19話 友人とのお出かけは予定通りにいきませんの?
週末の予定を尋ねられたとき、オクタヴィア・ローゼンフェルトは、特に深く考えずに答えた。
「今のところ、これといった予定はございませんわね」
その瞬間、エレノアの顔がぱっと明るくなった。
「でしたら、オクタヴィア様! 今度のお休みに、わたくしたちと王都へお出かけになりませんか?」
昼休みの食堂。
食後のお茶を楽しんでいたオクタヴィアは、カップを持つ手を止めた。
「……お出かけ?」
「はい! 王都の商業区に、新しい菓子店ができたそうなのです。とても評判がよいらしくて、ぜひ皆さんで行ってみたいと思っておりましたの」
フェリシアも頷いた。
「そのお店、焼き菓子が有名なのだそうですわ。季節の果物を使った小さなタルトが、とても可愛らしいとか」
「わたくしは、近くの文具店にも寄ってみたいです」
ナタリアが控えめに続ける。
「珍しい色のインクや便箋を扱っているそうなので……」
オクタヴィアは三人を見渡した。
菓子店に文具店。
いずれも、特別珍しい場所というわけではない。
公爵家の令嬢であるオクタヴィアは、これまで買い物をするとき、店の方から屋敷へ品物を持ってこさせることが多かった。出かけるとしても、仕立て屋や宝飾店など、あらかじめ用件が決まっている場所ばかりである。
何の用事もなく街を歩き、気になった店へ立ち寄る。
そんな経験は、ほとんどなかった。
(……なるほど。友人同士のお出かけ、というものですわね)
前世では当たり前のようにしていたことだ。
放課後に友達と寄り道をしたり、休日に買い物へ行ったり、特に目的もなく店を覗いて回ったり。
けれど、今の自分にとっては少々新鮮だった。
「……よろしいですわ」
オクタヴィアは優雅に頷いた。
「わたくしもご一緒いたします」
「本当ですか!」
エレノアが嬉しそうに身を乗り出す。
「ええ。ただし、わたくしは街歩きにはあまり慣れておりませんの。案内はお任せしてもよろしくて?」
「もちろんですわ!」
エレノアは自信満々に頷いた。
「お店の場所も、行き方も、きちんと調べておきます!」
フェリシアとナタリアも嬉しそうに笑う。
その様子を見て、オクタヴィアは少しだけ口元を緩めた。
(……ふふ。悪くありませんわね)
こうして誰かと予定を立てるのも、案外楽しいものらしい。
◇
約束の日。
オクタヴィアは朝から、衣装室の前で腕を組んでいた。
「……困りましたわね」
目の前には、色とりどりのドレスが並んでいる。
どれも一流の仕立て屋が手がけた品ばかりで、社交の場へ出るなら何の問題もない。
しかし、今回の目的は友人との街歩きである。
あまりにも華美な装いでは、かえって浮いてしまうだろう。
「マリアンヌ」
「はい、お嬢様」
「友人と買い物へ行く場合、どの程度の装いが適切なのかしら」
マリアンヌは少しだけ考えた。
「そうでございますね。動きやすく、なおかつお嬢様のお立場にふさわしい装いがよろしいかと」
「……随分と難しいことをおっしゃいますのね」
「ですが、お嬢様でしたら、どのようなお召し物でもお似合いになります」
「それは当然ですわ」
即座に答えると、マリアンヌは小さく微笑んだ。
「では、こちらはいかがでしょう」
彼女が選んだのは、淡い藤色のワンピースだった。
胸元には控えめな刺繍が施され、袖口には細いレースがあしらわれている。華やかすぎず、それでいて上品さを失わない一着である。
「……悪くありませんわね」
「お嬢様の黒髪にもよくお似合いになると思います」
オクタヴィアは鏡の前でワンピースを合わせてみた。
確かに、短く整えた黒髪との相性もよい。
「では、これにいたしますわ」
「承知いたしました」
マリアンヌが嬉しそうに頷く。
着替えを終えたオクタヴィアは、鏡の中の自分を見つめた。
以前なら、王都へ出かけるとなれば、誰よりも目立つ装いを選んでいただろう。
しかし今日は、少しだけ違う。
自分が美しく見えることも大切だが、友人たちと並んで歩くことを考えると、あまり派手すぎない方がよい気がした。
