6話 最初から違いますわ
セシリア・アーデンを東棟まで送り届けたあと、オクタヴィアは自分の教室へ向かっていた。
入学初日から見知らぬ男爵令嬢を案内することになるとは思わなかったが、少なくとも最初の遭遇で彼女を虐めるという最悪の展開だけは回避できたのだから、結果としては上出来だろう。
(ええ。上出来ですわ)
三日前までの自分なら、間違いなくあの場でセシリアを叱りつけていた。それをしなかったどころか、彼女を囲んでいた令嬢たちまで止めたのだから、昨日まで悪役令嬢だった女の初日としては十分すぎる成果ではないだろうか。
もっとも、一つだけ気になることはある。
セシリアを東棟まで案内すると決めたときにも考えたことだが、本来なら彼女はあのあと誰かと出会うはずだった。
攻略対象の一人。
そこまでは覚えている。
しかし肝心の相手が誰だったのかが、どうにも出てこない。
(誰でしたかしら)
エドガーではなかったはずだ。
彼との最初の大きなイベントはもう少し後だったような気がする。
他にも攻略対象は何人かいたし、それぞれに出会いの場面が用意されていたため、十五年ぶりに前世の記憶を取り戻した頭では細かな順番まで咄嗟には出てこない。
(まあ、そのうち思い出すでしょう)
オクタヴィアはさほど深刻に考えず、そのまま廊下を進んだ。
自分がセシリアを案内すれば、何かしら原作から外れる可能性があることは分かったうえでやったのだ。
だからといって、困っている少女をわざと迷わせてまで、ゲームと同じ展開にするつもりはない。
そもそも原作通りに進んだ結果、自分は破滅するのである。
その未来を変えようとしている人間が、一つイベントを変えた程度で慌てるというのもおかしな話だろう。
ただ、誰だったか思い出せないというのは少々気持ちが悪い。
歩きながら、もう一度ゲームの序盤を思い返す。
入学式を終えたセシリアは教室の場所が分からず、西棟へ迷い込む。
そこでオクタヴィアの取り巻きとぶつかり、囲まれる。
ゲームのオクタヴィアが現れ、男爵令嬢である彼女を見下すような言葉を浴びせ、そのまま取り巻きを連れて立ち去る。
残されたセシリアは再び一人で教室を探し始めるのだが、当然ながら西棟にいるのだから、いくら歩いても目的の場所には辿り着けない。
そこへ通りかかったのが――。
(……無愛想な方でしたわね)
他人に興味がなく、口数も少ない。
迷子になったセシリアから道を尋ねられても、最初は方向だけ教えて立ち去ろうとする。
しかし彼女が全く逆の方向へ歩き出したため、結局放っておけずに東棟まで案内することになる。
そして道中、セシリアが何かを話しかけても、ほとんど「そうか」「知らない」「好きにしろ」で会話を終わらせる。
(……あ)
そこまで思い出して、ようやく顔と名前が繋がった。
(レオンハルトですわ)
レオンハルト・ヴァイス。
ヴァイス侯爵家の嫡男であり、『花冠の乙女と銀の誓い』に登場する攻略対象の一人。
侯爵家の跡取りとして文武ともに優秀だが、人付き合いを面倒がる性格のせいで学院では少々近寄りがたい存在として扱われていた青年だ。
本来なら先ほどオクタヴィアがやったことを、彼がするはずだった。
(なるほど。わたくし、レオンハルトの役目を奪いましたのね)
だからといって、今からセシリアを西棟へ連れ戻して放置するわけにもいかない。
第一、そこまでして原作を再現しようとする方がどうかしている。
同じ学院へ通うのだから、レオンハルトとセシリアが縁のある二人なら、そのうち別の場所で出会うだろう。
そう結論づけたところで、前方から聞き覚えのある声がした。
「何を一人で難しい顔をしているんだ?」
オクタヴィアは顔を上げた。
「……殿下」
エドガーがいた。
どうやら向こうも教室へ向かう途中だったらしく、こちらへ歩いてくる。
そして、その隣にはもう一人。
背の高い青年がいた。
灰銀色の髪。
整ってはいるものの、愛想というものをほとんど感じさせない顔立ち。
つい先ほど前世の記憶から引っ張り出したばかりの人物が、何事もなかったかのようにエドガーの隣を歩いている。
「…………」
「どうした?」
「いえ」
オクタヴィアは青年を見る。
青年もこちらを見る。
(噂をすれば、ですわね)
レオンハルト・ヴァイス。
本来なら今頃、セシリアと知り合っているはずの人物だった。
