20話 王子妃になると決めた覚えはありませんわ
ローゼンフェルト公爵邸に王宮からの書状が届いたのは、よく晴れた休日の朝のことだった。
朝食を終え、自室で読みかけの本を開いていたオクタヴィアは、マリアンヌからその知らせを受けると、僅かに眉を上げた。
「……王宮から?」
「はい。公爵閣下宛ての正式な書状でございますが、お嬢様にも関係する内容とのことで、閣下がお呼びでいらっしゃいます」
「お父様が?」
オクタヴィアは本を閉じた。
王宮から公爵家へ書状が届くこと自体は珍しくない。父アルベルトは王国でも有数の大貴族であり、政務に関わる連絡が届くことも多いからだ。
しかし、わざわざ自分を呼ぶとなれば、話は別である。
(……まさか、また何か面倒なことではありませんわよね?)
魔法具事件が解決してから、ようやく穏やかな日々を取り戻したところなのだ。
先日はエレノアたちと王都へ出かけ、初めて友人らしい時間を過ごすこともできた。学院の課題は相変わらず多いものの、それも含めて充実した生活だと感じている。
できれば、もうしばらくは平和に過ごしたい。
「……分かりましたわ。すぐに参ります」
そう答えて立ち上がると、マリアンヌが静かに頭を下げた。
廊下を歩きながら、オクタヴィアはふと考える。
王宮。
第二王子。
そして、自分に関係する書状。
その三つが揃っている以上、嫌でも思い当たることがあった。
(……婚約に関すること、でしょうか)
エドガー・アルヴェイン。
この国の第二王子であり、オクタヴィアの婚約者。
前世の記憶を取り戻す前の自分は、彼との婚約を何より大切にしていた。
いや、正確には、第二王子の婚約者という立場に執着していたのかもしれない。
だが、今は違う。
彼を嫌っているわけではないし、婚約そのものをすぐに解消したいと思っているわけでもない。
ただ、このまま何も考えずに王子妃になることが、本当に自分の望む未来なのか。
その答えを、まだ見つけられずにいた。
◇
「オクタヴィア、入りなさい」
父の声に促され、オクタヴィアは執務室へ足を踏み入れた。
アルベルト・ローゼンフェルト公爵は、いつものように大きな執務机の向こうに座っていた。
その手元には、王家の紋章が刻まれた封書が置かれている。
「お呼びでしょうか、お父様」
「ああ。そこへ掛けなさい」
「はい」
オクタヴィアが向かいの椅子へ腰を下ろすと、アルベルトは書状を手に取った。
「王宮から、来月開催される春の園遊会について案内が届いた」
「園遊会、ですか?」
「ああ。例年、王族と有力貴族の交流を目的として開かれるものだ。今年は王太子殿下の公務が重なっているため、第二王子殿下が王族側の主な接遇を担当されることになった」
オクタヴィアは静かに頷いた。
春の園遊会。
その存在は知っている。
王宮の庭園で催される社交行事であり、王族と貴族たちが比較的穏やかな雰囲気の中で交流する場だ。
もっとも、表向きは優雅な催しであっても、実際には様々な思惑が交錯する。
誰が誰と話したか。
どの家が王族から声をかけられたか。
そうした些細な出来事さえ、貴族社会では意味を持つのだ。
「それで、わたくしにも出席するようにとのことでしょうか」
「それだけではない」
アルベルトは書状を机の上へ置いた。
「王宮は、エドガー殿下の婚約者であるお前にも、接遇の一部を手伝ってほしいと考えているようだ」
「…………はい?」
思わず、間の抜けた声が出た。
アルベルトが僅かに眉を上げる。
オクタヴィアは慌てて姿勢を正した。
「……失礼いたしました。ですが、お父様。わたくしはまだ学院へ入学したばかりですわよ?」
「承知している。正式な公務を任されるわけではない。殿下とともに一部の招待客へ挨拶し、必要に応じて歓談の席へ同席する程度だ」
「……それを、わたくしに?」
「ああ」
オクタヴィアは黙り込んだ。
王族の婚約者として、そうした役割を求められること自体は不自然ではない。
むしろ、以前の自分なら喜んで引き受けていただろう。
エドガーの隣に立ち、周囲へ自分こそが第二王子の婚約者なのだと示す絶好の機会だからだ。
けれど、今はその意味が少し違って見える。
(……つまり、王宮はわたくしを将来の王子妃として扱い始めている、ということですわね)
婚約が決まっている以上、当然の流れなのだろう。
しかし、これまで漠然とした未来だったものが、急に現実味を帯びてきた気がした。
「……お父様」
「何だ」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
オクタヴィアは少しだけ考えてから口を開いた。
「わたくしが将来、エドガー殿下の妃になることは、もう決まっているのでしょうか」
アルベルトの手が止まった。
しばらくの沈黙が流れる。
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味ですわ」
オクタヴィアは父の目を真っ直ぐに見つめた。
「わたくしと殿下は婚約しております。ですが、婚約と婚姻は別のものでしょう? わたくしが将来、殿下の妃になることは、既に覆せない決定なのかとお尋ねしております」
アルベルトはすぐには答えなかった。
やがて、静かに息を吐く。
「……お前がそのようなことを尋ねるとは思わなかった」
「わたくしも、以前なら考えなかったと思いますわ」
「そうだろうな」
