24話 王宮の庭園に咲く花は、皆同じではありませんわ
王宮の園遊会当日。
ローゼンフェルト公爵邸の玄関前には、朝から慌ただしい空気が漂っていた。
磨き上げられた馬車が正面玄関に横づけされ、使用人たちが最後の確認を進める中、オクタヴィア・ローゼンフェルトは自室の鏡の前で静かに息を吐いた。
深い紫色のドレスには、裾から袖口にかけて繊細な銀糸の刺繍が施されている。光の加減によって青みを帯びる絹地は、動くたびに柔らかな輝きを放ち、短い黒髪に飾った銀の小花ともよく馴染んでいた。
「……どうかしら、マリアンヌ」
「大変お美しゅうございます、お嬢様」
「それは昨日も聞きましたわ」
「本日も変わらぬ感想でございますので」
澄ました顔で答える侍女に、オクタヴィアは思わず笑った。
「あなた、最近は本当に口が達者になりましたわね」
「お嬢様ほどではございません」
「……それはどういう意味かしら?」
マリアンヌは微笑むばかりで答えない。
オクタヴィアは小さく肩をすくめ、もう一度鏡へ向き直った。
以前なら、王宮へ向かう日は期待で胸がいっぱいだった。エドガーの隣に立ち、誰よりも美しく着飾り、自分こそが第二王子の婚約者なのだと周囲へ示すことばかり考えていたからだ。
けれど、今日は少し違う。
楽しみな気持ちはある。自分で選んだドレスも気に入っているし、エドガーとともに準備を進めた園遊会がどのようなものになるのか、純粋に興味もあった。
ただ、それと同じくらい緊張していた。
(……まったく。これほど緊張するなんて、以前のわたくしが聞いたら笑うでしょうね)
オクタヴィアは鏡の中の自分へ小さく微笑みかけた。
そのとき、扉の向こうから出発の準備が整ったとの知らせが届く。
「参りましょうか、マリアンヌ」
「はい、お嬢様」
差し出された薄手の手袋を受け取り、オクタヴィアは部屋をあとにした。
◇
王宮の庭園は、春の花々に彩られていた。
白い大理石の柱が並ぶ回廊の先には、丁寧に刈り込まれた生け垣と色鮮やかな花壇が広がり、中央の噴水からは澄んだ水音が響いている。庭園の各所には小さな卓が設けられ、既に到着した貴族たちが穏やかに談笑していた。
オクタヴィアは父アルベルトとともに会場へ足を踏み入れ、王宮の侍従へ招待状を示した。
すぐに案内役が現れ、彼女を庭園の奥へ導いていく。
エドガーは、白い花の咲く回廊のそばで待っていた。
淡い青を基調とした礼装に銀の飾緒を合わせた姿は、いかにも王子らしく端正で、近くにいた令嬢たちがそっと視線を向けている。
「オクタヴィア」
彼女に気づいたエドガーが、穏やかに微笑んだ。
「今日はよろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
丁寧に一礼すると、エドガーは彼女の装いへ目を向けた。
「……そのドレス、よく似合っているね」
オクタヴィアは僅かに目を瞬いた。
「ありがとうございます。自分で選びましたの」
「そうだったね。君らしくて、とても綺麗だと思う」
その言葉に、思わず口元が緩む。
「……殿下にそう言っていただけるなら、選んだ甲斐がございましたわ」
エドガーは少しだけ嬉しそうに笑った。
以前なら、彼から褒められたというだけで舞い上がっていただろう。しかし今は、自分の気に入ったものを、彼もよいと思ってくれたことが嬉しい。
似ているようで、少し違う。
そんなことを考えていると、背後から控えめな咳払いが聞こえた。
「殿下。そろそろ最初のお客様がお見えになります」
振り返ると、儀典官のクレインが書類を手に立っていた。
エドガーが頷く。
「分かった。では、始めようか」
「ええ」
オクタヴィアは背筋を伸ばした。
ここからは、第二王子の婚約者としての役目が始まる。
最初に挨拶へ訪れたのは、東部に領地を持つ侯爵夫妻だった。
昨年の洪水で一部の農地が被害を受けた家であり、事前の資料にも名前が記されていた。
「エドガー殿下。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
「こちらこそ、お越しいただき嬉しく思います。東部の復興も進んでいると伺いましたが、その後はいかがですか」
