18話 お願いする相手を間違えていませんこと?
王立セレファイス学院には、入学して間もない生徒たちにとって、少々厄介な習慣があった。
それは、各教科の教師が課題を出す際、他の教科の課題量をほとんど考慮してくれないことである。
歴史の教師は王国建国期の貴族制度について小論文を求め、魔法理論の教師は基礎術式の解析を命じ、礼法の教師に至っては、次の授業までに正式な招待状の書式を三種類覚えてくるようにと告げた。
それぞれの教師にしてみれば、ほんの少しの課題なのだろう。
だが、それが同じ週に重なれば話は別である。
(……学院というところは、もう少し優雅な場所ではありませんでしたの?)
放課後の図書室で、オクタヴィア・ローゼンフェルトは手元の課題を見つめながら、心の中で盛大にため息をついた。
もちろん、内容そのものが難しいわけではない。
公爵令嬢として幼い頃から家庭教師の指導を受けてきたオクタヴィアにとって、貴族制度や礼法はむしろ得意分野である。
問題は量だった。
せっかく魔法具事件も解決し、ようやく穏やかな学院生活を送れると思った矢先に、これでは少々興ざめである。
「……まったく、教師の方々は生徒の自由時間を何だと思っていらっしゃるのかしら」
思わず小さく呟くと、向かいの席に座っていたレオンハルトが本から顔を上げた。
「課題は終わったのか」
「あと少しですわ」
「さっきもそう言っていたな」
「……あなた、わたくしの進捗を監視していらっしゃるの?」
「声が聞こえるだけだ」
レオンハルトは涼しい顔で答え、再び本へ視線を戻した。
オクタヴィアは不満そうに唇を尖らせる。
(……この男、もう少し言い方というものがございますでしょうに)
もっとも、彼が向かいに座っていること自体には、もう随分と慣れてしまった。
事件の調査が終わってからも、二人は図書室で顔を合わせることが多い。特に約束をしているわけではないのだが、レオンハルトは大抵この時間にここへいるのである。
オクタヴィアは羽根ペンを持ち直し、再び課題へ向き直った。
そのときだった。
「あの……ローゼンフェルト様」
控えめな声に顔を上げると、そこにはセシリア・アーデンが立っていた。
淡い栗色の髪を肩の後ろへ流し、胸元には何冊かの本を抱えている。
「あら、セシリア。ごきげんよう」
「ごきげんよう。お勉強中に申し訳ありません」
「構いませんわ。ちょうど休憩しようと思っていたところですもの」
向かいから、何か言いたそうな視線を感じた。
オクタヴィアはレオンハルトを睨む。
「……何ですの?」
「いや、何でもない」
「でしたら、こちらを見ないでくださる?」
レオンハルトは僅かに口元を緩めたが、それ以上は何も言わなかった。
セシリアは二人のやり取りを不思議そうに見つめていたものの、やがて思い出したように姿勢を正した。
「実は、ローゼンフェルト様にお願いがございまして」
「わたくしに?」
「はい」
オクタヴィアは少しだけ眉を上げた。
セシリアから何かを頼まれるのは、これが初めてだった。
これまでは、事件に巻き込まれたり、過去のことについて話し合ったりと、どうしても重い話題が多かったのである。
(……まさか、また何か事件が起きたのではありませんわよね?)
一瞬そんな考えが浮かんだが、セシリアの表情を見る限り、深刻な問題というわけではなさそうだった。
「それで、何をお願いしたいのかしら」
セシリアは少しだけ緊張した様子で口を開いた。
「……礼法の課題を、教えていただけませんか?」
オクタヴィアは目を瞬いた。
「…………礼法?」
「はい」
「……わたくしに?」
「はい」
オクタヴィアはしばらく黙っていた。
そして、思わず口を開く。
「……お願いする相手を間違えていませんこと?」
セシリアは驚いたように顔を上げた。
「えっ?」
「いえ、もちろん礼法については心得ておりますけれど……」
オクタヴィアは少しだけ言葉を探した。
自分がセシリアへ礼法を教える。
それ自体は、別におかしなことではない。
むしろ、公爵令嬢として育ってきたオクタヴィアにとって、礼法は得意分野である。
しかし、相手がセシリアとなれば話は少し違ってくる。
以前の自分は、彼女の家柄や振る舞いを見下していた。
そんな相手へ、今さら礼法を教えるなどと申し出てよいものだろうか。
だが、セシリアは真剣な表情で続けた。
「ローゼンフェルト様は、学院でも特に礼法がお上手だと伺いました。授業でのご様子も、とても綺麗でしたし……」
「……そう」
「それに、わたしは地方の男爵家の出身なので、正式な招待状の書き方や、貴族同士の細かな決まりについて、まだ分からないことが多いんです」
セシリアは少しだけ視線を落とした。
「授業についていけないわけではないのですが、間違ったことを覚えてしまうのが怖くて……」
オクタヴィアは静かに彼女を見つめた。
セシリアが特別な推薦を受けて入学したのは、魔法の才能を評価されたからだ。
しかし、それと貴族社会の礼法に慣れているかどうかは別の話である。
地方の男爵家と王都の公爵家では、出席する社交の場も、求められる作法も随分と異なる。
(……なるほど)
それなら、確かに自分が役に立てることはあるだろう。
「分かりましたわ」
オクタヴィアは頷いた。
「ただし、わたくしは少々厳しいですわよ?」
セシリアの表情が明るくなる。
「はい! よろしくお願いいたします!」
「……そんなに嬉しそうにされると、こちらが困りますわね」
