17話 悪役令嬢にも友人は必要ですの?
王立セレファイス学院に入学してから、初めて何事もない朝を迎えた。
少なくとも、オクタヴィア・ローゼンフェルトはそう思っていた。
教室に入っても妙な視線を向けられることはなく、授業中に魔法具が爆発することもなく、廊下を歩けば見知った令嬢たちがごく普通に挨拶をしてくる。以前なら当然だと思っていた光景が、今では少しばかり新鮮に感じられた。
(……平和ですわね)
窓際の席に腰を下ろし、オクタヴィアは満足げに頷いた。
思えば、前世の記憶を取り戻してからというもの、謝罪に奔走したかと思えば入学早々に騒動へ巻き込まれ、挙げ句の果てには魔法具の爆発事件で容疑者扱いまでされたのである。
たった十日ほどの出来事とは到底思えない。
(これでようやく、優雅な学院生活を満喫できますわ)
公爵令嬢たるもの、日々を穏やかに、そして美しく過ごすべきだ。
もちろん勉学も疎かにはしないが、何より大切なのは余裕である。事件のたびに図書室へ駆け込み、眉間に皺を寄せながら古い術式を調べる生活など、もう十分だった。
「オクタヴィア様、おはようございます!」
そんなことを考えていると、エレノアが明るい声で近づいてきた。
後ろにはフェリシアとナタリアもいる。
「ごきげんよう、皆さん。今日は随分とお早いのね」
「はい。朝からオクタヴィア様とお話ししたいことがございましたので」
「あら、何かしら」
「それは、お昼休みのお楽しみですわ」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
オクタヴィアは少しだけ眉を上げる。
「……随分ともったいぶりますのね」
「ふふっ、たまにはよろしいでしょう?」
「まあ、構いませんけれど」
そう答えながらも、オクタヴィアは僅かな不安を覚えた。
ここ最近、誰かから話があると言われるたびに、ろくなことが起きていない気がする。
(……いえ、考えすぎですわね)
事件は終わったのだ。
今度こそ、平穏な一日になるはずである。
◇
昼休み。
いつものように食堂の一角へ集まったオクタヴィアたちは、運ばれてきた昼食を前に、穏やかな会話を楽しんでいた。
今日の献立は香草を使った鶏肉料理と、春野菜のスープ。それに焼きたてのパンが添えられている。
オクタヴィアはスープを一口飲み、満足げに頷いた。
「今日のスープはなかなかですわね」
「ええ。春野菜の甘みがよく出ていますわ」
フェリシアが同意し、ナタリアも小さく微笑んだ。
以前なら、オクタヴィアが料理を褒めれば三人は競うように賛同していたものだが、最近はそれぞれが自分の好みを口にするようになっている。
たとえば昨日、フェリシアは食堂の魚料理が少々塩辛いと言い、ナタリアはむしろその方が好みだと答えていた。
実に些細なことだ。
けれどオクタヴィアは、そういう会話が案外嫌いではなかった。
「ところで、オクタヴィア様」
食事が一段落した頃、エレノアが少し改まった声で切り出した。
「今朝お話しした件なのですが」
「ああ、そうでしたわね。何か相談でもございますの?」
「相談というほどではありません。ただ、以前から少し気になっていたことがございまして」
エレノアは一度フェリシアとナタリアへ視線を向けた。
二人は何かを知っているらしく、揃って頷いている。
オクタヴィアは首を傾げた。
「……何でしょう?」
「オクタヴィア様は、わたくしたちのことを……ご友人だと思ってくださっているのでしょうか?」
オクタヴィアの手が止まった。
「…………はい?」
思わず聞き返してしまった。
エレノアは少しだけ頬を赤くしながらも、真剣な表情を崩さない。
「その、これまではオクタヴィア様のおそばにいることが当然だと思っておりましたけれど、最近は以前と随分と変わりましたでしょう?」
「……そうですわね」
「ですから、改めてお尋ねしてみたくなったのです」
オクタヴィアは三人を見渡した。
エレノアは期待と不安の入り混じった顔をしており、フェリシアは落ち着かない様子でカップを持ち直している。ナタリアに至っては、こちらの返答を待つあまり、食後のお茶に口をつけることさえ忘れているようだった。
(……友人?)