エドガーが穏やかに尋ねると、侯爵は少しだけ表情を和らげた。
「おかげさまで、主要な道路はほぼ復旧いたしました。ただ、農地については、まだ時間が必要でございまして」
「そうでしたか。ご苦労も多いことでしょう」
オクタヴィアは二人の会話を聞きながら、事前に確認した資料を思い出していた。
復興状況については尋ねてもよい。
ただし、補償や政策について軽々しく約束してはならない。
そう教えられていた。
「侯爵夫人」
オクタヴィアが穏やかに声をかけると、夫人がこちらを向いた。
「長旅でお疲れではございませんか? 東部から王都までは、随分と距離がございますでしょう」
「まあ、お気遣いありがとうございます。ですが、道中は穏やかでございましたよ」
「それは何よりですわ。王宮の庭園は今が見頃ですから、どうぞゆっくりお楽しみくださいませ」
夫人は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、ローゼンフェルト公爵令嬢」
その後も、挨拶は滞りなく続いた。
オクタヴィアは相手の家名や近況を思い出しながら会話を交わし、ときにはエドガーへ話題を繋ぎ、また別の場面では夫人たちとの歓談を受け持った。
決して難しい会話ばかりではない。
天候や庭園の花、最近の王都の様子など、穏やかな話題も多かった。
しかし、その一つ一つに気を配り続けることは、思っていた以上に疲れるものだった。
(……まだ始まったばかりですのに)
オクタヴィアは内心で小さくため息をついた。
(王子妃というのは、体力も必要なお仕事ですわね)
そのとき、隣にいたエドガーが小さな声で囁いた。
「大丈夫かい?」
「もちろんですわ」
オクタヴィアは微笑みを崩さずに答えた。
「ただ、少々喉が渇きましたわね」
「それなら、次の歓談まで少し時間がある。休憩しよう」
エドガーはクレインへ目配せし、近くの卓へ彼女を案内した。
用意された冷たい果実水を口にすると、オクタヴィアはようやく肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます、殿下」
「いや。僕も少し休みたかったところだよ」
エドガーは苦笑した。
「……殿下も?」
「もちろん。さすがに、あれだけ続けて挨拶をすれば疲れるさ」
オクタヴィアは思わず笑ってしまった。
「まあ。では、わたくしたちは似た者同士ですわね」
「そうかもしれないね」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その時間は、ほんの数分だった。
けれど、オクタヴィアにとっては不思議と心地よいものだった。
◇
午後に入ると、園遊会の雰囲気は少しずつ変わり始めた。
最初の挨拶が一段落し、招待客たちがそれぞれの知人と歓談する時間になったのだ。
エドガーは王宮の高官から声をかけられ、しばらく別の席へ向かうことになった。
「オクタヴィア、少し席を外すけれど、何かあればクレインに伝えてくれ」
「承知いたしました」
オクタヴィアは丁寧に頷き、彼を見送った。
さて、自分も少し休もうか。
そう思ったところで、背後から聞き覚えのある声がした。
「……ローゼンフェルト様」
振り返ると、そこにはクラリッサ・エルフォードが立っていた。
淡い水色のドレスを身につけ、栗色の髪を上品にまとめている。その表情は落ち着いていたが、以前と同じように、どこか距離を感じさせるものだった。
「クラリッサ様」
オクタヴィアは静かに微笑んだ。
「ごきげんよう。本日はよいお天気に恵まれましたわね」
「ええ。園遊会には相応しい日ですわ」
クラリッサは丁寧に一礼した。
その仕草には、何の問題もない。
けれど、二人の間には僅かな緊張が流れていた。
オクタヴィアは無理に会話を続けようとはしなかった。
以前のことを考えれば、クラリッサが自分と親しく話したいとは限らない。
必要な挨拶を交わしたなら、それで十分だ。
そう思っていたのだが、クラリッサの方が先に口を開いた。
「……本日は、殿下のお隣でお役目を務めていらっしゃるのですね」
