22話 婚約者のことを、何も知りませんでしたわ
王宮から届いた二通目の書状には、園遊会当日の進行表とともに、第二王子エドガー・アルヴェインとの事前打ち合わせについて記されていた。
日時は三日後の放課後、場所は王立セレファイス学院の応接室。
そして、打ち合わせには王宮の儀典官が同席するという。
「……ずいぶん本格的ですのね」
自室で書状を読み終えたオクタヴィアは、思わずそう呟いた。
園遊会の接遇を手伝うと聞いたときは、せいぜい招待客へ挨拶し、エドガーの隣で適切な会話を交わす程度だと思っていた。しかし、進行表には来賓の到着時刻や挨拶の順序、歓談の組み合わせまで細かく記されている。
しかも、その一部には自分の名前があった。
(……なるほど。王子の隣に立つというのは、ただ微笑んでいればよいという話ではございませんのね)
先日、エレノアたちと行った社交の練習を思い出す。
あのときは随分と賑やかだったが、実際の園遊会では、誰も間違いを笑って済ませてくれるとは限らない。
「マリアンヌ」
「はい、お嬢様」
「三日後の予定を確認してくださる? 放課後に王宮の方との打ち合わせが入りますの」
「承知いたしました。お帰りは少々遅くなりそうでございますね」
「ええ。……まったく、婚約者というのも忙しいものですわ」
そう言いながら書状を机へ置くと、マリアンヌが小さく微笑んだ。
「以前のお嬢様でしたら、殿下とお会いできると大変お喜びになっていたかと存じます」
オクタヴィアの手が止まった。
「……あなた、最近少々遠慮がなくなっておりませんこと?」
「お嬢様のお心をよく存じておりますので」
「それは答えになっておりませんわ」
マリアンヌは涼しい顔で一礼した。
オクタヴィアはため息をついたものの、否定はしなかった。
確かに以前の自分なら、エドガーと会う予定が入っただけで胸を躍らせていただろう。それが公務に関する打ち合わせであっても、彼の隣にいられるなら何でもよかったはずだ。
けれど今は、少し違う。
会うこと自体が嫌なのではない。ただ、以前よりもずっと、彼と何を話すべきか考えるようになった。
それはきっと、悪い変化ではないのだろう。
◇
三日後。
学院の応接室へ案内されたオクタヴィアは、既に席についていたエドガーへ一礼した。
「お待たせいたしました、殿下」
「いや、僕も今来たところだよ。座ってくれ」
エドガーは穏やかに微笑み、向かいの椅子を示した。
その隣には、灰色の髪をきっちりとまとめた中年の男性が立っている。
「ローゼンフェルト公爵令嬢。王宮儀典局のハロルド・クレインと申します。本日はよろしくお願いいたします」
「オクタヴィア・ローゼンフェルトです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
互いに挨拶を交わし、打ち合わせが始まった。
クレインは机の上へ数枚の書類を並べ、園遊会当日の流れを説明していく。
エドガーが主に担当するのは、王族を代表した来賓への挨拶と、一部の有力貴族との歓談。オクタヴィアはそのうち数か所へ同席し、必要に応じて令嬢や夫人たちとの会話を受け持つことになっていた。
「こちらの時間帯には、東部領の貴族家の方々がお集まりになります。昨年の洪水被害からの復興が進んでおりますので、近況をお尋ねになるのはよろしいでしょう。ただし、補償に関する具体的な言及はお控えください」
「承知いたしました」
オクタヴィアは頷きながら、手元の書類へ目を落とした。
被害からの復興について尋ねることは、相手への気遣いになる。しかし、補償の話題へ踏み込めば、王宮の対応について何らかの約束をしたと受け取られかねない。
同じ会話でも、立場が違えば意味が変わる。
それは、これまで社交を学んできたオクタヴィアにも、改めて考えさせられることだった。
「……一つ、よろしいでしょうか」
「はい、何でしょう」
「こちらの一覧には、昨年の商業税の改定について異議を申し立てていた家も含まれておりますわね。もし先方からその話題を持ち出された場合、わたくしはどの程度までお答えしてよろしいのでしょう」
クレインは僅かに目を見開いた。
「よくお気づきになりました。基本的には、ご意見を伺うにとどめていただくのが適切でしょう。制度に関する見解は、担当の官吏へお繋ぎいただければ結構です」
「分かりましたわ」
オクタヴィアが頷くと、隣からエドガーの声がした。
「……君は、そこまで確認していたんだね」
「当然ですわ。知らずに余計なことを申し上げては、公爵家にも王宮にもご迷惑をおかけしますもの」
そう答えてから、オクタヴィアは少しだけ首を傾げた。
「……何かおかしなことを申し上げまして?」
「いや。ただ、君がそんなふうに考えていることを、僕は知らなかったなと思って」
エドガーは穏やかに笑った。
オクタヴィアは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに視線を戻した。