その言葉が、頭の中で妙に大きく響いた。
友人。
前世では、当たり前のように使っていた言葉である。
学校で一緒に昼食を食べたり、帰り道に寄り道をしたり、くだらない話で笑い合ったりする相手を、特に深く考えることもなく友達と呼んでいた。
だが、オクタヴィア・ローゼンフェルトとしての十五年間を振り返ると、事情は少々異なる。
彼女の周囲には、いつも多くの令嬢たちがいた。
公爵家の娘であり、第二王子の婚約者でもあるオクタヴィアの機嫌を損ねないよう、誰もが言葉を選び、彼女が望むことを先回りして叶えようとしていた。
そして、オクタヴィア自身もそれを当然だと思っていたのだ。
(……わたくし、あの子たちのことを何だと思っていましたの?)
取り巻き。
その言葉が、真っ先に浮かんだ。
もちろん、彼女たちを嫌っていたわけではない。エレノアのことも、フェリシアやナタリアのことも、気に入っていたからこそそばに置いていたのだろう。
けれど、それは友人だったのだろうか。
「……オクタヴィア様?」
エレノアの声に、オクタヴィアは我に返った。
「ええ、聞いておりますわ」
「その……答えにくいことをお尋ねしてしまったでしょうか」
「いいえ。ただ、少し考えておりましたの」
オクタヴィアはカップを置き、姿勢を正した。
「正直に申し上げますと、わたくしにはよく分かりませんわ」
エレノアの表情が僅かに曇る。
その変化を見て、オクタヴィアは慌てて言葉を続けた。
「勘違いなさらないで。あなた方と過ごす時間が嫌だという意味ではありませんのよ」
「……はい」
「ただ、以前のわたくしは、あなた方に随分と勝手なことを申しつけておりましたでしょう? 自分の機嫌を取らせて、気に入らない方を遠ざけるようなことまでさせて……」
フェリシアが視線を落とした。
ナタリアも黙っている。
オクタヴィアは静かに続けた。
「そのような関係を、今さら友人だったと言い切ってよいものか、少々迷っておりますの」
エレノアはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振った。
「……ですが、わたくしはオクタヴィア様のおそばにいたかったのです」
「エレノア」
「もちろん、以前のわたくしにも間違っていたところがございます。オクタヴィア様に喜んでいただきたくて、よく考えもせずに人を傷つけるようなことをしてしまいました」
彼女は膝の上で手を重ねた。
「でも、それだけではありません。お茶会でお話ししたことも、お買い物にご一緒したことも、わたくしにとっては楽しい思い出です」
フェリシアも頷いた。
「わたくしも、そうですわ。以前のことを反省しなければならないのは確かですけれど、オクタヴィア様と過ごした時間が全て嫌だったわけではありません」
「……わたくしもです」
ナタリアが控えめに口を開く。
「ただ、これからはもう少し、自分の考えもお伝えできたらと思っております」
オクタヴィアは三人を見つめた。
思いがけず、胸の奥が温かくなる。
(……困りましたわね)
こんなことを言われるとは思っていなかった。
以前の自分なら、彼女たちが自分を慕うのは当然だと受け取っていたに違いない。
けれど今は、その言葉が少しだけ嬉しい。
「……そう」
オクタヴィアはゆっくり微笑んだ。
「でしたら、わたくしも一つ申し上げておきますわ」
三人が顔を上げる。
「わたくし、友人の作り方など存じませんの」
エレノアが目を瞬いた。
「……え?」
「これまで、わたくしの周囲にはいつも誰かがいましたもの。わざわざ友人になってほしいとお願いしたことなど、一度もございませんわ」
オクタヴィアは少しだけ顎を上げた。
そして、どこか照れくさそうに視線を逸らす。
「……ですから、あなた方が教えてくださる?」
しばらく、誰も何も言わなかった。
オクタヴィアは内心で眉をひそめる。
(……何ですの、この沈黙は)
