4話 捨ててはいけない過去
学院への入学を翌日に控えた朝、オクタヴィアのもとへ一通の手紙が届いた。
差出人は、ミレイユ・ハーシェル子爵令嬢。
昨日、マリアンヌに頼んで面会を申し込んだ相手であり、オクタヴィアが過去に傷つけた令嬢の一人でもある。
「ミレイユ様からお返事が届いております」
「思っていたより早かったわね。こちらへ」
マリアンヌから封筒を受け取り、オクタヴィアは早速封を切った。
昨日のクラリッサのこともあるため、断られたとしても不思議ではないと思っていたのだが、どうやらミレイユは会ってくれるらしい。
そこまではよかった。
問題は、その次だった。
「……屋敷ではありませんのね」
思わず呟くと、隣に控えていたマリアンヌが首を傾げた。
「何と書かれているのですか?」
「今日の午後二時、こちらの菓子店でお会いしたいそうですわ」
手紙を差し出すと、マリアンヌはそこに記された店名へ目を落とした。
王都の中心部から少し離れた場所にある、貴族令嬢たちもよく利用する店だった。
「なるほど。ハーシェル子爵邸ではなく、外でお会いしたいということですね」
「ええ」
オクタヴィアは椅子の背へ身を預け、少し考える。
普通なら、貴族同士が個人的に話をするのであれば、どちらかの屋敷へ招く方が自然だろう。それをわざわざ人目のある店に指定してきたということは、少なくとも自分と二人きりになることを歓迎してはいないらしい。
「……警戒されていますわね、わたくし」
「クラリッサ様の件を考えれば、当然ではないでしょうか」
「あなた、本当に遠慮がなくなりましたわね」
「お嫌でしたか?」
そう聞かれて、オクタヴィアは返事に詰まった。
以前なら間違いなく嫌だっただろう。使用人が主人に意見するなど生意気だと考え、場合によっては担当を外していたかもしれない。
けれど今は、マリアンヌがこうして率直に話すようになったことを、そこまで不快には感じていなかった。
「……今のところは許しますわ」
「ありがとうございます」
「ただし、調子に乗ったら減給します」
「お嬢様に使用人の給与を決める権限はございません」
「……そうでしたの?」
「はい」
知らなかった。
公爵令嬢なのだから、その程度は自由になるものだと思っていた。
「では、解雇しますわ」
「最終的に判断されるのは旦那様です」
「わたくし、思っていたより権力がありませんのね」
「それでも十分すぎるほどお持ちかと」
言われてみれば、その通りなのだろう。
オクタヴィアは再び手紙へ視線を落とした。
ミレイユ・ハーシェル。
彼女とはクラリッサほど激しく揉めたわけではなく、むしろ以前は比較的近しい関係だった。
二年ほど前までは同じ茶会に参加することも多く、オクタヴィアが声をかければ嬉しそうに近づいてきた少女だったと記憶している。それなのに、いつの間にか社交の場で姿を見なくなった。
理由も覚えている。
「……ドレス、でしたわね」
「はい」
ある夜会で、ミレイユは淡い黄色のドレスを着ていた。
当時流行していた形ではなく、どちらかといえば素朴な意匠だったが、彼女自身はとても気に入っているようだった。
それを見たオクタヴィアは、皆の前でこう言った。
『随分と田舎臭いドレスですこと。わたくしなら、とても人前には出られませんわ』
ただ、それだけだった。
命令したわけでも、誰かに彼女を無視するよう言ったわけでもないため、当時のオクタヴィアは自分が何か悪いことをしたとすら思っていなかった。
しかし翌日からミレイユのドレスは令嬢たちの間で笑いものになり、似た意匠の服を着ていた者まで慌てて仕立て直した。それどころか、王都の仕立屋では「あの形はローゼンフェルト公爵令嬢がお嫌いらしい」という話まで広まったという。
そしてミレイユは、社交の場へほとんど姿を見せなくなった。
「わたくしは、ただ感想を言っただけだったのですけれどね」
そう口にすると、マリアンヌは少し困ったような顔をした。
「それが問題なのではないでしょうか」
「どういう意味?」
「お嬢様がおっしゃる『ただの感想』を、周囲の方々はただの感想として受け取れないということです」
オクタヴィアは黙った。
それは昨日まで考えたこともなかった。