「そういえば、二人はきちんと話したことがなかったかな」
エドガーが二人を見比べながら言った。
「レオンハルト・ヴァイス。ヴァイス侯爵家の嫡男で、僕の友人だ」
「存じていますわ」
家同士の付き合いもあるため、顔を見たことくらいはある。ただ、個人的に話した記憶はほとんどなかった。
「オクタヴィア・ローゼンフェルトです。もっとも、わたくしのこともご存じでしょうけれど」
「ああ」
それだけだった。
「…………」
「…………」
「…………」
エドガーが二人を交互に見る。
「終わり?」
「何がですの?」
「挨拶」
「終わりましたわ」
「そうか……」
何が不満なのだろう。
必要なことは全て伝わったはずである。
しかしオクタヴィアには、それより気になることがあった。
目の前にいるレオンハルトは、当然ながらセシリアのことを何も知らない。
ゲームでは、この時点で二人は既に顔見知りになっていた。
レオンハルトにとっては、入学初日に道を尋ねてきた妙な少女。
セシリアにとっては、無愛想だけれど結局最後まで案内してくれた親切な先輩。
そんな小さな印象が、既に互いの中に残っているはずだった。
けれど今は、それがない。
(……本当に、変わったのね)
分かっていた。
セシリアを案内すると決めた時点で、少なくとも一つのイベントが変わる可能性があることは。
それでも、こうして本来そこにいたはずの人物を目の前にすると、ゲームから外れたという事実が急に現実味を帯びてくる。
たった一度。
自分が違う行動をしただけで、画面の中では必ず起きていた出来事が、もう起きていない。
「……何だ?」
レオンハルトの声で我に返った。
「何が?」
「さっきから俺を見ている」
「あら。失礼」
「何かあるのか?」
「少し考え事をしていただけですわ」
「俺の顔を見ながら?」
「お気になさらないで」
「気になるだろう」
もっともだった。
オクタヴィアは一瞬、どう答えるべきか考える。
あなたは先ほど、蜂蜜色の髪をした男爵令嬢と運命の出会いをする予定でしたの、と教えるわけにはいかない。
(……いっそ、セシリアのところへ向かわせれば)
ほんの一瞬、そんな考えが浮かんだ。
今からでもレオンハルトを東棟へ行かせれば、二人は出会うかもしれない。
けれど。
(何を考えていますの、わたくし)
それでは自分が裏から二人を動かしているだけではないか。
セシリアが誰と出会い、誰と親しくなるかは彼女自身の人生であり、レオンハルトも同じだ。
自分がゲームを知っているからといって、他人の出会いまで原作通りに並べ直す権利があるわけではない。
「やはり何でもありませんわ」
「そうか」
レオンハルトはそれ以上追及しなかった。
こういうところはゲームと同じらしい。
他人への興味が薄いのである。
「それにしても」
今度はエドガーがオクタヴィアを見る。
正確には、その髪を。
「まだ見慣れないな」
「また髪の話ですの?」
「昨日まで腰まであったんだから仕方ないだろう」
すると、それまで興味がなさそうだったレオンハルトまでオクタヴィアの髪へ視線を向けた。
「本当に切ったんだな」
「あなたまで?」
「今朝から噂になっている」
「入学初日だというのに、皆さん随分と暇ですのね」
「第二王子の婚約者が、入学前日に突然髪を切ったんだ。何かあったと思うのは普通だろう」
「何もありませんわよ」
「そうなのか?」
「ええ。わたくしが切りたかったから切った。それだけです」
正確には、それだけではない。
けれど理由を説明するつもりはなかった。
過去を忘れないために切りました、などと口にすれば、その過去とは何だと聞かれるに決まっている。
「似合っている」
不意にレオンハルトが言った。
オクタヴィアは目を瞬いた。
「……ありがとう」
「長い頃よりいい」
「そこまで言われると、以前の髪型を貶されているようで腹が立ちますわね」
「褒めたつもりだ」
「あなた、褒めるのが下手ですわよ」
「よく言われる」
「でしょうね」
今度は口に出した。
レオンハルトは特に気を悪くした様子もない。
エドガーだけが、二人のやり取りを妙なものでも見るように眺めている。
「何ですの?」
「いや。意外と話が合いそうだと思って」
「どこを見てそう思ったのです?」
「俺もそう思う」
「あなたまで何をおっしゃっていますの?」