(……わたくしも、少しは成長したということかしら)
そう思いながら満足げに頷く。
すると、背後からマリアンヌが静かに口を開いた。
「お嬢様」
「何かしら」
「本日は、どうぞ楽しんでいらしてくださいませ」
オクタヴィアは鏡越しに彼女を見た。
マリアンヌは穏やかに微笑んでいる。
「……ええ。そういたしますわ」
オクタヴィアも小さく笑った。
◇
王都の商業区は、休日ということもあって多くの人々で賑わっていた。
石畳の道には馬車が行き交い、店先には色鮮やかな商品が並んでいる。焼きたてのパンの香りや、花屋から漂う甘い香りが混ざり合い、通り全体がどこか楽しげな空気に包まれていた。
待ち合わせ場所へ到着すると、既にエレノアたちが待っていた。
「オクタヴィア様!」
エレノアが手を振る。
彼女は淡い水色のドレスを身につけ、いつもの青いリボンで金髪をまとめていた。
フェリシアは落ち着いた若草色、ナタリアは柔らかな桃色の装いである。
「ごきげんよう、皆さん。お待たせしましたわね」
「いいえ! わたくしたちも、つい先ほど来たところです」
エレノアはオクタヴィアの装いを見て、目を輝かせた。
「まあ、オクタヴィア様! 今日のお召し物、とても素敵ですわ!」
「ありがとう。あなた方もよくお似合いですわね」
そう答えると、三人は嬉しそうに微笑んだ。
以前なら、褒められることはあっても、自分から誰かの装いを褒めることは少なかった気がする。
けれど、こうして並んでいると、自然と言葉が出てきた。
「それでは、参りましょうか」
エレノアが先頭に立ち、四人は商業区の通りを歩き始めた。
もちろん、公爵令嬢の外出である以上、護衛が全くいないわけではない。少し離れたところにはローゼンフェルト家の護衛が付き添っていたが、必要以上に目立たないよう配慮されている。
そのおかげで、オクタヴィアたちは比較的自由に街を歩くことができた。
「まずは菓子店へ向かいましょう!」
エレノアが嬉しそうに告げる。
「そのあと、ナタリアの行きたい文具店へ寄って、時間があれば服飾店も覗いてみませんか?」
「素敵ですわね」
フェリシアが頷く。
オクタヴィアも満足げに微笑んだ。
実に順調な滑り出しである。
少なくとも、このときまでは。
◇
「……エレノア」
「は、はい?」
「こちらで間違いありませんのね?」
オクタヴィアは目の前の建物を見上げた。
そこには、菓子店ではなく、立派な馬具店があった。
店先には革製の鞍や手綱が並び、看板には勇ましい馬の絵が描かれている。
エレノアは手元の地図を見つめ、困ったように首を傾げた。
「……おかしいですわね」
「ええ。大変おかしいですわ」
「確か、この通りを右へ曲がって……」
「右?」
フェリシアが地図を覗き込む。
「エレノア、ここは左ではありませんこと?」
「……えっ?」
ナタリアもそっと地図を確認した。
「……本当です。こちらの道を曲がるはずだったみたいです」
エレノアの顔が赤くなる。
「も、申し訳ございません!」
オクタヴィアはしばらく彼女を見つめていた。
以前なら、きっと不機嫌になっていただろう。
公爵令嬢である自分を無駄に歩かせたことを責め、もっときちんと調べておくべきだったと叱っていたに違いない。
だが、今日は不思議と腹が立たなかった。
むしろ、少しだけ可笑しい。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
エレノアが驚いたように顔を上げた。
「オクタヴィア様?」
「いいえ、何でもありませんわ」
オクタヴィアは小さく首を振った。
「せっかくですもの。少しくらい寄り道をしてもよろしいでしょう」
「……よろしいのですか?」
「ええ。そもそも、今日は急ぐ用事もございませんもの」
そう答えると、エレノアはほっとしたように笑った。
「ありがとうございます!」
オクタヴィアは少しだけ顎を上げた。
「ただし、次はきちんと地図をご確認なさい」
「はい!」
四人は顔を見合わせ、思わず笑い合った。
