを囁いているのを横目に、オクタヴィアは小さく息を吐いた。
(皆さん、他に考えることはありませんの?)
そう思う一方で、仕方がないとも思っている。
昨日まで傲慢だった人間が今日から少し振る舞いを変えたところで、周囲が即座に「改心したのですね」と納得するはずもなく、むしろ何か企んでいると疑われる方が自然だろうし、自分だって逆の立場なら間違いなく警戒する。
だから視線そのものは構わない。
好きなだけ見ればいいし、そのうち飽きるだろう。
そんなことを考えながら玄関ホールへ向かおうとしたところで、背後から声をかけられた。
「オクタヴィア様」
足を止めて振り返ると、三人の令嬢が立っている。
見覚えがあるというより、今朝セシリアを囲んでいた五人のうち三人であり、その中央にいる薄い金髪を丁寧に巻いて青いリボンでまとめた少女は、少し吊り上がった琥珀色の瞳に明らかな緊張を浮かべていた。
「……エレノア」
「はい」
エレノア・バルディス伯爵令嬢。
同い年で、十歳頃から夜会や茶会で顔を合わせることが多く、ここ数年はオクタヴィアの周囲にいる令嬢たちの中でも特に近い位置にいた少女だった。
友人と、今朝までなら何の疑問もなく呼んでいただろう。
けれど昼食を一人で取ったことで、これまで自分の周囲にいた令嬢たちは本当に自分と親しくしたくてそこにいたのか、それとも公爵令嬢の機嫌を損ねないためにいただけなのかと考えてしまった今は、その言葉を使っていいのか分からない。
「何か御用?」
「少し、お話ししたいことがございます」
いつもより硬い声でそう言ったエレノアの後ろでは、残る二人も落ち着かない様子でこちらを見ている。
「ここでは駄目なの?」
「できれば……」
エレノアが周囲へ視線を向けると、廊下にはまだ多くの生徒が残っていた。
「分かりましたわ」
オクタヴィアはそれ以上聞かず、三人を連れて近くの小さな談話室へ向かった。
◇
「それで?」
談話室へ入り、オクタヴィアが窓際に立つと、エレノアたちは少し離れたところに並んだ。
以前ならもっと近くにいたはずなのに、今日は妙に距離がある。
「今朝のことです」
「セシリア・アーデンの件?」
「はい」
エレノアは頷いたあと、少し迷うように視線を伏せた。
「……わたくしたち、何かお気に障ることをいたしましたでしょうか」
「しましたわね」
即答すると、三人の顔が揃って強張る。
「五人で一人を囲んでいたでしょう。見苦しいですわ」
「ですが……」
エレノアは何かを言いかけたものの、そのまま口を閉じた。
「何?」
「……申し上げてもよろしいでしょうか」
「そのために来たのでしょう。おっしゃい」
促されてもなお少し迷っていたが、やがて意を決したように顔を上げる。
「以前のオクタヴィア様なら、お怒りにはならなかったと思います。それどころか、あのような者がオクタヴィア様のお近くへ来ないようにするのは、当然のことだと思っておりました」
「あのような者?」
「男爵家の娘です。それも、地方から出てきたばかりの」
その言葉に胸の奥で小さな不快感が生まれたものの、それを理由にエレノアだけを責めることはできなかった。
「それを、誰から教わりましたの?」
「え?」
「男爵令嬢だから軽く扱っても構わない、わたくしの近くへ来させない方がいい――そう考えるようになったのは、誰を見ていたから?」
エレノアは黙り込み、後ろの二人も視線を落とした。
答えなど聞くまでもない。
「……わたくしですわね」
「オクタヴィア様」
「違いますの?」
誰も答えなかったが、それが何より明確な答えだった。
クラリッサを遠ざけ、ミレイユのドレスを笑い、自分より家格の低い令嬢には気に入らなければ平然と冷たい態度を取り、エドガーへ近づく令嬢がいれば不快感を隠そうともしなかった。
オクタヴィア本人が直接命令しなくても、周囲はそうした振る舞いを見ながら、何をすれば彼女が喜ぶのか、誰を嫌えば気に入られるのか、誰を遠ざければ褒められるのかを少しずつ学んでいったのだろう。
(……随分と立派な教育をしてきたものですわね)
笑えない話だった。
「今朝のことについては、あなた方が悪いですわ。わたくしが今までどうだったとしても、五人で一人を囲んだのはあなた方自身ですから、そこまで全部わたくしの責任にされては困ります」
「……はい」
「ですが、わたくしのせいではない、とも言えませんわね」
三人が揃ってこちらを見る。