「……わたくしにも、得意なことくらいございますわよ」
「もちろん、そうだね」
その返事には、以前のような気まずさがなかった。
少なくとも今は、互いの言葉を必要以上に疑わずに済んでいる。
それが少しだけ、不思議だった。
◇
打ち合わせが終わったのは、予定よりも三十分ほど遅い時刻だった。
クレインが書類をまとめて退室すると、応接室にはオクタヴィアとエドガーの二人だけが残された。
「……お疲れさま、オクタヴィア」
「殿下こそ。随分と細かな確認がございましたわね」
「ああ。でも、君がいてくれて助かったよ。僕が見落としていた点もあったからね」
オクタヴィアは少しだけ眉を上げた。
「まあ。殿下にも見落としなどございますの?」
「もちろんあるさ。僕を何だと思っているんだい?」
「第二王子殿下ですわ」
「それは間違っていないけれど」
エドガーが苦笑する。
オクタヴィアも思わず口元を緩めた。
以前の自分なら、エドガーの失敗や弱点を見つけたとしても、見なかったことにしていただろう。
彼は完璧な王子でなければならない。
そして、その隣に立つ自分も完璧でなければならない。
そんなふうに考えていたからだ。
けれど、実際のエドガーは違う。
彼もまた、知らないことがあり、迷うことがあり、ときには失敗する。
当たり前のことなのに、これまでの自分はそれを理解していなかった。
「……殿下」
「何だい?」
「少し、伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
オクタヴィアは僅かに考えてから口を開いた。
「殿下は、こうした公務をお好きなのですか?」
エドガーは少しだけ驚いたように目を瞬いた。
「……好きかどうか、か」
「ええ。先日、休日には剣術の稽古をなさると伺いましたけれど、王宮でのお仕事については、あまりお聞きしておりませんでしたから」
エドガーはしばらく考え込んだ。
「そうだね……正直に言えば、好きな仕事もあれば、そうでない仕事もあるよ」
「まあ、そうですのね」
「意外かい?」
「少々」
オクタヴィアが素直に答えると、エドガーは笑った。
「僕だって人間だからね。長い会議は退屈だし、同じ説明を何度も聞くのは疲れる」
「……それは、少し安心いたしましたわ」
「安心?」
「ええ。殿下も、わたくしと同じように面倒だと思うことがおありなのだと分かりましたもの」
エドガーは一瞬だけ目を丸くした。
そして、声を上げて笑った。
「……君は、本当に変わったね」
オクタヴィアは僅かに眉を寄せた。
「……そのお言葉、最近よく伺いますわ」
「嫌だったかい?」
「いいえ。ただ、少々複雑ですの」
オクタヴィアは静かに続けた。
「以前のわたくしが、どれほど周囲へ気を遣わせていたのか、改めて思い知らされますから」
エドガーの笑みが少しだけ和らいだ。
「……そうだね」
否定はしなかった。
そのことが、今のオクタヴィアにはありがたかった。
以前の自分が周囲へ迷惑をかけていたのは事実だ。だからこそ、無理に慰められるよりも、こうして自然に受け止めてもらえる方がよかった。
「……ところで、殿下」
「うん?」
「先ほどのお話ですが、好きなお仕事もあるとおっしゃいましたわね」
「ああ」
「どのようなお仕事がお好きなのですか?」
エドガーは少しだけ考えた。
「……地方の視察かな」
「視察?」
「うん。領地の様子を実際に見て、人々の話を聞くのは好きなんだ。報告書だけでは分からないことも多いからね」
オクタヴィアは静かに頷いた。
「なるほど。確かに、現地へ足を運ばなければ分からないこともございますものね」
「そうなんだ。以前、北部の村を訪れたとき、住民たちから橋の修繕について相談されたことがあってね」
エドガーは少しだけ懐かしそうに微笑んだ。
「王宮へ届いていた報告では、橋はまだ使用できる状態だとされていた。けれど、実際に見てみると、雨が降るたびに通行が難しくなるほど傷んでいたんだ」
「……それは、随分と問題ですわね」
「ああ。だから、帰ってから担当部署へ確認を求めたんだ。すぐに解決できたわけではないけれど、修繕計画の見直しには繋がったよ」
オクタヴィアは少しだけ目を細めた。
これまで、エドガーが何を考えて公務に取り組んでいるのか、深く尋ねたことはなかった。
彼が第二王子として優秀であることは知っていた。
けれど、その仕事のどこに喜びを感じるのかまでは知らなかったのだ。
「……殿下は、人々の暮らしに関わるお仕事がお好きなのですね」
そう言うと、エドガーは少しだけ驚いたように彼女を見た。
「……そうかもしれないね」
そして、穏やかに微笑んだ。
「君にそう言われて、初めて気づいた気がするよ」
オクタヴィアは小さく笑った。
「まあ。でしたら、お役に立てて何よりですわ」
そのとき、エドガーがふと口を開いた。
「……オクタヴィア」
「はい?」
「君は、何をしているときが一番楽しいんだい?」