「言いたいことをそのまま言うところが似ている」
「一緒にしないでくださる?」
「そういうところだ」
腹が立つ。
初対面に近い相手だというのに、なぜここまで遠慮がないのだろう。
もっとも、自分も似たようなものだと言われれば否定しきれない。
「ところでオクタヴィア」
エドガーが口を挟んだ。
「教室はそっちじゃないけど」
「…………」
オクタヴィアはゆっくりと廊下の先を見る。
次に、自分が歩いてきた方向を見る。
「……知っていますわ」
「じゃあ、なぜこっちへ?」
「少し考え事をしていましたの」
「それで道を間違えた?」
「間違えていません」
「でも――」
「間違えていませんわ」
「……分かった」
分かっていない顔だった。
隣ではレオンハルトが僅かに口元を緩めている。
「何がおかしいの?」
「別に」
「笑いましたわね?」
「笑っていない」
「嘘おっしゃい」
「気のせいだ」
腹が立つ。
しかし、これ以上言い合っていて本当に教室へ遅れるのはもっと腹立たしい。
「失礼しますわ」
踵を返し、今度こそ自分の教室へ向かう。
数歩進んだところで、背後からエドガーの声が飛んできた。
「オクタヴィア」
「まだ何か?」
「そっちは中庭だよ」
「…………」
オクタヴィアは止まった。
前を見る。
確かに廊下の先には、明るい日差しと木々が見えている。
教室はない。
「……学院の構造が悪いですわ」
「そういうことにしておこう」
「笑わないでくださる?」
「笑ってないよ」
「殿下もレオンハルトも笑っていますわよ!」
結局、教室の近くまでエドガーに案内されることになった。
◇
昼休み。
オクタヴィアは食堂の窓際にある席で、一人昼食を取っていた。
初日の授業は学院の規則や施設についての説明が中心だったため、特に難しいことはなかったのだが、午前中だけでも随分と色々なことがあった気がする。
セシリアと出会い、原作では彼女を虐めるはずだった場面で取り巻きを止め、そのまま東棟まで案内した。
結果として、レオンハルトとの最初のイベントは起きなかった。
そして先ほど本人と話したことで、それが単に「イベントを一つ飛ばした」というだけではないのだと、少しずつ実感し始めている。
(この先も、変わるのでしょうね)
当然だ。
最初の出会いが違えば、その次の会話も変わる。
今日出会うはずだった二人が出会わなかったことで、明日起こるはずだった何かが起こらなくなるかもしれないし、逆にゲームにはなかった出来事が起こるかもしれない。
それがどこまで続くのかは、オクタヴィアにも分からない。
(……困りましたわね)
ゲームの知識が使えなくなること自体は、少々困る。
自分がどのような行動を取った結果、破滅へ向かうのかを事前に知っていることは大きな利点だった。
しかし。
(だからといって、原作通りに戻すというのも違いますわ)
セシリアとレオンハルトを無理やり会わせる。
エドガーとのイベントが起きるように仕向ける。
他の攻略対象についても、ゲーム通りの場所へセシリアを連れていく。
そんなことを始めれば、自分は他人の人生を勝手に動かしているだけだ。
それでは、以前の自分と何が違うのだろう。
自分の都合で周囲を動かし、その結果が相手にとってどういう意味を持つのか考えもしなかった。
三日前まで散々やってきたことだ。
「……やめましょう」
小さく呟いた。
ゲームの知識は使う。
危険を避けるためにも、これから起こる可能性があることを知っているのなら参考にすればいい。
けれど、それは未来をその通りに並べるためのものではない。
少なくとも、自分以外の人間までゲーム通りに動かそうとはしない。
(セシリアが誰と仲良くしようが、本人の自由ですもの)
レオンハルトと出会わないなら、それも一つの未来。
明日出会うなら、それも一つ。
他の誰かを好きになるなら、それも本人が選ぶことだ。
エドガーと――。
「…………」
そこで思考が止まった。
エドガーと恋仲になった場合も、本人たちの自由。
そう続けようとしたのだが、どうにも素直に飲み込めない。
(……そこは少し話が違いますわね)
現在進行形で自分の婚約者なのだから、完全に好きにしてくださいとは言えない。
昨日、自分がエドガー本人を好きなのか、それとも第二王子の婚約者という立場が好きだったのか分からないと考えたばかりだが、だからといって婚約中に他の令嬢と恋仲になられて笑顔で祝福できるほど達観してもいない。