オクタヴィアは小さく笑い、隣の席を示した。
「こちらへお座りなさい。まずは課題を見せていただける?」
セシリアは嬉しそうに頷き、椅子へ腰を下ろした。
◇
「……なるほど。こちらの書式で迷っていらっしゃるのね」
オクタヴィアはセシリアの課題を確認しながら、静かに頷いた。
今回の課題は、異なる立場の相手へ送る招待状を三種類作成するというものだった。
一つは同格の貴族家への正式な招待状。
一つは目上の家への招待状。
そして最後は、親しい相手を私的なお茶会へ招くための手紙である。
「形式そのものは難しくありませんわ。ただ、相手との関係によって、使う表現を変える必要がございますの」
「はい」
「例えば、こちら。目上の方へ送る招待状なのに、少々親しげすぎますわね」
オクタヴィアは一箇所を指で示した。
セシリアは慌てて覗き込む。
「あっ……本当ですね」
「ええ。ただ、全体の構成は悪くありませんわ。むしろ、初めてにしてはよく書けております」
「ありがとうございます!」
セシリアは嬉しそうに微笑んだ。
オクタヴィアはその様子を見ながら、少しだけ不思議な気分になった。
以前の自分なら、こうした間違いを見つけた瞬間に、相手の家柄を持ち出して嘲笑していただろう。
しかし今は、間違いを直せばよいだけだと思える。
それが当然のことだと理解していても、実際にこうして向き合うと、過去の自分の振る舞いがいかに無意味だったかを思い知らされる。
「……ところで、セシリア」
「はい?」
「あなた、どうしてわたくしにお願いしようと思いましたの?」
セシリアは少しだけ目を瞬いた。
「……どうして、ですか?」
「ええ。礼法なら教師へ質問することもできますし、他にも得意な方はいらっしゃるでしょう?」
オクタヴィアは静かに続けた。
「それに、以前のわたくしがあなたへどのような態度を取っていたか、忘れたわけではないでしょう?」
セシリアはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「……忘れてはいません」
その答えは、はっきりしていた。
「でも、今回の事件で助けていただいたことも、以前アーデン家のことについて謝ってくださったことも、覚えています」
オクタヴィアは黙って聞いていた。
「だから、もう少しお話ししてみたいと思ったんです」
「……わたくしと?」
「はい」
セシリアは少しだけ照れくさそうに笑った。
「それに、ローゼンフェルト様は礼法がお得意ですから。教えていただけたら、きっと勉強になると思いました」
オクタヴィアは一瞬だけ言葉に詰まった。
(……この子、本当に正直ですわね)
過去のことを忘れたわけではない。
それでも、今の自分を見ようとしてくれている。
その事実が、思っていた以上に嬉しかった。
「……そう」
オクタヴィアは少しだけ微笑んだ。
「でしたら、期待に応えなければなりませんわね」
「はい!」
「ただし、遠慮はいたしませんわよ。間違っているところは、きちんと指摘いたします」
「もちろんです!」
セシリアが元気よく頷く。
その様子を見て、オクタヴィアは思わず笑ってしまった。
どうやら、今日の勉強会は少々賑やかになりそうだった。
◇
それから一時間ほどが経った。
セシリアの課題は順調に進み、三種類の招待状もほとんど完成していた。
「……よろしいですわ。これなら、教師の方へ提出しても問題ないでしょう」
オクタヴィアが頷くと、セシリアはほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます、ローゼンフェルト様!」
「どういたしまして」
オクタヴィアは満足げに微笑んだ。
自分の知識が誰かの役に立つというのは、思っていた以上に気分のよいものだった。
しかも、相手があのセシリアである。
原作では敵対するはずだった少女と、こうして隣同士に座って勉強しているのだから、人生とは分からないものだ。
そのとき、向かいの席からレオンハルトが口を開いた。
「……随分と楽しそうだな」
オクタヴィアは顔を上げた。
「何ですの、急に」
「いや。さっきから、ずっと機嫌がよさそうだからな」
「……そう見えまして?」
「ああ」
オクタヴィアは少しだけ考えた。
そして、肩をすくめる。
「まあ、悪い気分ではございませんわね」
レオンハルトは僅かに笑った。
「そうか」
「……何ですの、その笑い方は」
「別に」
「絶対に何か思っていらっしゃるでしょう!」
思わず声を上げかけたところで、セシリアが小さく笑った。
「……お二人は、仲がよろしいのですね」
オクタヴィアは固まった。
「…………はい?」
レオンハルトも本から顔を上げる。
セシリアは二人の反応に気づかず、微笑みながら続けた。
「だって、とても自然にお話しされていますから。わたし、少し羨ましいです」
オクタヴィアは思わず咳払いをした。
「……セシリア」
「はい?」
「少々、誤解がございますわ」
「誤解、ですか?」
「ええ。わたくしとこの方は、事件の調査で協力しただけですのよ」
セシリアは不思議そうに首を傾げた。
「でも、事件はもう解決しましたよね?」
「……それは」
「それでも、こうして一緒にいらっしゃるので……」
オクタヴィアは言葉に詰まった。
確かに、事件は既に解決している。
それなのに、こうして同じ席に座り、何の用事もないのに言い合いをしている。
それは一体、どういう関係なのだろう。
(……いえ、別に深い意味などございませんわよね?)
