↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢ですが、原作開始まであと三日しかありません  作者: トントロ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/26

閑話 侍女はお嬢様の背中を見ている

 マリアンヌがローゼンフェルト公爵家に仕えるようになって、今年で十一年になる。


 最初に任された仕事は、当時四歳だったオクタヴィアお嬢様の身の回りのお世話だった。


 黒髪に紫色の瞳を持つ小さな令嬢は、幼いながらも随分と気位が高く、自分の望むものが手に入らなければ、頬を膨らませて不機嫌になるような子供だった。


 それでも、あの頃のお嬢様には年相応の可愛らしさがあった。


 庭園で見つけた蝶を追いかけて転び、泣くまいと必死に唇を噛んでいたこともある。苦手な野菜を皿の端へ寄せておきながら、食べ終わったふりをして得意げに笑っていたこともあった。


 そんなとき、マリアンヌがそっと注意すると、お嬢様は決まって不満そうに眉を寄せるのだ。


『……マリアンヌは、いつもわたくしに意地悪を言うのね』


『お嬢様のためでございます』


『それなら、もう少し優しく言ってくださってもよろしいでしょう?』


 そう言いながらも、最後には渋々と野菜を口へ運ぶ。


 あの頃のお嬢様は、わがままではあっても、人の言葉を聞くことができる少女だった。


 けれど、成長するにつれて少しずつ変わっていった。


 公爵家の令嬢としての教育が本格的になり、第二王子殿下との婚約が決まり、周囲から特別な存在として扱われるようになると、お嬢様はますます誇り高く、そして気難しくなっていった。


 誰かに注意されることを嫌い、自分の考えを否定されれば機嫌を損ねる。


 使用人たちも次第に、お嬢様の顔色を窺うようになっていった。


 マリアンヌ自身も、いつしか言葉を選ぶことが増えていた。


 それが正しいことではないと分かっていても、長年仕えてきた身として、お嬢様を傷つけたくなかったのだ。


 いや。


 正確には、傷つけたくないという気持ちを言い訳にして、厳しいことを申し上げる勇気を失っていたのかもしれない。


 そんな日々が続いたある朝、お嬢様は突然、まるで別人のようなことを言い出した。


『……マリアンヌ。わたくし、これまで随分とひどいことをしてきたのではなくて?』


 あのときの驚きを、マリアンヌは今でも鮮明に覚えている。


 お嬢様が自分の過去を振り返り、しかもそれを悪いことだったと認めるなど、これまで考えられなかったからだ。


 最初は、何かの気まぐれだと思った。


 けれど、お嬢様は本当に変わろうとしていた。


 以前傷つけた令嬢たちへ謝罪に赴き、長かった黒髪を短く切り、学院へ入学してからも、自分の行いを改めようと努力している。


 もちろん、性格そのものが別人になったわけではない。


 相変わらず誇り高く、少々口が悪く、気に入らないことがあればすぐに眉を寄せる。


 けれど、その変化は確かなものだった。


 そして何より、最近のお嬢様はよく笑うようになった。


 それが、マリアンヌにとっては何より嬉しいことだった。


◇


 休日の夕方。


 ローゼンフェルト公爵邸へ戻ってきたオクタヴィアお嬢様は、馬車を降りるなり、どこか満足げな表情で私を呼んだ。


「……マリアンヌ」


「はい、お嬢様」


「今日のお出かけは、なかなか有意義でしたわ」


 その声は、いつもより少し弾んでいる。


 私は思わず微笑んだ。


「それは何よりでございます。エレノア様方と、楽しい時間をお過ごしになれたのですね」


「ええ。少々予定外のこともございましたけれど」


「予定外のこと、でございますか?」


「エレノアが道を間違えましたの」


 お嬢様は呆れたように肩をすくめた。


「菓子店へ向かうはずが、なぜか馬具店へ辿り着いてしまいましてね。まったく、あの子ったら」


 そう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいる。


 私は少しだけ驚いた。


 以前のお嬢様なら、予定が狂っただけで不機嫌になっていただろう。


 ましてや、誰かの案内で道を間違えるなど、決して許さなかったに違いない。


「……それは、大変でございましたね」


「ええ。でも、面白かったですわ」


 お嬢様は当然のように答えた。


「おかげで、普段なら立ち寄らないような通りも歩けましたもの」


 その言葉を聞いて、私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 以前のお嬢様は、思い通りにならないことを何より嫌っていた。