アルベルトは椅子へ深く腰を下ろした。
「結論から言えば、婚約は絶対ではない。王家と公爵家の合意によって結ばれたものだが、事情が変われば見直される可能性はある」
「……そうですか」
「ただし、容易なことではない。お前と殿下の婚約は、二人だけの問題ではないからな」
オクタヴィアは静かに頷いた。
それは理解している。
王族と公爵家の婚約には、家同士の結びつきという意味がある。
自分一人の感情で決められるものではない。
「……お前は、婚約を解消したいのか?」
アルベルトが尋ねた。
オクタヴィアは少しだけ目を伏せた。
「……分かりません」
それが、今の正直な答えだった。
「殿下を嫌っているわけではありませんし、婚約を解消したいと決めたわけでもございません。ただ、これまでのわたくしは、第二王子妃になることを当然だと思いすぎていたように感じますの」
アルベルトは黙って聞いている。
「わたくしは、殿下が何をお考えなのかも、王子妃として何を求められるのかも、十分に理解しておりませんでした。それなのに、その立場だけは誰にも譲りたくないと思っていたのです」
オクタヴィアは小さく息を吐いた。
「……随分と勝手な話ですわね」
アルベルトはしばらく娘を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「オクタヴィア」
「はい」
「お前が自分の将来について考え始めたことは、悪いことではない」
オクタヴィアは顔を上げた。
「だが、一つ覚えておきなさい。王子妃という立場は、決して華やかなだけのものではない」
「……はい」
「王族の一員となれば、自分の言葉や行動が、家族だけでなく多くの人々へ影響を与える。自由にできることは少なくなり、ときには自分の望まない役割を果たさなければならないこともある」
アルベルトは穏やかな声で続けた。
「それでも、その立場に意味を見いだせる者でなければ、務まらないだろう」
オクタヴィアは静かに頷いた。
以前の自分は、王子妃という立場の華やかさばかりを見ていた。
けれど、実際には責任が伴う。
そして、その責任を果たす覚悟が自分にあるのかと問われれば、今はまだ答えられなかった。
「……お父様」
「何だ」
「今回の園遊会には、出席いたします」
アルベルトが僅かに眉を上げた。
「よいのか?」
「ええ。今のわたくしには、知らないことが多すぎますもの」
オクタヴィアは少しだけ微笑んだ。
「まずは、王子妃という立場がどのようなものなのか、自分の目で確かめてみたいと思います」
アルベルトはしばらく娘を見つめたあと、ゆっくり頷いた。
「……分かった。王宮には、そのように返事をしておこう」
「ありがとうございます」
オクタヴィアは丁寧に頭を下げた。
そのとき、アルベルトがふと口を開いた。
「……それから、オクタヴィア」
「はい?」
「殿下とも、よく話し合いなさい」
オクタヴィアは少しだけ目を瞬いた。
「……殿下と?」
「ああ。お前一人で考えていても、答えは出ないだろう」
その言葉に、オクタヴィアは静かに頷いた。
「……そうですわね」
確かに、婚約は自分一人の問題ではない。
エドガーにも、彼自身の考えがあるはずだ。
それを知らずに結論を出すのは、以前の自分と何も変わらない。
「承知いたしましたわ」
そう答えると、アルベルトは僅かに微笑んだ。
◇
翌週の学院。
オクタヴィアは昼休みを利用して、エドガーへ話しかけることにした。
第二王子である彼は、学院内でも常に多くの生徒に囲まれている。
しかし、今日は珍しく中庭の一角で一人、本を読んでいた。
「エドガー殿下」
声をかけると、エドガーが顔を上げた。
「オクタヴィア。どうしたんだい?」
「少し、お話ししたいことがございますの」
「もちろん。座るかい?」
「ありがとうございます」
オクタヴィアは隣の椅子へ腰を下ろした。
春の風が、庭園の花々を静かに揺らしている。
「……王宮からの招待状について、伺いました」
オクタヴィアが切り出すと、エドガーは頷いた。
「ああ。春の園遊会のことだね」
「ええ。わたくしも、殿下とともに一部の招待客へのご挨拶をするようにとのことでした」
「そう聞いているよ」
エドガーは少しだけ微笑んだ。
「君なら、問題なく務められると思う」
「……そうでしょうか」
オクタヴィアは僅かに目を伏せた。
エドガーは不思議そうに首を傾げる。
「何か心配なことでもあるのかい?」
「……心配、というほどではございませんけれど」
オクタヴィアは少しだけ考えた。
そして、静かに口を開く。
「殿下は、わたくしとの婚約について、どうお考えなのでしょうか」
エドガーの表情が変わった。
「……婚約について?」
「ええ」
オクタヴィアは彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「わたくしたちは、幼い頃から婚約者として扱われてきました。ですが、わたくしはこれまで、殿下ご自身のお気持ちをきちんと伺ったことがなかったように思いますの」
エドガーはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……正直に言ってもいいかな」
「もちろんですわ」
「僕も、あまり深く考えたことがなかったんだ」
オクタヴィアは少しだけ目を瞬いた。
エドガーは苦笑する。