自分が何かを嫌いだと言えば、周囲もそれを嫌いだと言う。誰かを褒めれば、その人物へ近づこうとする者が増える。
昔から当たり前の光景だったため、深く考えたことがなかった。
「……面倒ですわね」
「公爵令嬢でございますから」
「好きなものを好き、嫌いなものを嫌いと言うこともできませんの?」
「もちろんできます。ただ、お嬢様の場合、その言葉が他の方より少し重いのかと」
少し、ではない気もする。
昨日クラリッサのことを考えたときにも、似たようなことを感じた。
自分は直接命令しなくても人を孤立させることができたし、商人へ何も命じなくてもアーデン男爵家との取引を減らすことができた。そしてドレスを一着馬鹿にしただけで、一人の令嬢を社交の場から遠ざけることさえできた。
(……便利だと思っていましたわ)
自分の言葉一つで周囲が動くことを、当然のように受け入れていた。
それが公爵令嬢というものだと信じていたし、自分がそれだけ高い場所にいる証明だとすら思っていた。
けれど、その言葉で傷つく人間のことなど考えたことがない。
「行きましょう」
「はい?」
「ミレイユに会いに行くのでしょう。考えていたら気が重くなってきましたから、これ以上考える前に行きますわ」
「まだ午前十時ですが」
「…………」
「お約束は午後二時です」
「分かっていますわよ」
勢いよく立ち上がりかけたオクタヴィアは、何事もなかったかのように座り直した。
◇
午後二時。
指定された菓子店の個室へ入ると、ミレイユは既に待っていた。
淡い金茶色の髪を肩のあたりで揃えた、小柄な少女だった。
オクタヴィアの姿を見るなり立ち上がったものの、その表情には明らかな緊張が浮かんでいる。
「お、お久しぶりでございます。オクタヴィア様」
「ええ。久しぶりね、ミレイユ」
「どうぞ、お掛けください」
「あなたも座って」
二人で向かい合って腰掛ける。
昨日のクラリッサとは違い、ミレイユは露骨に敵意を向けてくることはなかったが、その代わり、ひどく怯えていた。視線は落ち着かず、膝の上に置かれた両手には力が入っている。
それを見ていると、オクタヴィアの方まで居心地が悪くなってくる。
「……そんなに緊張しなくてもよろしいのよ」
「はい」
「別に怒りに来たわけではありませんわ」
「はい」
「あなた、先ほどから『はい』しか言っていませんわよ」
「申し訳ございません」
今度は謝られた。
(……どうしたらいいのかしら)
クラリッサなら遠慮なく言い返してくるので、ある意味では楽だった。
何を言っても怯えられる方が、ずっと話しにくい。
オクタヴィアは一度紅茶へ口をつけてから、本題へ入ることにした。
「二年前の夜会のことを覚えていらっしゃる?」
ミレイユの肩が僅かに強張った。
「……はい」
「あなたが黄色いドレスを着ていた夜です」
「覚えております」
「わたくしが、そのドレスについて失礼なことを言いましたわね」
ミレイユは答えなかったが、否定しないということは、やはり覚えているのだろう。
「あのときのことを謝りたくて、今日はお呼びしました。皆の前であなたのドレスを馬鹿にしたことも、それによってあなたがどのような思いをするか考えなかったことも、わたくしが悪かったと思っています。申し訳ありませんでした」
昨日よりは、少しだけ自然に言えた。
謝罪に慣れるというのも妙な話だが、少なくとも言葉に詰まることはなかった。
ミレイユはしばらく俯いていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……母が作ってくれたものだったんです」
オクタヴィアは顔を上げた。
「あのドレスです。母は刺繍が好きで、胸元にあった花も全部母が縫ってくれたものでした。王都では少し古い形だということも分かっていましたけれど、わたしはとても気に入っていて……だから、あの日初めて着たんです」
「……そうだったの」
「オクタヴィア様に褒めてもらえるかもしれないと思っていました」
その言葉が胸に刺さった。
「なぜ、わたくしに?」
「憧れていたからです」
思いもしなかった答えに、オクタヴィアは言葉を失う。
「オクタヴィア様はいつも綺麗なドレスを着ていて、皆さんの中心にいらして、何をしても堂々としていて……わたしとは全然違いましたから」
