21話 王子妃の仕事は笑顔だけでは務まりませんわ
王宮の園遊会まで、あと三週間。
その日の放課後、オクタヴィア・ローゼンフェルトは学院の図書室で、一冊の分厚い名簿を前にしていた。
王宮から届けられた園遊会の出席予定者一覧である。
公爵家、侯爵家、伯爵家、そして王国の政務に関わる高官たち。名前の横には家名や役職が記され、さらに別紙には、各家の近況や王宮との関係について簡単な説明が添えられていた。
「……なるほど」
オクタヴィアは名簿を一枚めくり、静かに頷いた。
「思っていた以上に、面倒ですわね」
向かいの席に座っていたレオンハルトが、読んでいた本から顔を上げた。
「何がだ?」
「園遊会の準備ですわ。出席者の名前を覚えるだけならともかく、それぞれの家の事情まで把握しておかなければなりませんの」
「当然だろう」
「……あなた、もう少し同情というものを覚えてはいかが?」
「必要なことを言っただけだ」
オクタヴィアは不満そうに眉を寄せた。
もっとも、彼の言っていることが間違っていないのは分かっている。
王族の隣に立つ者が、相手の名前や立場を知らずに挨拶するわけにはいかない。ましてや、過去に対立のあった家同士を不用意に同じ席へ案内すれば、それだけで問題になりかねないのだ。
それでも、こうして名簿を眺めていると、改めて思い知らされる。
(……王子妃というのは、思っていた以上に気を遣う立場ですのね)
以前の自分は、王宮で華やかなドレスを身につけ、エドガーの隣で微笑んでいる姿ばかりを想像していた。
しかし、実際にはその裏側に膨大な準備がある。
しかも、今回はまだ正式な王子妃としての公務ではない。
園遊会の接遇を一部手伝うだけで、この有様なのだ。
「……先が思いやられますわ」
小さく呟くと、レオンハルトが僅かに笑った。
「珍しいな。君が弱音を吐くとは」
「弱音ではございません。現状を冷静に分析しているだけですわ」
「そうか」
「……絶対に信じておりませんわね?」
「さてな」
オクタヴィアは深くため息をついた。
この男と話していると、どうにも調子が狂う。
けれど、名簿へ視線を戻したところで、ふと気になる名前が目に入った。
「……エルフォード伯爵家」
思わず口に出す。
クラリッサ・エルフォードの家名だった。
以前、自分が嫉妬から不当な扱いをした令嬢。
謝罪はしたものの、彼女から許しを得られたわけではない。
魔法具事件の調査では協力してくれたが、それと過去のことは別だと、クラリッサ自身がはっきり告げている。
オクタヴィアは名簿を見つめた。
(……そうですわよね)
王宮の園遊会となれば、彼女の家が招かれていても不思議ではない。
そして、自分が王子の婚約者として接遇に関わる以上、顔を合わせる可能性もある。
「……何か気になることでも?」
レオンハルトの声に、オクタヴィアは顔を上げた。
「いいえ。ただ、知っている家名を見つけただけですわ」
レオンハルトはそれ以上尋ねなかった。
その気遣いが、今は少しだけありがたかった。
◇
翌日の昼休み。
オクタヴィアはエレノアたちと食堂で昼食を取っていた。
「園遊会の準備、大変そうですわね」
エレノアが心配そうに尋ねる。
「ええ。思っていた以上に覚えることが多くて、少々驚いておりますわ」
「ですが、オクタヴィア様でしたら、きっと素晴らしくお務めになれます!」
エレノアは自信満々に言い切った。
オクタヴィアは少しだけ苦笑する。
「……あなた、その自信はどこから来るのかしら」
「もちろん、オクタヴィア様への信頼ですわ!」
「……まったく」
思わず笑ってしまう。
以前なら、その言葉を当然のように受け取っていただろう。
けれど今は、ただ褒められるよりも、必要なときには間違いを指摘してほしいと思うようになっていた。
「そういえば、皆さんも園遊会へ出席なさるの?」
オクタヴィアが尋ねると、フェリシアが頷いた。
「わたくしは父とともに出席する予定ですわ」
「わたくしもです!」
エレノアが嬉しそうに答える。
ナタリアは少しだけ首を振った。
「わたくしの家には、今回は招待状が届いておりませんの」
「そうでしたのね」
「ですが、どうかお気になさらないでください。わたくしはその日、母と一緒に祖母のところへ参る予定ですから」
ナタリアは穏やかに微笑んだ。
オクタヴィアも小さく頷いた。
王宮の園遊会は、誰もが出席できる催しではない。
招待される家とされない家があるのは当然だ。
けれど、こうして友人たちと話していると、その違いが少しだけ気になった。
学院では同じ席に座り、同じ課題に頭を悩ませ、休日には一緒に菓子を食べた。
しかし、王宮へ足を踏み入れれば、それぞれの家格や立場が前面に出てくる。
