閑話 侍女はお嬢様の背中を見ている
マリアンヌがローゼンフェルト公爵家に仕えるようになって、今年で十一年になる。
最初に任された仕事は、当時四歳だったオクタヴィアお嬢様の身の回りのお世話だった。
黒髪に紫色の瞳を持つ小さな令嬢は、幼いながらも随分と気位が高く、自分の望むものが手に入らなければ、頬を膨らませて不機嫌になるような子供だった。
それでも、あの頃のお嬢様には年相応の可愛らしさがあった。
庭園で見つけた蝶を追いかけて転び、泣くまいと必死に唇を噛んでいたこともある。苦手な野菜を皿の端へ寄せておきながら、食べ終わったふりをして得意げに笑っていたこともあった。
そんなとき、マリアンヌがそっと注意すると、お嬢様は決まって不満そうに眉を寄せるのだ。
『……マリアンヌは、いつもわたくしに意地悪を言うのね』
『お嬢様のためでございます』
『それなら、もう少し優しく言ってくださってもよろしいでしょう?』
そう言いながらも、最後には渋々と野菜を口へ運ぶ。
あの頃のお嬢様は、わがままではあっても、人の言葉を聞くことができる少女だった。
けれど、成長するにつれて少しずつ変わっていった。
公爵家の令嬢としての教育が本格的になり、第二王子殿下との婚約が決まり、周囲から特別な存在として扱われるようになると、お嬢様はますます誇り高く、そして気難しくなっていった。
誰かに注意されることを嫌い、自分の考えを否定されれば機嫌を損ねる。
使用人たちも次第に、お嬢様の顔色を窺うようになっていった。
マリアンヌ自身も、いつしか言葉を選ぶことが増えていた。
それが正しいことではないと分かっていても、長年仕えてきた身として、お嬢様を傷つけたくなかったのだ。
いや。
正確には、傷つけたくないという気持ちを言い訳にして、厳しいことを申し上げる勇気を失っていたのかもしれない。
そんな日々が続いたある朝、お嬢様は突然、まるで別人のようなことを言い出した。
『……マリアンヌ。わたくし、これまで随分とひどいことをしてきたのではなくて?』
あのときの驚きを、マリアンヌは今でも鮮明に覚えている。
お嬢様が自分の過去を振り返り、しかもそれを悪いことだったと認めるなど、これまで考えられなかったからだ。
最初は、何かの気まぐれだと思った。
けれど、お嬢様は本当に変わろうとしていた。
以前傷つけた令嬢たちへ謝罪に赴き、長かった黒髪を短く切り、学院へ入学してからも、自分の行いを改めようと努力している。
もちろん、性格そのものが別人になったわけではない。
相変わらず誇り高く、少々口が悪く、気に入らないことがあればすぐに眉を寄せる。
けれど、その変化は確かなものだった。
そして何より、最近のお嬢様はよく笑うようになった。
それが、マリアンヌにとっては何より嬉しいことだった。
◇
休日の夕方。
ローゼンフェルト公爵邸へ戻ってきたオクタヴィアお嬢様は、馬車を降りるなり、どこか満足げな表情で私を呼んだ。
「……マリアンヌ」
「はい、お嬢様」
「今日のお出かけは、なかなか有意義でしたわ」
その声は、いつもより少し弾んでいる。
私は思わず微笑んだ。
「それは何よりでございます。エレノア様方と、楽しい時間をお過ごしになれたのですね」
「ええ。少々予定外のこともございましたけれど」
「予定外のこと、でございますか?」
「エレノアが道を間違えましたの」
お嬢様は呆れたように肩をすくめた。
「菓子店へ向かうはずが、なぜか馬具店へ辿り着いてしまいましてね。まったく、あの子ったら」
そう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいる。
私は少しだけ驚いた。
以前のお嬢様なら、予定が狂っただけで不機嫌になっていただろう。
ましてや、誰かの案内で道を間違えるなど、決して許さなかったに違いない。
「……それは、大変でございましたね」
「ええ。でも、面白かったですわ」
お嬢様は当然のように答えた。
「おかげで、普段なら立ち寄らないような通りも歩けましたもの」
その言葉を聞いて、私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
以前のお嬢様は、思い通りにならないことを何より嫌っていた。
けれど今は、予定外の出来事さえ楽しめるようになっている。
それは、とても大きな変化だった。
「それから、菓子店で皆さんとお菓子を分け合いましたの」
「まあ」
「同じものを注文するより、いろいろな味を楽しめるでしょう? なかなか合理的な方法ですわね」
お嬢様は得意げに頷いた。
私は思わず笑ってしまいそうになった。
友人同士で菓子を分け合うことを、まるで新しい発見のように語る姿が、何とも微笑ましかったからだ。
「……そうでございますね」
「何ですの、その顔は」
「いいえ。お嬢様が楽しそうで、何よりでございます」
そう答えると、お嬢様は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「……別に、そこまで大げさなことではございませんわ」
