23話 ドレスは誰のために選ぶものですの?
王宮の園遊会まで、あと十日。
ローゼンフェルト公爵邸の応接室には、朝から色とりどりの布地が並べられていた。
深い紅色、鮮やかな青、上品な金糸を織り込んだ白。どれも王都で評判の仕立て屋が用意した一級品であり、窓から差し込む春の日差しを受けて、それぞれが美しい光沢を放っている。
その光景を前に、オクタヴィア・ローゼンフェルトは腕を組んで考え込んでいた。
「……どれも素敵ですけれど、少々派手すぎませんこと?」
仕立て屋の女主人、マダム・ベルナールが驚いたように顔を上げた。
「まあ、お嬢様。以前でしたら、こちらの紅色を真っ先にお選びになったかと存じますが」
「そうでしたかしら」
「ええ。昨年の秋の舞踏会では、もっとも華やかなものをとご希望でしたので」
オクタヴィアは僅かに目を逸らした。
覚えている。
あのときは、エドガーの隣に立つ自分が誰よりも目立たなければならないと思っていた。ドレスの美しさよりも、周囲の視線を集めることばかり考えていたのだ。
(……今思えば、随分と疲れることをしておりましたわね)
もっとも、華やかな衣装そのものが嫌いになったわけではない。
美しいものは好きだし、公爵令嬢として相応しい装いをすることにも誇りがある。
ただ、以前のように誰かと競うためだけに選ぶのは、少し違うと思うようになった。
「マダム。もう少し落ち着いた色合いのものはございませんの?」
「もちろんでございます。こちらなどはいかがでしょう」
ベルナールが差し出したのは、淡い藤色の布地だった。
柔らかな光沢があり、光の当たり方によって僅かに銀色を帯びて見える。
オクタヴィアは思わず目を細めた。
「……綺麗ですわね」
「お嬢様の黒髪と紫の瞳にも、よくお似合いになるかと存じます」
傍らに控えていたマリアンヌも頷いた。
「わたくしも、こちらは素敵だと思います」
「そう?」
「はい。華美になりすぎず、それでいてお嬢様らしい気品がございます」
オクタヴィアは布地へそっと指を滑らせた。
確かに、美しい。
しかし、何かが少し違う気もした。
「……悪くはありませんけれど」
そう呟くと、ベルナールが首を傾げた。
「お気に召しませんか?」
「いいえ。ただ……」
オクタヴィアは少しだけ考えた。
淡い藤色は上品で、誰からも好まれそうな色だ。
けれど、先日友人たちと王都へ出かけた際にも、似た色のワンピースを着ていた。
あの日は楽しかった。
だからこそ、その思い出はあの日のものとして大切にしておきたい。
「……もう少し、違う色も見てみたいですわ」
ベルナールは微笑んだ。
「承知いたしました」
そして、持参した箱の奥から、新たな布地を取り出した。
それは、深い紫色だった。
夜空を思わせる落ち着いた色合いでありながら、光を受けると青みを帯びた美しい輝きが浮かび上がる。
オクタヴィアは思わず身を乗り出した。
「……まあ」
ベルナールが嬉しそうに微笑む。
「こちらは、今季新しく入荷した絹でございます。少々珍しい染め方をしておりまして、見る角度によって色の印象が変わりますの」
オクタヴィアは布地を手に取った。
指先に触れる感触は滑らかで、深い紫色は自分の瞳ともよく馴染む。
「……これがいいですわ」
思わず口にすると、ベルナールが目を輝かせた。
「まあ! お嬢様、こちらを?」
「ええ。とても気に入りました」
マリアンヌも穏やかに微笑んだ。
「よくお似合いになると思います」
オクタヴィアは満足げに頷いた。
以前なら、エドガーの好みを真っ先に尋ねていただろう。
けれど、先日の打ち合わせで彼は言っていた。
君が好きなものを選べばいい、と。
(……でしたら、遠慮する必要はございませんわね)
オクタヴィアは布地を見つめ、少しだけ微笑んだ。
「マダム。こちらでお願いいたします」
「かしこまりました。では、装飾はいかがいたしましょう?」
「そうですわね……」
オクタヴィアは少しだけ考えた。
「銀糸の刺繍を入れていただけるかしら。あまり大きな模様ではなく、裾や袖口に控えめに」
「素敵ですわね。宝石は?」
「小さなものを少しだけ。首元は、あまり飾りすぎない方がよろしいと思います」
ベルナールは何度も頷きながら、手元の紙へ素早く書き込んでいく。
その様子を見ていたマリアンヌが、ふと口を開いた。
「……お嬢様」
「何かしら?」
「今回のお衣装は、随分とご自分のお好みを大切になさっていらっしゃいますね」
オクタヴィアは僅かに目を瞬いた。
「……そうかしら」
「はい」
マリアンヌは穏やかに微笑んだ。
「以前は、殿下のお好みや周囲の評判を、何より気になさっておりましたから」
オクタヴィアは少しだけ頬を赤らめた。
「……昔のことを、いちいち持ち出さなくてもよろしいでしょう?」
「失礼いたしました」
そう答えながらも、マリアンヌの口元には笑みが浮かんでいる。
オクタヴィアは小さくため息をついた。
(……最近のマリアンヌは、少々遠慮がなくなっておりますわね)
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
◇
翌日の昼休み。
オクタヴィアは学院の食堂で、エレノアたちと昼食を取っていた。
「まあ! 深い紫色のドレスですの?」
エレノアが目を輝かせた。