(……そういう世界なのですわね)
今さら驚くことではない。
それでも、以前とは違う感覚があった。
「……ところで、オクタヴィア様」
フェリシアが口を開いた。
「園遊会では、どのようなお役目を任されているのですか?」
「招待客へのご挨拶や、歓談の席への同席などですわ。正式な公務ではございませんけれど、殿下の婚約者として振る舞うことになります」
「まあ……」
エレノアが目を輝かせた。
「素敵ですわね!」
しかし、フェリシアは少しだけ考え込んだ。
「……それは、なかなか難しそうですわ」
「そう思います?」
「ええ。相手によって話題を選ばなければなりませんし、何気ない一言が家同士の問題に関わることもございますもの」
オクタヴィアは頷いた。
「まさに、その通りですわ」
すると、ナタリアが静かに口を開いた。
「……でしたら、事前に練習してみてはいかがでしょう?」
「練習?」
「はい。わたくしたちが招待客の役をいたしますので、オクタヴィア様が挨拶や会話をなさるのです」
エレノアがぱっと顔を上げた。
「まあ、それは楽しそうですわ!」
「……楽しむためのものではございませんわよ?」
オクタヴィアが呆れたように言うと、フェリシアが微笑んだ。
「ですが、よい方法だと思います。実際に言葉にしてみることで、気づくこともあるでしょうから」
オクタヴィアは少しだけ考えた。
確かに、頭の中で覚えるだけでは不十分かもしれない。
相手の反応を見ながら会話を進めることも、重要な能力だ。
「……よろしいですわ」
オクタヴィアは満足げに頷いた。
「では、皆さんに協力していただきましょう」
エレノアが嬉しそうに微笑む。
「お任せください!」
その笑顔を見て、オクタヴィアは少しだけ不安になった。
(……この子、変な役を演じたりしませんわよね?)
◇
放課後。
学院の空き教室には、四人の令嬢が集まっていた。
机を端へ寄せ、中央に椅子を並べた即席の社交練習場である。
「では、まずはわたくしから参りますわ!」
エレノアが元気よく立ち上がった。
「わたくしは、遠方から王都へやって来た侯爵夫人という設定でお願いいたします!」
「……随分と具体的ですわね」
オクタヴィアは少しだけ眉を上げた。
「では、始めましょうか」
エレノアは姿勢を正し、優雅に一礼した。
「まあ、ローゼンフェルト公爵令嬢。お目にかかれて光栄ですわ」
オクタヴィアも穏やかに微笑む。
「こちらこそ、お会いできて嬉しく存じます。王都までの道中はいかがでしたか?」
「ええ、それはもう大変でございましたの。馬車が途中でぬかるみに嵌まりまして、到着が遅れてしまいましたわ」
「まあ、それはご難儀でしたわね。お疲れが残っていらっしゃらなければよいのですけれど」
「お気遣いありがとうございます。ですが、わたくし、どうしても王都で評判の菓子店へ行きたくて……」
「……エレノア」
オクタヴィアが静かに口を開いた。
「はい?」
「あなた、先日の菓子店へもう一度行きたいだけではなくて?」
エレノアが固まった。
フェリシアが小さく笑い、ナタリアも口元を押さえる。
「……そ、そんなことはございませんわ!」
「本当かしら」
「本当です!」
オクタヴィアは呆れたように息を吐いた。
「まったく。真面目にお願いいたしますわよ」
「申し訳ございません!」
それでも、四人はしばらく笑い合っていた。
次にフェリシアが立ち上がった。
「では、わたくしは最近、領地の農作物が不作で困っている伯爵夫人という設定にいたします」
「……急に難易度が上がりましたわね」
オクタヴィアは姿勢を正した。
フェリシアは優雅に一礼する。
「ローゼンフェルト公爵令嬢。お会いできて光栄ですわ」
「こちらこそ。ごきげんよう」
「実は、今年は領地の天候が安定せず、収穫が思わしくありませんの。公爵家では、何か対策をなさっていらっしゃいますか?」
オクタヴィアは少しだけ考えた。
「……そうですわね。わたくしの家では、灌漑設備の整備や備蓄の見直しなどを進めておりますけれど」
「まあ、素晴らしいですわ。ぜひ詳しく伺いたいものです」
「ええ。ですが、具体的な施策については父の方が詳しいかと存じますので、必要でしたらご紹介いたしますわ」
フェリシアは満足げに頷いた。
「……よろしいと思います」
「そう?」
「ええ。ご自分で答えられる範囲と、そうでない範囲をきちんと分けていらっしゃいました」
オクタヴィアは少しだけ微笑んだ。
「それは当然ですわ。分からないことを知ったかぶりしても、よい結果にはなりませんもの」
その言葉を聞いて、フェリシアは少しだけ目を瞬いた。
そして、穏やかに笑った。
「……本当に、そうですわね」