「あなた方が、わたくしなら喜ぶと思ってあのようなことをしたのなら、その考えを持たせた責任の一端はわたくしにあります」
「オクタヴィア様は、何も命じておられません」
「命じなければ責任がないのなら、随分と楽ですわね」
アーデン家のことと同じだ。
取引をやめろと命令したわけでも、ミレイユのドレスを皆で笑えと命令したわけでも、クラリッサを完全に孤立させろと命令したわけでもないが、それでも自分の言葉や態度を見た周囲が動き、その結果として傷ついた人間がいる。
「ただし、勘違いしないで。これから何かをするたびに、『オクタヴィア様なら喜ぶと思ったから』などと言い訳をするのはおやめなさい。あなた方には自分で考える頭があるでしょう」
少し厳しい言い方になったが、必要なことだと思った。
「わたくしも、自分が何を言うか考えるようにします。ですからあなた方も、自分が何をするかくらい自分で考えなさい」
「……はい」
エレノアは小さく答えたものの、まだ何か言いたそうにしている。
「他にもあるのでしょう?」
「…………」
「言いなさい」
しばらく迷ったあと、エレノアは意を決したように口を開いた。
「わたくしは……オクタヴィア様のお役に立ちたかったのです」
予想していなかった言葉に、オクタヴィアは僅かに眉を上げる。
「わたくしの?」
「はい。初めてお茶会へ呼んでいただいたとき、わたくし、とても嬉しかったんです」
何年前だったかと記憶を探れば、確か十一歳頃、ローゼンフェルト家で開かれた少女たちの茶会にエレノアを招いたことがあった。
「オクタヴィア様は、そのときわたくしの髪飾りを褒めてくださいました」
「……そうでしたかしら」
「覚えていらっしゃらないのですか?」
少し傷ついたような顔をされ、オクタヴィアは言葉に詰まる。
覚えていなかった。
自分にとっては、その程度のことだったのだろう。
「……ごめんなさい。覚えていませんわ」
嘘をついて話を合わせるよりはましだと思って正直に答えると、エレノアは少し寂しそうに笑った。
「そうですか。でも、わたくしは覚えています。オクタヴィア様のような方に褒めていただけたことが、本当に嬉しかったので」
「…………」
「それから、もっとお近くにいたいと思いました。オクタヴィア様のお役に立てれば、また褒めていただけるかもしれないと思って……」
そこで言葉が途切れ、オクタヴィアも何も言えなくなった。
自分にとって何気ない一言が、相手にとっては何年も覚えているほど大切なものだったらしい。
ミレイユのときは何気なく吐いた言葉が相手を長く傷つけたのに、今度は何気なく褒めた言葉が相手にとって嬉しい記憶として残っているのだから、言葉は人を傷つけるだけではないという当たり前のことを、今さら教えられているような気分だった。
「今朝も、あの方がオクタヴィア様の近くへ来れば、きっとお気に召さないと思いました。だから先にわたくしたちが注意しておけば、喜んでいただけるのではないかと……」
「わたくしが喜ぶと思った?」
「……はい」
オクタヴィアは目を閉じた。
悪意だけでやっていたのなら、二度とするなと言えば済む。
けれどエレノアは、自分なりにオクタヴィアのために動いていたらしい。
もちろん方法は間違っているのだから肯定することはできないが、だからといってその気持ちまで踏みにじるのも違う気がした。
「エレノア」
「はい」
「あなたがわたくしのためを思っていたことは分かりました。ですが、それでも今朝のことを褒めるつもりはありません」
「……はい」
「わたくしに気に入られるために、他の誰かを傷つける必要などありませんわ」
「でも、わたくしは……」
「それに、あなたはわたくしの友人なのでしょう?」
「え?」
エレノアの目が大きくなる。
言った本人も少し驚いた。
今までなら迷わずそう呼んでいたのに、昼食のときにはその言葉を使っていいのか分からなくなっていた。
「違いましたの?」
「い、いえ!」
エレノアは慌てて首を振る。
「違いません。わたくしは、その……そう思っております」
「なら、わたくしの機嫌を取ることばかり考えるのはおやめなさい。わたくしが間違ったことを言ったら、間違っていると言えばいいでしょう」
そう口にした瞬間、クラリッサの顔が浮かんだ。
あの女は昔からそれをやっていたからこそ腹が立ったし、今でも可愛げがないとは思っているが、少なくともオクタヴィアの顔色だけを見て意見を変えるようなことはなかった。
「そんなことをしたら、以前のオクタヴィア様なら怒っておられました」