今度は、オクタヴィアが黙り込む番だった。
何をしているときが楽しいのか。
そう尋ねられて、すぐに答えが出てこなかった。
以前なら、エドガーと一緒にいる時間だと答えていただろう。
あるいは、美しいドレスを選んでいるときや、社交の場で注目を集めているときだと。
けれど、今はどうだろう。
オクタヴィアは少しだけ考えた。
学院でエレノアたちと昼食を取る時間。
セシリアと図書室で課題に取り組んだ時間。
先日、友人たちと王都へ出かけ、道を間違えながら菓子店へ辿り着いたこと。
どれも、以前の自分なら特別だと思わなかったような出来事ばかりだ。
「……そうですわね」
オクタヴィアはゆっくりと口を開いた。
「最近は、友人たちと過ごす時間が楽しいと思いますわ」
エドガーは静かに頷いた。
「そうか」
「ええ。以前は、誰かと一緒にいるときも、自分がどう見られているかばかり気にしておりましたから」
オクタヴィアは少しだけ苦笑した。
「けれど、今は違いますの。道を間違えたり、くだらないことで笑ったり……そういう時間が、思っていた以上に楽しくて」
エドガーはしばらく彼女を見つめていた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……それは、よかった」
その言葉は、とても自然だった。
オクタヴィアは少しだけ目を瞬いた。
「……殿下は、変わったとお思いになりませんの?」
「もちろん、変わったとは思うよ」
エドガーは静かに答えた。
「でも、君が楽しそうにしているなら、それでいいんじゃないかな」
オクタヴィアはしばらく黙っていた。
以前の自分なら、エドガーにどう思われるかを何より気にしていた。
けれど今、彼は自分が楽しそうにしていることを喜んでくれている。
それが少しだけ、不思議だった。
「……ありがとうございます」
オクタヴィアは小さく微笑んだ。
エドガーも穏やかに笑った。
◇
応接室を出た頃には、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。
二人は学院の正門へ向かいながら、園遊会の当日について簡単に確認していた。
「……そういえば、オクタヴィア」
エドガーがふと口を開く。
「当日の衣装は、もう決めているのかい?」
「まだですわ。これから仕立て屋と相談する予定ですの」
「そうか」
「何かご希望でもございます?」
何気なく尋ねると、エドガーは少しだけ考えた。
「……いや。君が好きなものを選べばいいと思うよ」
オクタヴィアは僅かに眉を上げた。
「……本当によろしいのですか?」
「もちろん。君の衣装なんだから」
その答えを聞いて、オクタヴィアは少しだけ笑った。
「……では、遠慮なく選ばせていただきますわ」
「ああ。楽しみにしているよ」
エドガーは穏やかに微笑んだ。
その言葉に、オクタヴィアは僅かに頬を緩めた。
以前の自分なら、エドガーの好みに合わせて衣装を選んでいただろう。
けれど今は、自分が着たいと思うものを選んでもよいのだと、自然に思える。
それは小さなことかもしれない。
しかし、今のオクタヴィアにとっては、大切な変化だった。
正門へ辿り着くと、既にそれぞれの馬車が待っていた。
「では、殿下。本日はありがとうございました」
「こちらこそ。園遊会まで、まだ少し時間があるからね。何かあれば遠慮なく相談してほしい」
「ええ。そうさせていただきますわ」
オクタヴィアは丁寧に一礼した。
エドガーも軽く頷き、馬車へ向かっていく。
その背中を見送りながら、オクタヴィアはふと思った。
(……わたくし、殿下のことを本当に何も知りませんでしたのね)
幼い頃から婚約者だった。
何度も顔を合わせ、社交の場では隣に立ち、周囲からはお似合いの二人だと言われてきた。
それなのに、彼がどんな仕事を好み、どんなことに喜びを感じるのかさえ、今日まで知らなかったのだ。
そして、きっとエドガーも同じだったのだろう。
互いに婚約者という立場ばかりを見て、その向こうにいる一人の人間を、きちんと見ようとしていなかった。
「……まったく」
オクタヴィアは小さく息を吐いた。
「十五年も生きてきて、知らないことばかりですわね」
けれど、そのことを恥ずかしいとは思わなかった。
知らなかったのなら、これから知ればよい。
分からなかったのなら、これから考えればよい。
そうして少しずつ、自分自身の未来を選んでいけばよいのだ。
オクタヴィアは小さく微笑み、馬車へ乗り込んだ。
窓の外では、春の夕暮れが静かに広がっている。
王宮の園遊会まで、あと二週間と少し。
その日が、自分にとってどのような意味を持つことになるのかは、まだ分からない。
けれど少なくとも、以前のように、ただ第二王子の隣に立つことだけを望んでいるわけではなかった。
オクタヴィアは膝の上で手を重ね、ゆっくりと目を閉じた。
これから先、どんな未来を選ぶことになったとしても。
その答えだけは、自分自身で見つけたいと思っていた。