どうやら、予定通りにいかないことも、友人とのお出かけの楽しさの一つらしい。
◇
ようやく辿り着いた菓子店は、評判通りの素敵な店だった。
大きな窓から陽光が差し込み、店内には焼きたての菓子の甘い香りが漂っている。ショーケースには色鮮やかな果物を使ったタルトや、小さな焼き菓子が美しく並べられていた。
「まあ……!」
エレノアが目を輝かせる。
「とても可愛らしいですわね!」
「本当ですわ」
フェリシアも嬉しそうに頷いた。
オクタヴィアはショーケースを眺めながら、少しだけ考え込んだ。
どれも美味しそうではある。
しかし、種類が多すぎる。
「……困りましたわね」
思わず呟くと、ナタリアが顔を上げた。
「どうかなさいましたか?」
「どれを選ぶべきか、少々迷っておりますの」
ナタリアは小さく微笑んだ。
「でしたら、皆さんで違うものを選んで、少しずつ分け合うのはいかがでしょう?」
オクタヴィアは目を瞬いた。
「……分け合う?」
「はい。そうすれば、いろいろなお味を楽しめますから」
オクタヴィアはしばらく黙っていた。
前世では、友達と菓子を分け合うことなど珍しくなかった。
しかし、公爵令嬢としての自分は、誰かと一つの皿を分け合うという経験がほとんどない。
(……なるほど。そういう楽しみ方もございましたわね)
「よろしいですわ」
オクタヴィアは頷いた。
「では、皆さんで違うものを選びましょう」
三人が嬉しそうに笑う。
こうして四人は、それぞれ好みの菓子を注文した。
オクタヴィアが選んだのは、薄い飴細工で飾られた苺のタルト。
エレノアは桃のムース、フェリシアは香ばしい木の実の焼き菓子、ナタリアは柑橘のクリームを使った小さなケーキを選んだ。
席へ運ばれてきた菓子を前に、四人はしばらく目を輝かせていた。
「……美しいですわね」
オクタヴィアが呟くと、エレノアが嬉しそうに頷いた。
「ええ! 食べてしまうのがもったいないくらいですわ」
それでも、菓子は食べるためにある。
オクタヴィアは小さなフォークを手に取り、苺のタルトを一口食べた。
甘酸っぱい苺と、香ばしい生地の組み合わせが絶妙だった。
「……美味しいですわ」
思わず笑みがこぼれる。
その様子を見て、エレノアたちも嬉しそうに微笑んだ。
やがて、互いの菓子を少しずつ取り分けることになった。
オクタヴィアは最初こそ戸惑っていたものの、すぐにその楽しさを理解した。
同じ菓子を食べても、人によって好みが違う。
甘いものが好きなエレノアは桃のムースを絶賛し、フェリシアは木の実の香ばしさを気に入っていた。
ナタリアは柑橘の爽やかな風味を好み、オクタヴィアは結局、自分が選んだ苺のタルトが一番だと結論づけた。
「……やはり、わたくしの選択は間違っておりませんでしたわね」
満足げに頷くと、フェリシアが小さく笑った。
「ふふっ。オクタヴィア様らしいですわ」
「何かおかしいことでも?」
「いいえ。ただ、とても楽しそうでいらっしゃるので」
オクタヴィアは少しだけ目を瞬いた。
「……そう見えまして?」
「ええ」
エレノアも頷いた。
「わたくしたちも、とても楽しいですわ」
ナタリアも微笑む。
オクタヴィアは三人を見つめた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そう。それなら、よかったですわ」
誰かと同じ時間を楽しむ。
ただそれだけのことが、こんなにも心地よいものだったとは。
オクタヴィアは少しだけ驚いていた。
◇
菓子店を出たあと、四人はナタリアの希望していた文具店へ向かった。
店内には色とりどりのインクや便箋、装飾の施された羽根ペンなどが並び、ナタリアは目を輝かせながら棚を眺めていた。
「……素敵ですわね」
オクタヴィアも一つの便箋を手に取った。
淡い青色の紙に、銀色の小さな花模様があしらわれている。
派手すぎず、それでいて上品な仕上がりだった。
「こちら、なかなかよろしいのではなくて?」
そう尋ねると、ナタリアが嬉しそうに頷いた。
「ええ! わたくしも、先ほどから気になっておりました」
「そう。では、これをいただこうかしら」