ミレイユは少しだけ笑ったが、その笑顔は寂しそうだった。
「だから、オクタヴィア様に素敵だと言ってもらえたら嬉しいなって思っていました。でも、田舎臭いって言われてしまって……そのあと、他の方からも笑われるようになりました。お茶会へ行ってもドレスの話をされるんじゃないかと思うと怖くなって、だんだん行かなくなったんです」
今までオクタヴィアは、あの日のことを自分がミレイユを馬鹿にした出来事としてしか覚えていなかった。
そのドレスを誰が作ったのかも、ミレイユがどんな気持ちで着ていたのかも、まして自分に褒めてほしいと思っていたことなど知るはずもない。
知ろうともしなかった。
「でも、わたしも少し逃げすぎたんだと思います」
「それは違いますわ」
気づけば、すぐに言葉が出ていた。
ミレイユが驚いたようにこちらを見る。
「あなたが社交の場へ出られなくなったことまで、あなた自身のせいにする必要はありません。少なくとも、そのきっかけを作ったのはわたくしですもの。それに、五人や十人から馬鹿にされた程度で気にするなと言うのは、馬鹿にしていない側だから言えることですわ。実際に笑われていたあなたが辛かったと言うのなら、辛かったのでしょう」
そこまで言ってから、オクタヴィアは少し眉を寄せた。
「……もっとも、わたくしなら全員黙らせますけれど」
「え?」
「何でもありませんわ」
危ない。
せっかくまともなことを言ったのに、最後で台無しにするところだった。
しかしミレイユは、なぜか小さく笑った。
本当に小さな笑いだったが、今日初めて見せた自然な表情だった。
「……やっぱり、オクタヴィア様ですね」
「どういう意味ですの?」
「いえ」
「最近、皆さんそればかりですわね」
不満そうに言うと、今度は先ほどより少しだけ大きく笑われた。
どうにも納得できないが、最初に会ったときよりは表情が柔らかくなっている。
「オクタヴィア様」
「何?」
「わたしは……謝っていただけて、嬉しいです」
昨日のクラリッサとは正反対の言葉だった。
「そう」
「はい」
「……でしたら、よかったわ」
それ以上、気の利いた言葉は出てこなかった。
許してもらえたのだと思うと、確かに少しだけ胸が軽くなる。
けれど同時に、奇妙な居心地の悪さも残っていた。
「ミレイユ、一つだけ聞いてもよろしくて?」
「もちろんです」
「あのドレスは、まだお持ちなの?」
ミレイユの表情が曇った。
「……はい。でも、あれから一度も着ていません」
「そう」
オクタヴィアは少し考えた。
「でしたら、学院で着る機会があれば着ていらっしゃい」
「え?」
「わたくしが言うのも妙ですけれど、あなたが気に入っているのでしょう?」
「でも……また笑われるかもしれません」
「誰が?」
「え?」
「誰が笑うのかと聞いていますの。その方のお名前を教えてくだされば、わたくしが――」
そこまで言って、オクタヴィアは口を閉ざした。
今まさに「わたくしが黙らせます」と言おうとした。
それでは何も変わっていない。
小さく咳払いをして誤魔化し、言い直す。
「とにかく、あなたがお好きなら着ればよろしいでしょう。他人の好みまで気にしていたら、何も着られなくなりますわ」
「オクタヴィア様は……変だと思いませんか?」
「二年前のわたくしは、そう思ったのでしょうね」
「今は?」
聞かれて、オクタヴィアは少し考えた。
正直に言えば、今でも自分の好みではない。前世の記憶を取り戻したからといって、服の趣味まで変わったわけではないのだ。
「わたくしなら選びませんわ」
ミレイユの顔が僅かに強張る。
「ですが、あなたが着るのでしょう?」
「……はい」
「でしたら、わたくしの好みなど関係ありませんわ。あなたが好きなら、それでよろしいのではなくて?」
ミレイユが目を見開き、しばらく何も言わずにオクタヴィアを見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
その声は、最初に聞いたものより少しだけ明るかった。
◇
帰りの馬車で、オクタヴィアは窓の外を眺めていた。
昨日とは違い、今日の謝罪は受け入れてもらえた。
それなのに、不思議と晴れやかな気分にはならなかった。
「マリアンヌ」
「はい」