(まあ、それは実際にそうなってから考えればよろしいでしょう)
まだ初日である。
セシリアとエドガーは、まともに話してすらいない。
今から悩む必要などない。
そう結論づけ、オクタヴィアは紅茶へ手を伸ばした。
「あの……」
すぐ近くから声がした。
顔を上げる。
蜂蜜色の髪。
明るい緑色の瞳。
昼食の載った盆を両手で持ったセシリアが、なぜか目の前に立っていた。
「……セシリア?」
「はい」
「どうしてここに?」
「食堂なので、お昼を食べに」
「それは見れば分かりますわ」
「あ、そうですよね」
セシリアは少し恥ずかしそうに笑った。
オクタヴィアは周囲を見る。
席なら他にも空いている。
わざわざ自分のところへ来る理由が分からない。
「それで、何か御用?」
「はい。あの……」
セシリアは空いている向かいの椅子を見てから、オクタヴィアへ視線を戻した。
「一緒にお昼を食べてもいいですか?」
「…………」
聞き間違いだろうか。
「わたくしと?」
「はい」
「なぜ?」
あまりにも率直に聞いてしまった。
しかしセシリアは気を悪くするどころか、不思議そうに首を傾げる。
「今朝、助けていただいたので」
「助けたつもりはありませんわよ」
「でも、あの方たちを止めてくださったでしょう?」
「五人がかりで一人を囲んでいるのが見苦しかっただけです」
「それでも、わたしは助かりました」
「…………」
そう言われると、否定しにくい。
「それに、教室まで案内していただきましたし」
「東棟の入口までですわ」
「ほとんど教室です」
「違います」
「そうなんですか?」
「そうですわ」
なぜそこを議論しているのだろう。
セシリアはそんなことを気にした様子もなく、もう一度椅子を見る。
「駄目ですか?」
「…………」
オクタヴィアはセシリアを見る。
ゲームの主人公。
本来なら今日、レオンハルトと出会い、少しずつ攻略対象たちとの関係を築いていく少女。
その彼女が今、自分と昼食を食べたがっている。
(……待ちなさい)
原作と違っても構わない。
つい先ほど、そう決めた。
他人をゲーム通りに動かすつもりもない。
セシリアが誰と親しくするかは本人の自由。
間違いなくそう考えた。
考えたのだが。
(なぜ、わたくしの方へ来ますの?)
違う。
そういう意味ではなかった。
攻略対象以外の友人を作るなと言うつもりはないが、よりにもよって最初に選ぶ相手が自分である必要もないだろう。
悪役令嬢である。
しかも彼女の実家であるアーデン男爵家へ、過去に迷惑までかけている。
もっとも、セシリア本人がその件をどこまで知っているのかは分からない。
「……お好きになさい」
結局、それしか言えなかった。
「ありがとうございます!」
セシリアが嬉しそうに向かいの椅子へ座る。
その笑顔を見ながら、オクタヴィアは何とも言えない気分で紅茶を口へ運んだ。
(まあ、昼食くらいなら)
一度一緒に食べるだけだ。
これで何かが大きく変わるわけでもない。
そもそも既に一つイベントを変えているのだから、今さら昼食の相手が変わった程度で驚く必要もないだろう。
「そういえばオクタヴィア様」
「何?」
「髪、とても綺麗ですね」
オクタヴィアの手が止まった。
「……短いでしょう?」
「はい。でも、とてもお似合いです。艶々していて綺麗だなって、朝から思っていました」
「…………そう」
今日一日、何人もの人間に髪のことを言われた。
驚かれ、理由を聞かれ、何かあったのかと勘繰られた。
けれどセシリアだけは、長かった頃の自分を知らない。
だから、ただ今の髪を見て綺麗だと言った。
「ありがとう」
自然に言葉が出た。
セシリアがまた笑う。
オクタヴィアはその顔を見ながら、ふと思った。
原作から外れること自体は、もう仕方がない。
自分が違う生き方を選んだ以上、その先が違うものになるのは当然なのだから。
ただ。
(……初日から外れすぎではありませんこと?)
物語が始まって、まだ半日。
本来なら主人公を虐めているはずの悪役令嬢は、なぜかその主人公と向かい合って昼食を食べていた。
オクタヴィアは、自分が想像していたよりもずっと早く、『花冠の乙女と銀の誓い』という物語が知らない形へ変わり始めていることを、ようやく理解し始めていた。