まさか、何かおかしなことを言っただろうか。
そう思った次の瞬間、エレノアが勢いよく立ち上がった。
「オクタヴィア様……!」
「な、何ですの?」
「もちろんですわ!」
エレノアの瞳が潤んでいる。
「わたくし、とても嬉しゅうございます!」
「ちょっと、エレノア。ここは食堂ですわよ」
「申し訳ございません。でも……!」
フェリシアが慌ててエレノアの袖を引き、ナタリアも周囲の視線を気にしている。
オクタヴィアは額へ手を当てた。
(……友人になるというのは、随分と騒がしいものですのね)
しかし、嫌な気分ではなかった。
むしろ、少しだけ楽しいとさえ思ってしまったのである。
◇
午後の授業を終えたオクタヴィアは、図書室へ向かう途中で一人の令嬢と出会った。
「あ……ローゼンフェルト様」
控えめな声で呼びかけてきたのは、ミレイユ・ハーシェル子爵令嬢だった。
柔らかな金茶色の髪を揺らしながら、彼女は少し緊張した様子で一礼する。
「ごきげんよう、ミレイユ。お元気そうですわね」
「はい。おかげさまで」
ミレイユは小さく微笑んだ。
以前、オクタヴィアは彼女が母親の手で仕立ててもらったドレスを、皆の前で笑いものにしたことがある。
そのことを謝罪した際、ミレイユはいつかもう一度、あのドレスを着たいと話していた。
「そういえば、以前のお話なのですけれど」
オクタヴィアが切り出すと、ミレイユは不思議そうに首を傾げた。
「何でしょうか?」
「お母様がお作りになったドレスのことですわ」
その言葉に、ミレイユは少しだけ目を見開いた。
「……あのドレス、ですか?」
「ええ。もう一度お召しになるとおっしゃっていたでしょう?」
ミレイユはしばらく黙っていたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「……実は、今度のお休みに着るつもりなんです」
「あら」
「母が王都へ来ることになりまして、一緒に小さなお茶会へ出席する予定なのです。そのときに、あのドレスを着ようと思っています」
オクタヴィアは思わず表情を和らげた。
「それは素敵ですわね」
「……ありがとうございます」
ミレイユは少しだけ頬を赤くした。
「以前は、もう二度と着られないと思っていました。でも、母があのドレスを作ってくれたとき、本当に嬉しかったことを思い出して……」
彼女は胸元へそっと手を添えた。
「やっぱり、好きなものは好きだと言いたいなって」
オクタヴィアは静かに頷いた。
「ええ。それがよろしいと思いますわ」
ミレイユは少しだけ驚いたように顔を上げた。
「……ローゼンフェルト様」
「何かしら?」
「以前、謝ってくださったときも思ったのですが……本当に、お変わりになりましたね」
オクタヴィアは僅かに眉を上げた。
「最近、そればかり言われますわ」
「ふふっ、申し訳ありません」
「謝る必要はございません。ただ、わたくしは相変わらず、少々口の悪い人間ですわよ」
ミレイユは小さく笑った。
「……そうかもしれませんね」
「……あなた、今のは否定してくださるところではなくて?」
「あっ、いえ、その……!」
慌てるミレイユを見て、オクタヴィアは思わず笑ってしまった。
「冗談ですわ」
「も、もう……ローゼンフェルト様」
ミレイユもつられるように笑う。
その笑顔は以前よりもずっと自然で、オクタヴィアは少しだけ安心した。
自分が傷つけたものを、完全に元へ戻すことはできない。
けれど、ミレイユがもう一度好きなドレスを着ようと思えるようになったのなら、それは何より嬉しいことだった。
「お茶会、楽しんでいらっしゃい」
「はい!」
ミレイユは明るく頷いた。
そして、少し迷ったあと、控えめに口を開く。
「あの……ローゼンフェルト様」
「何でしょう?」
「もしよろしければ、今度そのドレスを着たときのお話を聞いていただけませんか?」
オクタヴィアは目を瞬いた。