 けれど今は、予定外の出来事さえ楽しめるようになっている。


 それは、とても大きな変化だった。


「それから、菓子店で皆さんとお菓子を分け合いましたの」


「まあ」


「同じものを注文するより、いろいろな味を楽しめるでしょう? なかなか合理的な方法ですわね」


 お嬢様は得意げに頷いた。


 私は思わず笑ってしまいそうになった。


 友人同士で菓子を分け合うことを、まるで新しい発見のように語る姿が、何とも微笑ましかったからだ。


「……そうでございますね」


「何ですの、その顔は」


「いいえ。お嬢様が楽しそうで、何よりでございます」


 そう答えると、お嬢様は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。


「……別に、そこまで大げさなことではございませんわ」


 けれど、その頬はほんの僅かに赤くなっていた。


 私はそれ以上何も言わず、静かに微笑んだ。


 こういうときのお嬢様は、あまりからかうと不機嫌になってしまう。


 もっとも、最近はその不機嫌さえ、以前ほど恐ろしくはなくなっていた。


◇


 お嬢様が湯浴みを終えたあと、私は衣装室で今日の装いを片づけていた。


 淡い藤色のワンピースには、街歩きの名残なのか、裾のあたりにほんの少しだけ埃がついている。


 以前のお嬢様なら、これを見つけただけで大騒ぎになっていたかもしれない。


 けれど今日は、特に気にする様子もなかった。


 私は布地を丁寧に確認しながら、ふと数日前のことを思い出した。


 お嬢様が学院の魔法具事件に巻き込まれたと聞いたとき、屋敷中が騒然となった。


 公爵家の令嬢が、魔法具の細工を疑われている。


 その知らせは、使用人たちの間にも大きな不安をもたらした。


 けれど、私が何より恐れていたのは、事件そのものではなかった。


 お嬢様が、また以前のように心を閉ざしてしまうことだった。


 せっかく自分の過去と向き合い、少しずつ変わろうとしている。


 それなのに、周囲から疑われ、責められることで、再び誰も信じられなくなってしまったら。


 そんなことを考えると、胸が締めつけられるようだった。


 だが、お嬢様は逃げなかった。


 自分が疑われる理由を理解したうえで、それでも事実を明らかにしようとした。


 そして、事件が解決したあとも、誰かを恨むことなく、以前と同じように学院へ通っている。


 その姿を見て、私は少しだけ安心した。


 お嬢様は、確かに変わろうとしている。


 そして、その変化は、決して一時の気まぐれではないのだと。


「……マリアンヌ?」


 不意に声をかけられ、私は顔を上げた。


 衣装室の入口には、夜着に着替えたお嬢様が立っていた。


「はい、お嬢様」


「何をそんなに考え込んでいらっしゃるの?」


「いいえ。少し昔のことを思い出しておりました」


「昔のこと?」


「はい。お嬢様が、まだ小さかった頃のことです」


 お嬢様は少しだけ眉を上げた。


「……何ですの、急に」


「ふふっ。お嬢様は昔から、随分と気位の高いお子様でいらっしゃいましたから」


「……それは、褒めておりますの?」


「もちろんでございます」


 私は微笑んだ。


 お嬢様は疑わしそうにこちらを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……まあ、よろしいですわ」


 そして、少しだけ視線を落とす。


「……マリアンヌ」


「はい」


「わたくし、以前は随分とあなた方へ迷惑をかけておりましたわね」


 その言葉に、私は少しだけ驚いた。


 お嬢様は静かに続ける。


「今さら謝っても仕方がないこともあるでしょうけれど……」


「お嬢様」


 私はそっと言葉を遮った。


「以前のことを、全て忘れることはできません。ですが、今のお嬢様が変わろうとしていらっしゃることは、わたくしどもにも伝わっております」


 お嬢様は顔を上げた。


「……そう」


「はい」


 私は静かに微笑んだ。


「ですから、どうかこれからも、お嬢様らしくお過ごしくださいませ」


 お嬢様は少しだけ考えたあと、小さく笑った。


「……わたくしらしく、ですか」


「ええ」


「それは、なかなか難しい注文ですわね」


 そう言いながらも、その表情は穏やかだった。


 私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


◇


 その夜。


 お嬢様が眠りにつかれたあと、私は一人で衣装室の整理を続けていた。


 棚の上には、今日お嬢様が買ってこられた小さな包みが置かれている。


 中には、紫色の紐がついた銀色の栞が入っていた。


 高価な宝石でも、特別な装飾品でもない。


 けれど、お嬢様は帰宅してから何度もその栞を眺め、大切そうに扱っていらっしゃった。


 私はそっと包みを整え、机の上へ置いた。


 幼い頃のお嬢様は、欲しいものがあれば何でも手に入れようとなさった。


 そして、手に入れたものに飽きれば、すぐに次のものを求めていた。


 けれど今は、こんな小さな栞を大切にしていらっしゃる。


 それが何より嬉しかった。


 私は窓の外へ視線を向けた。


 夜の庭園には、月明かりが静かに降り注いでいる。


 お嬢様の未来がどうなるのか、私には分からない。


 第二王子殿下との婚約も、学院での生活も、これから様々なことが起きるだろう。


 それでも、私は願っている。


 お嬢様が、これからも自分の意思で歩んでいけるように。


 誰かを傷つけることで自分の立場を守るのではなく、誰かと笑い合うことで幸せを見つけられるように。


 そして、いつか。


 ご自分の過去を振り返ったとき、後悔だけではなく、温かな思い出もたくさん残っているように。


「……おやすみなさいませ、お嬢様」


 私は小さく呟き、静かに灯りを落とした。


 明日もきっと、お嬢様は何かに驚き、何かに怒り、そして何かに笑うのだろう。


 そのすべてを、これからも近くで見守っていきたい。


 そう思いながら、私はそっと衣装室の扉を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。