「ええ。まだ未熟ですけれど、できる限りのことをしようと思っております」
「そうですか」
クラリッサは少しだけ視線を落とした。
そして、静かに続けた。
「……以前のあなたでしたら、もっと誇らしげに振る舞っていらしたでしょうね」
オクタヴィアは僅かに目を細めた。
その言葉には、責めるような響きはなかった。
ただ、過去の事実を確認するような静けさがあった。
「……そうですわね」
オクタヴィアは素直に頷いた。
「以前のわたくしなら、殿下のお隣に立てることを、何より誇らしく思っていたでしょう」
「今は違うのですか?」
「誇らしくないわけではございません。ただ、それだけでは務まらない立場なのだと、ようやく理解し始めたところですわ」
クラリッサは黙って聞いていた。
オクタヴィアは少しだけ微笑んだ。
「……随分と遅い気づきですけれど」
しばらく沈黙が流れた。
やがて、クラリッサが静かに口を開いた。
「……あなたが変わろうとしていることは、分かります」
オクタヴィアは顔を上げた。
「ですが、それで以前のことがなくなるわけではありません」
「……ええ」
「わたくしは、まだあなたを許したわけではございませんから」
その言葉は、はっきりとしていた。
けれど、オクタヴィアは動揺しなかった。
「承知しておりますわ」
静かに答える。
「わたくしがしたことを、なかったことにするつもりはございません」
クラリッサはしばらく彼女を見つめていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……そうですか」
それだけ言うと、彼女は丁寧に一礼した。
「では、失礼いたします」
「ええ。どうぞ、園遊会をお楽しみくださいませ」
クラリッサは静かに歩き去っていった。
その背中を見送りながら、オクタヴィアは小さく息を吐いた。
(……これで、よかったのでしょうね)
以前の自分なら、許してもらえないことに腹を立てていたかもしれない。
あるいは、相手の態度を冷たいと感じ、何とか自分の方へ振り向かせようとしただろう。
けれど今は、そう思わなかった。
クラリッサには、クラリッサの気持ちがある。
それを無理に変えようとすることは、また同じ過ちを繰り返すことになる。
オクタヴィアは静かに頷き、再び庭園へ視線を向けた。
そのときだった。
「……まあ、ローゼンフェルト公爵令嬢ではございませんこと」
背後から、聞き慣れない声がした。
振り返ると、そこには二人の貴婦人が立っていた。
一人は濃い緑色のドレスをまとった伯爵夫人らしき女性。もう一人は、淡い桃色の衣装を身につけた若い令嬢だった。
オクタヴィアは穏やかに微笑んだ。
「ごきげんよう」
すると、伯爵夫人が扇を口元へ当てた。
「本日は殿下のお隣で、随分とご立派にお務めになっていらっしゃいましたわね」
「恐れ入ります」
「以前は、少々お強いご気性だと伺っておりましたけれど……」
夫人は意味ありげに微笑んだ。
「最近は、随分とお変わりになったそうですわね」
オクタヴィアは僅かに目を細めた。
その言い方には、明らかに含みがあった。
けれど、驚きはしなかった。
こうした言葉を向けられる可能性は、事前に考えていたからだ。
「……ええ。以前のわたくしには、至らないところが多くございましたので」
オクタヴィアは穏やかに答えた。
「今は少しずつ、改めているところですわ」
伯爵夫人が僅かに眉を上げた。
「まあ。随分とご謙虚になられたのですね」
「謙虚というほどではございません。ただ、知らないことが多いと気づいただけですわ」
オクタヴィアは微笑んだ。
「本日も、皆様から学ばせていただくことが多くございますもの」
その返答に、夫人は一瞬だけ言葉を失った。
隣の令嬢も、少し驚いたようにオクタヴィアを見つめている。
やがて、伯爵夫人は小さく笑った。
「……そうですか。それは結構なことでございますわ」
それ以上、過去の話題を持ち出すことはなかった。
オクタヴィアは丁寧に挨拶を交わし、二人を見送った。
(……ふう)
内心で息を吐く。
正直に言えば、少しだけ疲れた。
しかし、不思議と嫌な気分ではなかった。
以前の自分がしてきたことを考えれば、こうした反応は当然だろう。