エレノアが恐る恐る言う。
「でしょうね」
「…………」
「何ですの、その顔は」
「認められるのですね」
「事実ですもの。ですから、わたくしもあなた方に意見された程度でいちいち腹を立てないよう努力しますわ」
「程度……」
「何?」
「いえ」
後ろにいた令嬢の一人が僅かに笑ったので、オクタヴィアがそちらを見ると慌てて口元を押さえた。
「今、笑いましたわね?」
「も、申し訳ございません!」
「……まあ、よろしいですけれど」
以前なら、その程度でも不機嫌になっていたかもしれないと思うと、本当に面倒な人間だった。
「ただし、わたくしが何を言っても反対しろという意味ではありませんわよ。わたくしの方が正しいことも多いでしょうから」
「…………」
「何です、その沈黙は」
「いえ。オクタヴィア様だなと思いまして」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
ほんの少しだけ、エレノアの表情から緊張が消えた。
それを見てオクタヴィアも肩の力を抜いたが、もちろんこれで何もかも解決したとは思っていない。
エレノアが明日から突然何でも意見できるようになるわけではないだろうし、オクタヴィアだって誰かに反論されるたび穏やかに受け入れられる自信などなく、十五年間かけてできた関係を変えるのなら、それなりの時間が必要なのだろう。
「それでは、今日は帰りますわ」
話は終わったと判断して扉へ向かったところで、エレノアに呼び止められた。
「オクタヴィア様」
「何?」
「明日のお昼は……ご一緒してもよろしいでしょうか」
オクタヴィアは少し目を瞬いた。
今日、自分は一人で昼食を取っていて、エレノアたちは遠くからこちらの様子を窺っていた。
その理由が、少しだけ分かった気がする。
「……好きになさい」
「はい」
エレノアが嬉しそうに笑う。
オクタヴィアも談話室を出ようとして、ふと思い出したように振り返った。
「ただし、セシリアが来ても追い払いませんわよ」
「…………」
三人の表情が揃って固まった。
「何ですの?」
「いえ」
「何か言いたいことがあるなら、言いなさいと今申し上げたばかりでしょう」
エレノアは非常に言いにくそうな顔をしたものの、先ほどの話を思い出したのか、恐る恐る口を開く。
「……なぜ、アーデン男爵令嬢までいらっしゃるのでしょうか」
「さあ?」
「さあ?」
「今日も勝手に来ましたもの。明日も来るかもしれないでしょう」
「……お誘いになったわけではないのですか?」
「違いますわ」
「では、なぜ……」
「わたくしが聞きたいです」
心の底からそう思っているオクタヴィアを前に、エレノアたちは互いに顔を見合わせた。
「とにかく、来たければ来ればいいでしょう。席くらいありますわ。それと、今朝のようなことは二度となさらないで」
「はい」
今度の返事には迷いがなかった。
「では、また明日」
「はい。オクタヴィア様」
談話室を出て廊下を歩きながら、オクタヴィアは小さく息を吐いた。
(……疲れましたわ)
人間関係というものは、どうしてこんなにも面倒なのだろう。
以前なら、気に入った相手を近くへ置き、気に入らなければ遠ざけ、自分に従う者を好んで逆らう者を嫌えば、それだけでよかった。
けれど今は、その近くにいた者たちが何を考えていたのかまで気になってしまう。
エレノアは自分のために動いていたうえ、たった一度髪飾りを褒めたことを何年も覚えていたというのに、その一方では自分が喜ぶと思って誰かを傷つけてもいたのだから、どれか一つだけを見て彼女を良い人間とも悪い人間とも決めることはできない。
(ゲームなら、もっと簡単でしたのに)
好感度が上がるか下がるか、攻略対象なのかライバルなのか、友人なのか悪役なのかと、画面の中では誰にでも分かりやすい役割が与えられていた。
けれど現実の人間は、そんなに簡単には分けられないらしい。
「……面倒ですわね」
そう呟きながらも、不思議と嫌ではなかった。
明日の昼食は今日より少し賑やかになるだろうし、セシリアが本当に来るかは知らないうえ、エレノアたちが彼女と仲良くできるかも分からないのだから、おそらく簡単にはいかない。
(まあ、喧嘩を始めたら止めればいいでしょう)
その程度に考えながら、オクタヴィアは玄関ホールへ向かった。
翌日の昼食が自分の想像より遥かに面倒なことになるとは、このときの彼女はまだ知らなかった。