「わたくし、自分が思っていたより面倒な立場にいるようですわ」
「今さらでございますね」
「あなた、本当に解雇しますわよ」
「旦那様へご相談くださいませ」
もう何も言うまい。
オクタヴィアはため息をつくと、流れていく王都の街並みへ視線を戻した。
「わたくしは、ただドレスが気に入らないと言っただけでした。でも、周りの方々はそれを真似してミレイユまで笑うようになった。わたくしは誰にも命令していないのに」
「それだけ、お嬢様の言葉を気にされる方が多いのでしょう」
「……本当に面倒ですわね」
好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言うだけでも、それを周囲が勝手に意味のあるものへ変えてしまう。
だからといって、何も言わずに生きていくつもりはない。それでは自分ではなくなってしまう。
「でも、覚えておいた方がよさそうですわね。わたくしが何か言えば、それを理由に動く人間がいるということを」
クラリッサを孤立させたときも、アーデン男爵家との取引が減ったときも、そしてミレイユのドレスが笑いものになったときも、自分自身が直接何かをしたわけではない。
けれど、その始まりにはオクタヴィアの言葉があった。
ならば、これからは少しくらい考えてから口を開いた方がいい。
(……できるかしら)
自信はない。
昨日まで十五年間、思ったことをそのまま口にして生きてきたのだから、一日や二日で完璧に変われるはずもない。それでも、知らなかった頃よりはましだろう。
「お嬢様、明日はいよいよ学院ですね」
言われて、オクタヴィアは窓の向こうに見える白い尖塔へ目を向けた。
王立セレファイス学院。
前世で遊んだ『花冠の乙女と銀の誓い』の舞台であり、セシリア・アーデンと攻略対象たちが出会う場所。
そして本来なら、オクタヴィア・ローゼンフェルトが破滅への道を歩き始める場所でもある。
三日前に前世を思い出したときには、あまりにも時間が足りないと思ったし、実際に足りなかった。
クラリッサとミレイユに謝っただけで、過去に傷つけた全員へ会うことなどできなかった。悪評が消えたわけでもなければ、エドガーとの関係に答えが出たわけでもない。
それでも、この三日間が無意味だったとは思わない。
謝ったところで許してくれない人がいることを知り、逆に謝罪を待っていた人がいることも知った。そして何より、自分が何気なく口にした言葉一つで、誰かの人生を変えてしまうことがあると初めて理解した。
公爵令嬢という立場も、オクタヴィア・ローゼンフェルトという人間も、思っていた以上に面倒らしい。
けれど、今さら別の誰かになることなどできないのだから、この立場のまま少しはまともに生きてみるしかない。
そんなことを考えているうちに馬車は公爵邸へ到着し、オクタヴィアは自室へ戻った。
◇
「明日の制服、もう準備してありますわね?」
「もちろんでございます」
夕刻。
学院へ持っていく荷物を確認するマリアンヌへ声をかけると、彼女は手を止めることなく答えた。
「装飾品はいかがなさいますか? 以前お選びになっていたものがございますが」
「そのままで結構ですわ。別に地味になる必要はありませんもの」
「承知いたしました」
「それから、マリアンヌ」
「はい」
そこでオクタヴィアは、自分の髪へ触れた。
腰まで届く黒髪。
幼い頃から丁寧に手入れされ、社交界でも美しいと褒められてきた髪だった。
オクタヴィア自身も気に入っている。
鏡の前で侍女たちに梳かしてもらう時間も好きだったし、夜会のたびに髪型を考えることも楽しかった。
だからこそ。
「髪を切りますわ」
荷物を確認していたマリアンヌの手が止まった。
「……はい?」
「聞こえなかったの? この髪を切ると言ったのです」
「毛先を整えるということでしょうか」
「いいえ」
オクタヴィアは鏡の前へ立つと、自分の髪を片手ですくい上げた。
「短くしてちょうだい。肩にもかからないくらいに」
鏡越しに、マリアンヌが完全に固まっているのが見えた。
「お嬢様」
「何?」
「本気でございますか?」
「冗談で髪を切ると言うほど暇ではありませんわ」
「ですが、この髪を……?」
「ええ」
マリアンヌが近づき、黒髪へそっと触れる。