けれど、その頬はほんの僅かに赤くなっていた。
私はそれ以上何も言わず、静かに微笑んだ。
こういうときのお嬢様は、あまりからかうと不機嫌になってしまう。
もっとも、最近はその不機嫌さえ、以前ほど恐ろしくはなくなっていた。
◇
お嬢様が湯浴みを終えたあと、私は衣装室で今日の装いを片づけていた。
淡い藤色のワンピースには、街歩きの名残なのか、裾のあたりにほんの少しだけ埃がついている。
以前のお嬢様なら、これを見つけただけで大騒ぎになっていたかもしれない。
けれど今日は、特に気にする様子もなかった。
私は布地を丁寧に確認しながら、ふと数日前のことを思い出した。
お嬢様が学院の魔法具事件に巻き込まれたと聞いたとき、屋敷中が騒然となった。
公爵家の令嬢が、魔法具の細工を疑われている。
その知らせは、使用人たちの間にも大きな不安をもたらした。
けれど、私が何より恐れていたのは、事件そのものではなかった。
お嬢様が、また以前のように心を閉ざしてしまうことだった。
せっかく自分の過去と向き合い、少しずつ変わろうとしている。
それなのに、周囲から疑われ、責められることで、再び誰も信じられなくなってしまったら。
そんなことを考えると、胸が締めつけられるようだった。
だが、お嬢様は逃げなかった。
自分が疑われる理由を理解したうえで、それでも事実を明らかにしようとした。
そして、事件が解決したあとも、誰かを恨むことなく、以前と同じように学院へ通っている。
その姿を見て、私は少しだけ安心した。
お嬢様は、確かに変わろうとしている。
そして、その変化は、決して一時の気まぐれではないのだと。
「……マリアンヌ?」
不意に声をかけられ、私は顔を上げた。
衣装室の入口には、夜着に着替えたお嬢様が立っていた。
「はい、お嬢様」
「何をそんなに考え込んでいらっしゃるの?」
「いいえ。少し昔のことを思い出しておりました」
「昔のこと?」
「はい。お嬢様が、まだ小さかった頃のことです」
お嬢様は少しだけ眉を上げた。
「……何ですの、急に」
「ふふっ。お嬢様は昔から、随分と気位の高いお子様でいらっしゃいましたから」
「……それは、褒めておりますの?」
「もちろんでございます」
私は微笑んだ。
お嬢様は疑わしそうにこちらを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……まあ、よろしいですわ」
そして、少しだけ視線を落とす。
「……マリアンヌ」
「はい」
「わたくし、以前は随分とあなた方へ迷惑をかけておりましたわね」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
お嬢様は静かに続ける。
「今さら謝っても仕方がないこともあるでしょうけれど……」
「お嬢様」
私はそっと言葉を遮った。
「以前のことを、全て忘れることはできません。ですが、今のお嬢様が変わろうとしていらっしゃることは、わたくしどもにも伝わっております」
お嬢様は顔を上げた。
「……そう」
「はい」
私は静かに微笑んだ。
「ですから、どうかこれからも、お嬢様らしくお過ごしくださいませ」
お嬢様は少しだけ考えたあと、小さく笑った。
「……わたくしらしく、ですか」
「ええ」
「それは、なかなか難しい注文ですわね」
そう言いながらも、その表情は穏やかだった。
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
◇
その夜。
お嬢様が眠りにつかれたあと、私は一人で衣装室の整理を続けていた。
棚の上には、今日お嬢様が買ってこられた小さな包みが置かれている。
中には、紫色の紐がついた銀色の栞が入っていた。
高価な宝石でも、特別な装飾品でもない。
けれど、お嬢様は帰宅してから何度もその栞を眺め、大切そうに扱っていらっしゃった。
私はそっと包みを整え、机の上へ置いた。
幼い頃のお嬢様は、欲しいものがあれば何でも手に入れようとなさった。
そして、手に入れたものに飽きれば、すぐに次のものを求めていた。
けれど今は、こんな小さな栞を大切にしていらっしゃる。
それが何より嬉しかった。
私は窓の外へ視線を向けた。
夜の庭園には、月明かりが静かに降り注いでいる。
お嬢様の未来がどうなるのか、私には分からない。
第二王子殿下との婚約も、学院での生活も、これから様々なことが起きるだろう。
それでも、私は願っている。
お嬢様が、これからも自分の意思で歩んでいけるように。
誰かを傷つけることで自分の立場を守るのではなく、誰かと笑い合うことで幸せを見つけられるように。
そして、いつか。
ご自分の過去を振り返ったとき、後悔だけではなく、温かな思い出もたくさん残っているように。
「……おやすみなさいませ、お嬢様」
私は小さく呟き、静かに灯りを落とした。
明日もきっと、お嬢様は何かに驚き、何かに怒り、そして何かに笑うのだろう。
そのすべてを、これからも近くで見守っていきたい。
そう思いながら、私はそっと衣装室の扉を閉じた。