「君との婚約は、幼い頃から決まっていたことだからね。僕にとっても、当たり前の未来だった」
「……そうでしたのね」
「もちろん、君を嫌っていたわけじゃない。ただ……」
エドガーは少しだけ言葉を探した。
「以前の僕たちは、お互いに相手のことを知ろうとしていなかったのかもしれない」
オクタヴィアは静かに頷いた。
それは、先日の事件が解決したあとにも話したことだった。
けれど、こうして改めて聞くと、その言葉の重みが少し違って感じられる。
「……では、殿下」
「何だい?」
「わたくしたちは、これからどうするべきなのでしょう」
エドガーは少しだけ考えた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……まずは、話をすることから始めないか?」
オクタヴィアは目を瞬いた。
「話、ですか?」
「ああ。婚約者としてではなく、一人の人間として」
エドガーは静かに続けた。
「君が何を好きで、何を嫌いで、どんな未来を望んでいるのか。僕は、そういうことをほとんど知らない」
オクタヴィアは黙って聞いていた。
「きっと、君も同じだろう?」
「……ええ」
オクタヴィアは小さく頷いた。
「その通りですわ」
「だったら、少しずつ知っていけばいいと思う」
エドガーは穏やかに笑った。
「園遊会も、その一つの機会になるかもしれないね」
オクタヴィアはしばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうですわね」
王子妃になるかどうか。
その答えは、まだ出ない。
けれど、今すぐ結論を出す必要もないのかもしれない。
まずは、目の前にいる婚約者のことを知る。
そして、自分自身が何を望んでいるのかを考える。
それが、今の自分にできることなのだろう。
「では、殿下」
「何だい?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
オクタヴィアは少しだけ微笑んだ。
「殿下は、休日には何をして過ごされることが多いのですか?」
エドガーは一瞬だけ驚いたように目を瞬いた。
そして、楽しそうに笑った。
「……そうだね。最近は、剣術の稽古をすることが多いかな」
「あら、そうでしたの」
「君は?」
「わたくしは、先日友人たちと王都へ出かけましたわ」
「へえ。どんなところへ?」
「菓子店ですの。なかなか素敵なお店でしたわよ」
オクタヴィアは少しだけ得意げに続けた。
「ただ、途中で道を間違えましてね。なぜか馬具店へ辿り着いてしまったのですけれど」
エドガーが思わず笑った。
「それは大変だったね」
「ええ。でも、案外楽しかったですわ」
そう答えると、エドガーは少しだけ驚いたように彼女を見つめた。
「……そうか」
「何ですの?」
「いや。君がそんなふうに話すのは、少し新鮮だと思って」
オクタヴィアは僅かに眉を上げた。
「……わたくしだって、友人と出かけるくらいはいたしますわよ」
「そうだね」
エドガーは穏やかに笑った。
その笑顔を見て、オクタヴィアも少しだけ口元を緩めた。
春の風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。
以前の自分なら、エドガーと二人きりで話す機会があれば、彼の関心を自分へ向けようと必死になっていただろう。
けれど今は、そんなことを考えずに話せている。
それが、少しだけ不思議だった。
◇
その日の夕方。
帰宅したオクタヴィアは、自室の机に置かれた王宮からの招待状を見つめていた。
美しい装飾が施された封書。
そこには、王家の紋章が鮮やかに刻まれている。
以前の自分なら、これを見ただけで胸を躍らせていただろう。
第二王子の婚約者として、王宮の園遊会へ出席する。
それは、自分の立場を周囲へ示す絶好の機会だったからだ。
けれど今は、少し違う。
(……王子妃、ですか)
オクタヴィアは小さく息を吐いた。
王子妃になるということは、エドガーの隣に立つということだけではない。
王族の一員として、多くの責任を背負うことになる。
そして、その立場を望むのかどうかは、自分自身で考えなければならない。
「……まったく」
オクタヴィアは小さく呟いた。
「以前のわたくしは、随分と簡単に考えておりましたのね」
けれど、後悔ばかりしていても仕方がない。
大切なのは、これからどうするかだ。
オクタヴィアは招待状を丁寧に机へ戻し、窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの庭園には、春の花々が静かに咲いている。
その光景を見ながら、彼女は少しだけ微笑んだ。
(……まずは、園遊会ですわね)
そこで何を見て、何を感じるのか。
そして、エドガーとどのような時間を過ごすことになるのか。
今はまだ分からない。
けれど、少なくとも一つだけ、はっきりしていることがある。
自分の未来を、誰かに決められたまま受け入れるつもりはない。
「……王子妃になると決めた覚えはありませんもの」
オクタヴィアは小さく笑った。
悪役令嬢として定められた運命から逃れようとしていた少女は、今ようやく、自分自身の未来を考え始めていた。
そして、その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からないのだった。