彼女自身も、幼い頃から何度となくこの髪を梳かしてきたのだ。
「お嬢様は、この髪をとても大切になさっていたではありませんか」
「今でも大切ですわ」
「でしたら、なぜ?」
聞かれて、オクタヴィアは鏡の中の自分を見た。
腰まで届く黒髪に、紫色の瞳。
前世で何度も見た悪役令嬢そのものの姿が、そこにいる。
けれど、今ここにいる自分はゲームの中のオクタヴィアではないし、だからといって三日前までの自分が消えてなくなったわけでもない。
「……お嬢様」
マリアンヌが少し躊躇いながら尋ねる。
「過去を、お捨てになるためですか?」
「いいえ」
答えはすぐに出た。
「捨てられるものなら楽でしょうけれど、残念ながら、わたくしがしてきたことは髪と一緒に床へ落ちてはくれませんもの」
クラリッサを孤立させたことも、ミレイユを傷つけたことも、アーデン男爵家へ迷惑をかけたことも消えない。
長い髪を切ったところで、それまでのオクタヴィアが別人になるわけでもない。
そんな都合のいい話ではないだろう。
「では、なぜ……?」
「忘れないためですわ」
マリアンヌが目を瞬く。
「明日から、少し違う生き方をすると決めましたの。でも、わたくしのことですから、そのうち腹を立てて全部忘れてしまうかもしれないでしょう?」
「……否定できません」
「そこは否定なさい」
「申し訳ございません」
思わず睨んだものの、すぐに小さく笑ってしまった。
「ですから、鏡を見るたびに思い出せるものが一つくらいあってもよろしいでしょう。わたくしが自分で決めたことを」
マリアンヌはしばらく何も言わなかった。
やがて、長い黒髪をもう一度撫でる。
「……本当に、よろしいのですね?」
「何度言わせるつもり?」
「かしこまりました」
しばらくして、鋏が用意された。
オクタヴィアは鏡台の前へ腰掛け、マリアンヌが髪を丁寧に梳かしていくのを眺めていた。
長い黒髪が背中へ流れる。
十五年間伸ばしてきた髪だ。
ここまで短くするのは、生まれて初めてだった。
「参ります」
「ええ」
鋏の音がした。
束ねられていた髪が切り離され、長い黒髪がマリアンヌの手の中へ残る。
思っていたより、何も感じなかった。
寂しくなるかと思っていたし、後悔するかもしれないとも思った。けれど鏡の中で少しずつ姿を変えていく自分を見ていると、不思議と気持ちは落ち着いていた。
マリアンヌが丁寧に長さを整え、最後に前髪を少し横へ流す。
やがて全てが終わった。
「……いかがでしょうか」
鏡の中には、見慣れない少女がいた。
艶やかな黒髪は首元で綺麗に揃えられ、以前よりも紫色の瞳がはっきりと目立っている。長い髪に縁取られていた頃より顔立ちが鋭く見えるせいか、どこか凛々しい印象になった。
それでも、間違いなくオクタヴィアだった。
「…………」
「お嬢様?」
オクタヴィアは右を向き、左を向き、最後に正面から自分の姿を眺めた。
「……悪くありませんわね」
マリアンヌが吹き出した。
「何がおかしいの?」
「いえ。お嬢様なら、そうおっしゃると思っておりました」
「当然でしょう。元がいいのですから、髪が短くなった程度で美貌が損なわれるはずありませんもの」
「はいはい」
「マリアンヌ?」
「申し訳ございません」
まったく反省しているようには見えなかった。
オクタヴィアはもう一度、鏡の中の自分を見る。
昨日までとは違う姿。
けれど、別人になったわけではない。
過去を捨てたわけでも、オクタヴィア・ローゼンフェルトであることをやめたわけでもなく、むしろこれまでの自分がしてきたことも、自分が傷つけた人たちも、そのすべてを背負ったうえで、明日から何をするのかを自分で選ぶために切ったのだ。
「これでよろしいですわ」
オクタヴィアは鏡の中の自分へ向かって、ほんの少し笑った。
明日から学院生活が始まり、前世で知っている物語も始まる。
けれど、もう画面の中と同じオクタヴィアではない。
長い黒髪の悪役令嬢は、もう鏡の中にはいなかった。
そこにいるのは、首元で揃えた黒髪と紫色の瞳を持つ、一人の少女。
オクタヴィア・ローゼンフェルト。
過去は変えられない。
ならばせめて、これから先を変えていく。
その決意だけは、明日の自分にも、その先の自分にも忘れさせるつもりはなかった。