それから、ゆっくり微笑んだ。
「もちろんですわ。楽しみにしております」
ミレイユは嬉しそうに一礼し、軽い足取りで去っていった。
その背中を見送りながら、オクタヴィアはふと思う。
(……ああ、そういうことなのかもしれませんわね)
友人というものは、誰かに命じて作るものではない。
相手の話を聞きたいと思ったり、また会いたいと思ったり、そんな些細な気持ちを少しずつ重ねていくものなのだろう。
前世では当たり前だったことが、今になってようやく分かった気がした。
◇
翌日の昼休み。
オクタヴィアが食堂へ向かうと、いつもの席には既にエレノアたちが集まっていた。
「オクタヴィア様、こちらですわ!」
エレノアが嬉しそうに手を振る。
オクタヴィアは優雅に歩み寄り、椅子へ腰を下ろした。
「ごきげんよう、皆さん」
「ごきげんよう!」
フェリシアとナタリアも笑顔で挨拶を返す。
昨日までと何も変わらないようでいて、どこか少しだけ空気が違っていた。
オクタヴィアはその違いを不思議に思いながら、運ばれてきたお茶へ手を伸ばした。
すると、フェリシアが控えめに口を開く。
「そういえば、オクタヴィア様」
「何かしら?」
「昨日、友人の作り方を教えてほしいとおっしゃっていましたでしょう?」
「……ええ」
「でしたら、まずは一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」
オクタヴィアは少しだけ眉を上げた。
「何ですの?」
フェリシアは一瞬だけ躊躇したあと、意を決したように答えた。
「……人のお話を、最後まで聞いていただけると嬉しいです」
オクタヴィアは固まった。
「…………はい?」
ナタリアが小さく頷く。
「その……オクタヴィア様は、ときどきお話の途中で結論をお出しになりますので」
「えっ」
エレノアも少し困ったように微笑んだ。
「わたくしも、以前から少しだけ気になっておりました」
「……ちょっと、お待ちなさい」
オクタヴィアは三人を見渡した。
「それは友人以前の問題ではなくて!?」
三人は顔を見合わせた。
そして、エレノアが控えめに頷いた。
「……そうかもしれませんわね」
「エレノア!」
思わず声を上げると、三人が楽しそうに笑った。
オクタヴィアは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに自分でも可笑しくなってしまった。
誰かが自分へ意見すること。
自分がそれに言い返すこと。
そして、互いに笑い合えること。
以前の自分なら、きっと許さなかっただろう。
けれど今は、そのやり取りが少しだけ心地よい。
(……なるほど。友人というのも、悪くありませんわね)
オクタヴィアは小さく微笑み、カップを持ち上げた。
その様子を見たエレノアが、嬉しそうに声をかける。
「オクタヴィア様、明日のお昼もご一緒していただけますか?」
「もちろんですわ」
オクタヴィアは当然のように答えた。
「わたくしがいなければ、あなた方も寂しいでしょう?」
フェリシアが少しだけ笑った。
「……はい。とても」
ナタリアも頷く。
「ええ。ですから、明日もぜひ」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
オクタヴィアは満足げに頷き、もう一口お茶を飲んだ。
悪役令嬢として生きてきた十五年間。
誰かに慕われることは、当然だと思っていた。
けれど、誰かと友人になるということは、それとは少し違うらしい。
自分が相手を選ぶだけではなく、相手にも自分を選んでもらう必要がある。
そして、その関係を続けていくためには、きっと互いに歩み寄らなければならないのだろう。
少々面倒な話ではある。
けれど。
(……まあ、悪くありませんわね)
そう思えるようになったことが、オクタヴィアにとっては何より大きな変化だった。