以前のオクタヴィアなら、分からないことでも自信満々に答えていたかもしれない。
けれど今は、自分の知らないことを認められる。
それは、確かな変化だった。
最後に、ナタリアが立ち上がった。
「では、わたくしは……少し難しい役をしてもよろしいでしょうか」
オクタヴィアは眉を上げた。
「もちろんですわ」
ナタリアは静かに頷いた。
「わたくしは、以前オクタヴィア様と親しくしていたものの、最近は距離を置いている伯爵家の令嬢という設定にいたします」
教室の空気が、僅かに変わった。
エレノアとフェリシアも、少しだけ真剣な表情になる。
オクタヴィアは静かに頷いた。
「……分かりましたわ」
ナタリアは一礼した。
「ごきげんよう、ローゼンフェルト様」
「ごきげんよう。お久しぶりですわね」
「ええ。随分とお会いしておりませんでした」
ナタリアは少しだけ間を置いた。
「……最近は、随分とお変わりになったそうですわね」
オクタヴィアは僅かに目を細めた。
その言葉には、褒める意味も、疑う意味も含まれている。
どちらとして受け取るかは、相手次第だ。
「……そう見えまして?」
「ええ。以前とは随分と違うご様子だと伺いました」
ナタリアは静かに続けた。
「ですが、人というのは、そう簡単に変わるものなのでしょうか」
エレノアが小さく息を呑んだ。
フェリシアも黙って見守っている。
オクタヴィアはしばらくナタリアを見つめた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……おっしゃる通りですわ」
ナタリアが僅かに目を瞬いた。
「人が変わるというのは、簡単なことではございません。わたくし自身、まだ至らないところが多いと感じております」
オクタヴィアは静かに続けた。
「ですが、以前の自分が正しかったとは思っておりませんの。だからこそ、これからの行いで示していきたいと考えております」
ナタリアはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
そして、姿勢を崩して一礼する。
「とてもよいお答えだったと思います」
エレノアがほっと息を吐いた。
「……少し緊張いたしましたわ」
フェリシアも頷く。
「ええ。でも、実際の園遊会でも、似たようなことを尋ねられる可能性はございますものね」
オクタヴィアは静かに頷いた。
「……そうですわね」
自分の過去を知る者が、全員好意的に接してくれるとは限らない。
むしろ、疑いの目を向ける者もいるだろう。
それは、仕方のないことだ。
大切なのは、そのとき自分がどう振る舞うかである。
「……皆さん、ありがとうございました」
オクタヴィアは三人を見渡した。
「とても参考になりましたわ」
エレノアが嬉しそうに微笑む。
「お役に立てたなら、何よりです!」
フェリシアとナタリアも頷いた。
オクタヴィアは少しだけ笑った。
以前の自分なら、友人たちに助言を求めることなど考えもしなかっただろう。
けれど今は、こうして支えてもらうことが、少しも恥ずかしくなかった。
◇
その日の夕方。
帰宅したオクタヴィアは、自室の机に置かれた園遊会の招待状を見つめていた。
王家の紋章が刻まれた美しい封書。
その向こうには、これまで自分が憧れていた未来が広がっている。
第二王子の婚約者。
将来の王子妃。
誰もが羨む立場。
けれど、その立場には、華やかさだけではない責任が伴う。
そして、時には自分の過去とも向き合わなければならない。
「……まったく」
オクタヴィアは小さく息を吐いた。
「王子妃というのは、随分と忙しいお仕事ですのね」
そう呟きながらも、その表情には僅かな笑みが浮かんでいた。
今日の練習で、少しだけ分かったことがある。
自分一人で全てを背負う必要はない。
分からないことがあれば、誰かに尋ねればよい。
間違えたなら、認めて直せばよい。
そして、困ったときには、友人たちを頼ってもよいのだ。
(……以前のわたくしには、考えられなかったことですわね)
オクタヴィアは机の引き出しを開けた。
そこには、先日エレノアたちと買った紫色の栞が、大切にしまわれている。
彼女はそれをそっと手に取り、微笑んだ。
王子妃になるかどうか。
その答えは、まだ出ていない。
けれど、今の自分には、以前とは違うものがある。
それは、誰かと支え合うことの大切さを知ったということだ。
「……さて」
オクタヴィアは栞を本へ挟み、椅子へ腰を下ろした。
「もう少し、勉強いたしましょうか」
窓の外では、春の夕暮れが静かに広がっている。
王宮の園遊会まで、あと三週間。
オクタヴィアは、自分自身の未来を見つめながら、少しずつ準備を進めていくのだった。