それに、今の自分には、言い返す以外の方法もある。
(……エレノアたちとの練習が、役に立ちましたわね)
そう思うと、少しだけ嬉しくなった。
◇
園遊会が終わりに近づいた頃。
オクタヴィアは庭園の端にある小さな東屋で、ようやく一息ついていた。
遠くからは、まだ招待客たちの談笑が聞こえてくる。
けれど、ここは少しだけ静かだった。
「……お疲れさま」
声に振り返ると、エドガーが立っていた。
「殿下」
「少し休んでいたのかい?」
「ええ。さすがに、少々疲れましたわ」
オクタヴィアは素直に答えた。
エドガーは小さく笑い、隣の椅子へ腰を下ろした。
「僕もだよ」
「まあ。殿下もですの?」
「もちろん。今日は随分と多くの方と話したからね」
オクタヴィアは思わず笑った。
「……王族というのは、本当に大変なお仕事ですわね」
「そうだね」
エドガーは穏やかに頷いた。
しばらく、二人は庭園を眺めていた。
春の花々が夕日に照らされ、柔らかな色合いを帯びている。
その光景を見つめながら、オクタヴィアはふと口を開いた。
「……殿下」
「何だい?」
「本日は、少しだけ分かったことがございますの」
「何がだい?」
オクタヴィアは静かに微笑んだ。
「王子妃という立場は、思っていた以上に難しいものなのだということですわ」
エドガーは黙って聞いていた。
「ただ美しく着飾り、殿下のお隣で微笑んでいればよいわけではございません。相手の立場を考え、言葉を選び、ときには自分の気持ちを抑えることも必要ですもの」
オクタヴィアは小さく息を吐いた。
「……以前のわたくしには、きっと務まりませんでしたわね」
エドガーはしばらく考えた。
そして、静かに口を開いた。
「……でも、今日の君は立派だったと思うよ」
オクタヴィアは顔を上げた。
「……そうでしょうか」
「ああ。君は一人一人の話をきちんと聞いていたし、無理に自分をよく見せようともしていなかった」
エドガーは穏やかに微笑んだ。
「僕は、そんな君と一緒に仕事ができてよかったと思っている」
オクタヴィアは少しだけ目を瞬いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その言葉は、素直に嬉しかった。
けれど、それだけで王子妃になりたいと思えたわけではない。
今日一日を通して、その立場の難しさを知った。
同時に、誰かの役に立てることの喜びも、少しだけ感じた。
だからこそ、簡単に答えを出すことはできなかった。
「……殿下」
「うん?」
「わたくし、まだ自分が王子妃になりたいのか、分かりませんの」
エドガーは驚いた様子を見せなかった。
ただ、静かに頷いた。
「……そうか」
「ええ。ですが、今日の経験は、無駄ではなかったと思います」
オクタヴィアは庭園へ視線を向けた。
「少なくとも、以前よりは少しだけ、自分の未来について考えられるようになりましたもの」
エドガーは穏やかに微笑んだ。
「……それなら、よかった」
しばらく沈黙が流れた。
けれど、その沈黙は不思議と心地よかった。
オクタヴィアは夕暮れの庭園を見つめながら、ふと考えた。
ここには、様々な花が咲いている。
白い花もあれば、赤い花もある。
背の高いものも、低いものもある。
それぞれが違う形で咲いているからこそ、庭園は美しいのだ。
(……人も、同じなのかもしれませんわね)
誰もが同じ立場を望むわけではない。
誰もが同じ未来を選ぶわけでもない。
そして、自分もまた、誰かが決めた未来をただ受け入れる必要はないのだ。
「……殿下」
「何だい?」
「本日は、ありがとうございました」
オクタヴィアは静かに微笑んだ。
「とても、よい経験になりましたわ」
エドガーも穏やかに笑った。
「こちらこそ。君がいてくれて助かったよ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
夕暮れの光が、庭園を柔らかく包んでいく。
王宮の園遊会は、こうして静かに幕を閉じようとしていた。
そしてオクタヴィアは、まだ答えの出ない未来を胸に抱えながらも、以前より少しだけ前を向けるようになっていた。