オクタヴィアは便箋を手に取り、店員へ声をかけようとした。
しかし、その直前にふと思いつく。
「……そういえば、皆さん」
三人が顔を上げる。
「わたくし、今日のお出かけの記念に、何か一つずつお揃いのものを買いたいのですけれど」
エレノアが目を輝かせた。
「お揃い、ですか?」
「ええ。せっかく四人で出かけたのですもの。何か形に残るものがあってもよろしいでしょう?」
フェリシアが嬉しそうに微笑む。
「素敵ですわね!」
ナタリアも頷いた。
「でしたら、こちらの小さな栞はいかがでしょう?」
彼女が示したのは、細い銀色の飾りがついた栞だった。
先端には小さな花の意匠が施されており、色違いの紐が四種類用意されている。
「……なるほど」
オクタヴィアは栞を手に取った。
高価な品というわけではない。
公爵家の令嬢である自分なら、もっと豪華なものを選ぶこともできるだろう。
けれど、今はそれが重要ではない気がした。
「よろしいですわ。これにいたしましょう」
四人はそれぞれ好みの色を選んだ。
オクタヴィアは深い紫色。
エレノアは青色。
フェリシアは若草色。
ナタリアは桃色。
同じ形でありながら、それぞれの個性が表れているようで、オクタヴィアは少しだけ嬉しくなった。
「……大切にいたしますわ」
そう呟くと、エレノアが嬉しそうに微笑んだ。
「わたくしもです!」
フェリシアとナタリアも頷いた。
その様子を見て、オクタヴィアはふと思う。
以前の自分なら、こうした小さな品を記念として大切にすることなど、考えもしなかっただろう。
けれど今は、これを見るたびに今日のことを思い出すのだろうと思えた。
道を間違えたこと。
菓子店で笑い合ったこと。
それぞれが好きなものを選んだこと。
そんな些細な出来事が、少しずつ大切な思い出になっていく。
(……友人というのも、なかなか奥が深いものですわね)
オクタヴィアは小さく微笑んだ。
◇
夕方、待ち合わせ場所へ戻った四人は、名残惜しそうに別れの挨拶を交わしていた。
「今日は本当に楽しかったですわ!」
エレノアが嬉しそうに言う。
「ええ。わたくしもです」
フェリシアが頷き、ナタリアも微笑んだ。
オクタヴィアは三人を見渡した。
そして、少しだけ照れくさそうに口を開く。
「……わたくしも、楽しかったですわ」
エレノアが目を見開いた。
「オクタヴィア様……!」
「何ですの、その反応は」
「いえ、その……嬉しくて」
オクタヴィアは呆れたように息を吐いた。
「まったく、あなたは少々大げさですわね」
そう言いながらも、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
馬車へ乗り込む直前、オクタヴィアはふと振り返った。
「……皆さん」
三人が顔を上げる。
「また、誘ってくださる?」
エレノアの表情がぱっと明るくなった。
「もちろんですわ!」
フェリシアとナタリアも嬉しそうに頷いた。
オクタヴィアは満足げに微笑み、馬車へ乗り込んだ。
窓の外では、夕暮れの街並みがゆっくりと流れていく。
膝の上には、今日買った小さな栞が入った包みがあった。
オクタヴィアはそれをそっと手に取り、紫色の紐を指先で撫でた。
公爵令嬢として生きてきた十五年間。
高価な宝石も、美しいドレスも、望めば大抵のものは手に入った。
けれど、今日のような時間は、これまでほとんど知らなかった。
誰かと一緒に道を間違え、同じ菓子を分け合い、何でもないことで笑う。
そんな一日が、これほど心に残るとは思わなかった。
(……本当に、不思議なものですわね)
オクタヴィアは小さく微笑んだ。
悪役令嬢としての人生は、まだまだ先が長い。
これからも、きっと面倒なことは起きるだろう。
それでも、今日のような日が少しずつ増えていくのなら。
(……案外、悪くない未来かもしれませんわね)
そう思いながら、オクタヴィアは大切そうに栞を包みへ戻した。
夕暮れの王都を走る馬車の中で、彼女は久しぶりに、何の心配もなく穏やかな気持ちで帰路についたのだった。