「ええ。銀糸の刺繍を入れていただく予定ですわ」
「素敵ですわね! きっとオクタヴィア様によくお似合いになります!」
「まだ完成しておりませんわよ?」
「完成する前から分かりますもの!」
相変わらずの勢いに、オクタヴィアは思わず笑ってしまった。
フェリシアが紅茶のカップを置き、穏やかに口を開く。
「ですが、深い紫色というのはよい選択ですわね。王宮の庭園にも映えるでしょうし、何よりオクタヴィア様らしいと思います」
「そう言っていただけると嬉しいですわ」
ナタリアも小さく頷いた。
「わたくしも、ぜひ拝見したいです」
「……あなたは今回、出席なさらないのでしょう?」
「ええ。ですが、後日お話を伺うだけでも楽しみですもの」
ナタリアは穏やかに微笑んだ。
その言葉に、オクタヴィアは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
以前なら、園遊会へ出席できない相手に対して、わざわざ衣装の話をすることはなかっただろう。
自分が特別な場所へ招かれることを、誇示するような言い方をしていたかもしれない。
けれど今は、ただ友人たちと楽しい話をしているだけだ。
その違いが、少しだけ嬉しかった。
「……そういえば」
フェリシアがふと口を開いた。
「今回の園遊会には、エルフォード伯爵家も出席なさるそうですわね」
オクタヴィアの手が止まった。
「……ええ。名簿で確認しております」
クラリッサ・エルフォード。
以前、自分が理不尽な嫉妬から傷つけた令嬢。
謝罪はしたものの、彼女はまだ許してくれていない。
それは当然のことだと思っている。
けれど、園遊会で顔を合わせるとなれば、少しだけ緊張する。
「……クラリッサ様とは、お話しなさるおつもりですか?」
ナタリアが静かに尋ねた。
オクタヴィアは少しだけ考えた。
「……必要があれば、ご挨拶はいたしますわ」
そして、ゆっくりと続ける。
「ですが、無理に親しくしようとは思っておりませんの」
エレノアが少しだけ目を伏せた。
「……そうですわね」
「わたくしが謝罪したからといって、クラリッサ様が許してくださるとは限りませんもの。ましてや、王宮の園遊会という場で、過去のことを持ち出して困らせるわけにはまいりませんわ」
フェリシアが静かに頷いた。
「……それがよろしいと思います」
オクタヴィアは小さく微笑んだ。
クラリッサとの関係が、これからどうなるのかは分からない。
けれど、少なくとも今は、彼女の意思を尊重したいと思っている。
それが、以前の自分にはできなかったことだからだ。
◇
数日後。
完成したドレスが、公爵邸へ届けられた。
オクタヴィアは衣装室で着替えを終えると、大きな鏡の前に立った。
深い紫色の絹が、柔らかな光沢を放っている。
裾には繊細な銀糸の刺繍が施され、動くたびに小さな光が揺れるように見えた。
首元には控えめな宝石が一つ。
髪飾りも銀色の小さな花をあしらったもので、短い黒髪によく馴染んでいた。
「……まあ」
オクタヴィアは思わず微笑んだ。
「素敵ですわね」
マリアンヌが嬉しそうに頷く。
「とてもよくお似合いでございます、お嬢様」
「そう?」
「はい。華やかでありながら、落ち着いた気品がございます」
オクタヴィアは鏡の中の自分を見つめた。
以前の自分なら、もっと豪華な宝石を身につけ、誰よりも目立つ装いを選んでいただろう。
けれど、今のドレスも十分に美しい。
何より、自分自身が気に入っている。
「……これでよかったですわ」
そう呟くと、マリアンヌが穏やかに微笑んだ。
「お嬢様」
「何かしら?」
「殿下も、きっとお喜びになりますね」
オクタヴィアは少しだけ目を瞬いた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうだと嬉しいですわね」
マリアンヌが僅かに目を見開く。
以前なら、殿下が喜ぶに決まっていると、自信満々に言い切っていただろう。
けれど今は、ただ素直にそう思っている。
エドガーがこのドレスを見て、どんな反応をするのか。
それは少しだけ楽しみだった。
もっとも、彼のためだけに選んだわけではない。
自分が着たいと思ったから、このドレスを選んだのだ。
「……マリアンヌ」
「はい」
「わたくし、今回の園遊会は少し楽しみですわ」
マリアンヌは穏やかに微笑んだ。
「それは何よりでございます」
「もちろん、緊張もしておりますけれど」
オクタヴィアは鏡の中の自分を見つめた。
王宮の園遊会。
第二王子の婚約者として、多くの貴族たちの前に立つ日。
そこでは、これまでの自分の評判を知る者たちとも顔を合わせることになる。
きっと、好意的な視線ばかりではないだろう。
けれど、それでも構わない。
今の自分にできることを、一つずつ果たしていけばよいのだ。
「……さて」
オクタヴィアは小さく微笑んだ。
「準備は整いましたわね」
窓の外では、春の風が庭園の花々を揺らしている。
王宮の園遊会まで、あと三日。
オクタヴィアは鏡の中の自分を見つめながら、静かに息を整えた。
かつては、誰よりも美しく、誰よりも注目されることを望んでいた。
けれど今は、少し違う。
誰かと競うためではなく、自分自身が胸を張って立つために。
そのための一着を、ようやく選ぶことができたのだった。