オクタヴィアはちらりとレオンハルトを見た。
彼は相変わらず涼しい顔をしている。
「……レオンハルト、あなたからも何かおっしゃいなさい」
「何をだ」
「誤解を解くのですわ!」
「別に、誤解でもないだろう」
「…………はい?」
オクタヴィアは目を見開いた。
レオンハルトは本を閉じ、淡々と続けた。
「少なくとも、知り合いではある」
「……それはそうですけれど!」
「なら、問題ない」
「問題はそこではございませんわ!」
セシリアがとうとう声を上げて笑った。
その笑い声に、近くの席にいた生徒たちが何事かと振り返る。
オクタヴィアは慌てて口を閉じ、頬を赤くしながら姿勢を正した。
(……もう! 本当に、この男は!)
レオンハルトは相変わらず楽しそうに笑っている。
オクタヴィアは不満そうに睨んだものの、結局それ以上は何も言わなかった。
なぜなら、セシリアがあまりにも楽しそうに笑っていたからだ。
以前の自分を知る彼女が、こうして目の前で笑っている。
その光景が、何となく嬉しかったのである。
◇
図書室を出る頃には、窓の外が夕暮れの色に染まり始めていた。
セシリアは完成した課題を大切そうに抱え、オクタヴィアへ深く頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました」
「もう十分ですわ。何度もお礼を言われると、こちらが落ち着きませんもの」
「ふふっ、すみません」
セシリアは少しだけ笑った。
そして、何かを思い出したように顔を上げる。
「あの、ローゼンフェルト様」
「何かしら?」
「また、分からないことがあったら教えていただいてもよろしいでしょうか?」
オクタヴィアは少しだけ眉を上げた。
「……もちろん、わたくしに分かることでしたら」
セシリアの表情が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし、わたくしも万能ではございませんわよ」
「はい!」
「……あなた、本当に元気ですわね」
思わず笑ってしまう。
セシリアも嬉しそうに笑った。
そのとき、オクタヴィアはふと思いついた。
「……そういえば、セシリア」
「はい?」
「あなた、魔法理論はお得意でしょう?」
セシリアは少しだけ首を傾げた。
「ええ。好きな科目ですけれど……」
「でしたら、今度はわたくしに教えてくださらない?」
セシリアは目を見開いた。
「……わたしが、ですか?」
「ええ」
オクタヴィアは当然のように頷いた。
「わたくし、基礎理論は理解しておりますけれど、光属性の応用術式についてはあまり詳しくありませんの。あなたの考え方を聞いてみたいと思っておりました」
セシリアはしばらく驚いたようにしていたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「……はい! ぜひ!」
「では、決まりですわね」
オクタヴィアは満足げに頷いた。
教えるだけではなく、教わることもある。
相手が自分より身分の低い令嬢だからといって、その知識や才能まで下に見る必要はない。
そんな当たり前のことを、以前の自分は知らなかった。
いや、知ろうともしなかったのだろう。
(……本当に、わたくしは随分と損をしていましたのね)
セシリアが笑顔で去っていくのを見送りながら、オクタヴィアは静かに思った。
誰かと友人になるというのは、相手へ何かを与えるだけではない。
自分もまた、相手から多くのものを受け取ることなのだ。
それが知識であったり、言葉であったり、ときにはただ一緒に笑う時間であったりする。
そう考えると、少しだけ楽しみになってくる。
これから、この学院でどのような人々と出会い、どのような時間を過ごしていくのか。
原作の物語とは違う未来が、少しずつ広がり始めている。
「……さて」
オクタヴィアは小さく息を吐き、鞄を持ち直した。
「そろそろ帰りましょうか」
隣にいたレオンハルトが頷く。
「ああ」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
しばらくして、レオンハルトが何気なく口を開く。
「……ところで、課題は終わったのか?」
オクタヴィアの足が止まった。
「…………」
沈黙。
そして、数秒後。
「……忘れておりましたわ」
レオンハルトが小さく笑った。
「だろうな」
「……あなた、分かっていたなら教えてくださってもよろしかったでしょう!」
「聞かれなかったからな」
「本当に、あなたという方は……!」
夕暮れの廊下に、オクタヴィアの抗議する声が響いた。
こうして、悪役令嬢の穏やかな学院生活は、今日も少しだけ騒がしく過ぎていくのだった。




